(3)
「なんかね、サユもじつは、レンの大ファンだったんだって!」
知っている。ファンクラブにも入っているのだと、昨日、沙優海本人の口から聞いたばかりなのだから。
「でね、ほら、一昨日うちの学校に現れた山田太郎さん。彼の話を、ハルちゃんからいろいろくわしく聞きたいんだって」
その沙優海はといえば、右斜め前方、昨日湯川が座っていた席に、あたりまえのように座っていた。
「……んで……」
「ハルちゃん、なんか今日も調子悪そうだから今回は遠慮するって。また今度、ゆっくり教えてあげて? 体調よくなったらでいいからさ」
今日もキツかったら、あんまり無理しないほうがいいよ。隣に座る湯川は親切面で、さも遙飛の躰を本気で案じているかのようにそんなことを口にする。保健室に行くなら先生に言っておいてあげるね。授業のノートも、ちゃんととっておくから、と。昨日、遙飛の不在中に平然と男の姿で自宅を訪れておきながら。
逃げても無駄だ。学校から逃げれば安心などと思ったら大間違いだ。
暗に脅しをかけておきながら、今度は女子生徒に成り変わって無邪気なクラスメイトを装い、笑顔を向けてくる。
千草と漣に出会った直後に現れた人物。ごく自然なふりをしてクラスに解けこみ、じわじわと近づいて、親しいそぶりで遙飛との間合いを確実に詰めてくる。
目を見ればわかる。湯川は、遙飛に笑いかけているのではない。嗤っているのだ。ちっぽけで、どこまでも無力でしかない虫けら同然の存在にすぎない遙飛を。
蔑み、嘲笑い、心の底から嫌悪――否、憎悪していた。
凍るような眼差しで遙飛を射貫きながら、おなじ口が遙飛を気遣う。そして、昨日沙優海と話した内容を、まるで自分が遙飛とやりとりしたことであるかのような口ぶりで話題にする。
レンのファンクラブに入ってるって話、昨日ハルちゃんと話したけど、ビックリだよ~。なんと、サユも会員だったんだって! レン、最近ますます勢いに乗ってきてるもんね。この調子だと、うちのクラスだけでも、あと何人かはファンクラブ入ってるコいるかも。ハルちゃんのイトコさんも、あれだけなりきっちゃってたら、きっと追っかけのコたち、結構いるよねぇ。ハルちゃん、親戚の人のことだから謙遜してたけど、山田さん、絶対レンにソックリだったもん。本人じゃないなら、一卵性の双子って言われても通用しちゃうくらい。あのあとあたし、もう一回莉乃ちゃんにも確かめたんだけどね――
「――めろ……」
遙飛の口から、ポツリと低い呟きが漏れた。気づいた湯川が、遙飛を振り返る。不思議そうなその表情さえ、わざとらしすぎて吐き気をおぼえた。
「ハルちゃん?」
「……めろよ」
遙飛はふたたび呟いた。机の上から左隣へと視線を移す。ぶつかった先にいる相手を、鋭く睨みつけた。
湯川はさらにわざとらしく、ビクリと反応してみせる。直後に戸惑ったような、機嫌をとるような愛想笑いを口許に浮かべた。
「あ、ごめん、ね? あの、もしかしてあたし、なんか気に障ること、言っちゃった?」
ビクビクおどおどとした、媚びを滲ませる卑屈な作り笑い。だがその眼差しは、どこまでも凍るような冷たさを湛えていた。
「具合よくないのに、ひとりで勝手に浮かれすぎちゃったかな。それともイトコさんの話題、タブーだった? 昨日ハルちゃん、そのせいで大変な目に遭っちゃったもんね。気分悪くしちゃったらゴメンね? イヤだったらもう言わな――」
「やめろっつってんだろっ!!」
怒声を放つなり、遙飛は勢いよく立ち上がって湯川の胸倉を掴んだ。
「ちょっ、遙飛っ!」
クラス中の注目が集まるなか、黙ってやりとりを見守っていた将輝が仰天して机越しにふたりのあいだに割って入った。
「落ち着け、ハル! おま、女の子相手になにやってんだよっ」
あわててとりなしながら、湯川のシャツを掴み上げている遙飛の指を1本ずつはずしていく。
「体調イマイチだからって、さすがにこれはやりすぎだぞぉ。普段メチャクチャ温厚なおまえがここまでガチギレとか、珍しすぎて明日大雪か?って感じだけど、とりあえず紳士として、女の子にこういうのはやめとこうな?」
言いながら、将輝は遙飛をなだめるように軽く肩を叩いた。
「『乱暴な篠生くん』なんて、おまえのキャラじゃねえし。そもそもいま、そんなムキになって怒るような会話の内容じゃなかったろ。なんだ? 飲んだ風邪薬かなんかのせいで、沸点低くなってるか?」
わざとらしいほど明るい声で、将輝はまくし立てた。だが、遙飛は殆ど聞いていなかった。
「……女、の子?」
ポツリとした疑問形を受けて、将輝がすかさず「そ、そ、そ!」と頷いた。
「男子たるもの、いかなるときにも婦女子には優しく穏やかに。な?」
気安い調子で伸びてきた将輝の手を、遙飛は乱暴に振り払った。
「はる――」
「なに言ってんだよっ! こいつのどこが『女の子』なんだよっ!」
ヒステリックに尖った声が、シンと静まりかえった教室内に響きわたった。
「おまえだって昨日見たじゃん! 体育の授業中に俺に飛んできたボール、こいつが弾き飛ばして、そのあと教室で着替えもしてたろ? この席には小柳がいて、こいつは向こうの席に座ってたし、それ以前にこいつ、そのまえまではクラスにすら存在してなかったっ」
「おい、遙飛!」
「なにみんな、あっさり騙されてんだよっ。こんな奴、一昨日までいなかったじゃないか! そんで昨日はたしかに男だった。なのに、なんでいきなり女になってんだよ。おかしいだろっ!?」
悲鳴に近い遙飛の声だけがあたりに響いた。唖然とした様子でそのさまを見ていた将輝が、やがて無言でかぶりを振る。それからゆっくりと口を開いた。
「おかしいのはおまえだよ、遙飛」
「は? なに言って――」
すぐさま反論しようとする遙飛を遮って、断言した。
「昨日、体育なんかなかったろ?」
思わず絶句する遙飛に、将輝は目顔で黒板わきの掲示板を示した。遙飛の目が自然、目立つ位置に貼られた時間割に吸い寄せられる。一覧を確認したその目が、次第に大きく見開かれていった。
バカな。最初に脳裡に浮かんだのは、そのひと言だった。昨日、体育の授業があったのは、1限の日本史と3限の現国のあいだ。2時間目で間違いないはずだった。だが、時間割表をどれだけ確認しても、どの曜日にも2限に体育が設けられている日はなかった。
「そんな……、だって……」
それ以上の言葉が出てこない。そんな遙飛の肩に、将輝は手を置いた。
「遙飛、あんま無理すんな」
心配といたわりと憐れみが混ざり合った口調、そして眼差し。愕然としたまま、遙飛は力が抜けたように椅子に座りこんだ。
「ハルちゃん、ごめんね」
深く傷ついた様子で湯川が詫びる。けれども遙飛は見逃さなかった。泣くのを堪えるように俯き加減で静かに席に着いたその口許には、酷薄な笑みがしっかりと刻みこまれていた。




