(6)
「え……、それってまさか、生まれたときから、とか?」
「そうそう。もちろんそのことに気づいたのは物心がついて以降の話だけど、でも、千草宗幸としての人生のほかにも、ディルレインだった自分のことはちゃんと把握してた。漣もね、それはおなじだったはずだよ」
「変だと思わなかったんですか? だってそんなの、どう考えてもおかしい……」
「まあ、普通一般の感覚からしたら、そうなのかな」
千草は従容として、他人事のように呟いた。
「でも、気づいたときにはあたりまえのように自分の一部として存在してたし、とくに変だとは感じなかったよ? それにいまは僕も、ただの人間だしね」
そんな簡単に、割りきってしまえるものなのだろうか。遙飛は唖然とした。
「慣れちゃうと、べつにどってことないんだよ。幼少期の自分も過去の記憶。それ以前のディルレインも、さらに過去の記憶。ただそれだけ」
「で、でもっ、違う世界……だったんですよね?」
「僕の場合、幼いころから日本と海外を行ったり来たりしてたからね。イオニアもそのうちのひとつ、ぐらいの感覚かな」
「いや、だけどっ、ディッ、ディルレインはにっ、人間じゃなかった…って……。俺はその辺、ちょっとよく、わかんない、です、けど……」
「まあたしかに、その当時のほうが能力面では高かったかな。けど、いまはほら、これだけ科学が発達してて、いろんな文明の利器が溢れてるぶん、さほど不自由には感じないかなって」
ね?と逆に訊き返されて、遙飛は返答に詰まった。
「べつに自分で飛んだり走ったりしなくても、空も海も陸も、こうして便利で性能のいい乗り物を利用できるし、離れた相手にわざわざ『気』を飛ばして意思疎通を図らなくても、用があれば、電話やメールやメッセージなんかで気軽にやりとりだってできる」
「それはそう、ですけど……」
では、ディルレインだった当時は、かなりのスピードで走ったり飛んだり、あるいは離れた相手と頭のなかだけでやりとりできた、ということなのだろうか。千草の話を聞きながら浮かんだくだらない考えに、遙飛は自分でバカらしくなって即座に否定した。
「それにこっちの世界でも、幼少時に神童って騒がれるような突出した能力を備えた子供が成長に伴って普通の大人になっていく、なんてのも珍しくはないしね。ディルレインだったころの能力も、その一部だったと思えば」
神童は、空を飛んだり車並みのスピードで走ったり、遠く離れた相手と道具も使わずにやりとりしたりはできないと思うのだが。
内心で思いはしたものの、余計なことを言えば、さらに不必要な混乱を招くだけである。言ったところで、だからなんだと返されるのがオチだろうことも充分予測できた。そのうえで、いくら能力が高くても、神童には人以外の姿に変わることもできないよね、などと追い打ちをかけられれば、反応に困るのは自分である。ゆえに遙飛は、心に浮かんだ内容を言葉にすることなく、別の疑問に置き換えることにした。
「あの、じゃあ、いまのままでも、べつに不都合はないってことですか?」
そうだ。昨日漣は、力の解放がどうとか、王としての責任を果たせだとかいうようなことを言っていた。だが、結局遙飛がなにもしなくても、ついいましがたの『なにか』についてはあっさり対応してくれたようではないか。だったら、このままでもいいのでは。
ふとよぎった考えに、少しだけ気が楽になった。だが、千草は案に相違して苦々しげな表情でかぶりを振った。
「それで済ませられたらよかったんだけどね」
そんなに都合よくいかないからこそ、千草と漣は遙飛のまえに現れたのだ。それ以前にやはり、遙飛自身も当事者であるという事実から逃れることはできない――千草の口ぶりから、あらためてそのことを思い知らされた。
一度浮上しかけた気持ちは、余計に重く沈むことになった。
「さっき、僕らはただの人間に生まれたって言ったけど、あれね、じつはちょっと語弊がある」
やわらかな語調のまま、千草は言った。
「僕も漣も、特別な武器を持たなくても、そこそこのランク程度なら、それなりに処理できる」
「どう、やって?」
「ん~、あらためて口で説明するのは難しいんだけど、なんだろう、こっちの世界で言うと、『気』を飛ばす、みたいな言いかたがいちばん近いのかな」
「『気』?」
「そうそう。目には見えないけど、大気とか大地とか、あるいは人間も含めたいろんな生き物の生命とか。そういうのが発してるエネルギーを自分のなかに取りこんで、違うエネルギーに転換して攻撃力として放出する、みたいな」
昨日、黒い固まりが自分のまえに現れたとき、まわりこんできた漣の後ろで弾き飛ばされたように見えた。あれは、実際そのようにして漣が撃退したということだろうか。だとすれば、自分は知らないうちに、漣に護られていたことになる。
「そういうやりかたが、すべてに適用できればよかったんだけどね」
「ダメ、なんですね?」
「やっぱりある程度のレベルを超えちゃうと、子供だましは通用しないかな」
昨日のアレを上回るレベルではあったものの、先程の『なにか』については漣ひとりで対応することができた。思った直後に遙飛は慄然とした。あのまま遙飛が早退せずにクラスに居つづけたなら、かなりの数の級友たちに被害が及ぶところだった。千草から、そう聞いたばかりではないか。
それほどの殺傷力、攻撃力を持つものでさえ『対応できる』のだとしたら、ふたりが手に負えないとするレベルは、いったいどれほどのものになるのか。
遙飛は今後、本当にそんなものに狙われることになるのだろうか。
知らず知らずのうちに、緊張で全身が硬張っていった。
得体の知れないものに自分ひとりが狙われ、襲われるだけでも充分怖い。だが、そのせいで、周りが巻きこまれるのはもっと嫌だった。家族が。友人が。先生が。ただ偶然、その場に居合わせただけの見ず知らずの通りすがりの人たちが――
多くの人間が犠牲になって次々に生命を奪われていくさまを想像するだけで、心臓が冷たくなる気がした。
その一方でまた、漣が処理したというものについて、まだ見ていない、という思いもあった。
ただ、嫌な感じがした。それだけだった。実際に怪しいなにかを目にしたわけでもなければ襲われたわけでもない。そうだ。昨日のアレだって、べつに遙飛に襲いかかってきたわけではなかった。目の前に突然現れて、気味が悪かった。それだけのことだった。
漣に追いかけられて夢中で逃げている最中に見たのがはじめてで、それ以前にあんなものに遭遇したこともなければ、目にしたことさえなかった。
そもそもあれを、『目にした』と言えるのだろうか。たった数メートル。それだけの距離にありながら、その姿はぼやけて判然としないままだった。果たしてそこに、実体はあったのか……。
千草を見る目に、疑惑が宿る。ひょっとして、自分を担ごうとしているだけではないのか。
理由はわからないし、素人相手に少し手が込みすぎている気もする。だが、遙飛の目撃した昨日のアレが、プロジェクターなどを使って浮かび上がらせた映像でないという保証がどこにあるだろう。
そんなふうに思いはじめると、千草や漣から聞かされた話を真実として受け容れることより、これらはすべて、自分をターゲットに仕組まれた大掛かりなドッキリだったのだと笑い話にされるほうが、よほど納得できる気がした。
そうだ。そのほうがずっと現実的で理解できる。こんな有名な人たちを仕掛け人にして、自分のような素人の子供相手に度肝を抜くような設定をもっともらしく持ちかけて、その気になったところでネタばらしをして全国ネットでマヌケ面を笑いものにする。悪趣味極まりないが、これはおそらく、そういう類いの企画だったのだ。なんだ、そういうことか。
「今日、学校で、変わったことがあったよね?」
自分の思考にとらわれていた遙飛は、唐突に声をかけられてビクッとした。
「は、……え?」
「いつもと違うこと、なにかなかった?」
我に返ると、黒い瞳がまっすぐに遙飛を視つめていた。
「平日の昼間に、僕みたいな会社勤めの人間がこんなふうに現れること自体不自然だと思うけど、今日、僕がタイミングよくあの場所にいたのは、その異変と関係してる」
「え……、なん、で……」
「会社勤めっていっても、かなり融通を利かせられる立場にいるからね」
人好きのする笑顔を浮かべた千草は、すぐさま真顔に戻って言った。
「漣の処理した1匹以上に不穏な気配が漂ってる。仕事のスケジュールを変更して駆けつけずにはいられなかった僕の勘は、当たってた?」
遙飛は、ゴクリと息を呑んだ。