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墜落の途中  作者: 香月鐘二郎
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第六章 見えない死体


 忖度殺人。


 という言葉がある。

 忖度そんたくとは、「他人の気持ちを推し量る」という意味である。

 忖度殺人というのは、権力者の気持ちを推し量り、手を染めてしまう殺人のことである。

 今回の事件がそれにあたる、というのである。

 30年前の事件である。当時高校生だった高木春夫を、投身自殺と見せかけて殺害したあの事件だ。

 当時不良グループであり、高木春夫をいじめていた須藤正輝らが共謀して、試験問題盗難事件の犯人に仕立て上げた彼を殺害した事件である。試験問題を盗難せしめたのは、当時生徒会長であった向川幸二郎の気持ちを忖度した須藤グループの先走りであり、また高木春夫を殺害したのも向川幸二郎の胸中を思い量った末の勝手な行動である。

 従って向川自体には何の責任もない、というのである。


 六本木ヒルズの森ビル52階に位置する和食レストランの個室だ。

 白岩弁護士と響子ママが向き合っている。

 テーブルの上に料理はまだ出てはいない。食前酒が出されているだけだ。

 代りに何枚かの報告書が提出されている。

 31年前の墜落事件に関する報告書だ。

「響子さん。これはどういうことでしょう」

 弁護士は言った。

「私はこのような調査をお願いした記憶はありませんが」

「はい。私どもの気持ちとしてやらせていただきました」

「気持ち?」

 白岩は怪訝な表情を浮かべる。

「もともとこの件はあさみさんの依頼なのですが、あさみさんの「お父さんを捜して下さい」という依頼は、残念ながら叶えることが出来なかったので、代わりと言ってはなんですが、お父様の亡くなられた理由を調べて差し上げようと思った訳です。これはその過程で分かった事実なんですが」

「余計なことを・・・」

 白岩弁護士は吐き捨てるように言った。

 響子は涼しい顔をして、

「で、どういたしましょう。勝手なんですがこの調査報告は、あさみさんより先生にお見せしたほうがいいと判断した次第なのですが」

「私を脅迫するつもりですか?」

「とんでもございません。これは30年前の出来事です。法的になんの意味もありませんわ」

 白岩は強い目で響子の目を見据えた。

 響子は毛ほども表情を変えない。

 やがて諦めたように、白岩は視線を逸らした。

「わかりました。この件は、何卒穏便にお願いします。何分、向川はいま、微妙な立場におりますので」

 そう言って白岩は懐から分厚い封筒を取り出した。

 白岩は向川議員の顧問弁護士である。

 都議会のボスである向川は、現在新都知事との間の軋轢に新聞紙上を賑わせている最中だ。余計な火種を抱えたくないというのが、白岩弁護士の見解である。

 そして口にしたのが冒頭の言葉であった。

「もちろん、承知しておりますわ」

 響子はにこりとした。

「それと、これ以上この件に関わるのはやめていただきたい」

 白岩は更に強い目をした。

「この件と仰るのは丸の内の投身自殺の件ですか?」

「・・・・」

「私はあくまで「調査の過程で」と申したはずです。調査はまだ終わってはいませんわ」

「響子さん」

 白岩が声を荒立てた。

「失礼します」

 響子は静かに立ち上がり、食事前のテーブルを後にしたのだった。


「ママ」

 エレベーターを出たところでキュートが駆けつけた。

「首尾は?」

 響子ママは黙って分厚い封筒をみせた。

「やったね、ママ」

 そう言って封筒の中身を改める。

「へえ、結構入ってるよ。さすが一流弁護士。違うね」

「さてこれで、相手がどう動くかということよね。いよいよ大詰めだわ」

 響子たちはサングラスをしながら外にでる。

「ん。でも、そうすると例の飛び降り事件が問題よね。飛び降りた瀬名パパはどこに消えたのか?」

「うーん。どうかしらね」

「とか言いながら、ある程度の想像はついているんじゃないの?」

「秘密」

 うふふと笑いながら駐車場の方に曲がると、駐車場に待機していたシンジが駆け寄ってきた。

「どうした? シンジ」

 息せき切るシンジのキュートは尋ねる。

「わかった。思い出したんだよ」

 シンジは喘ぎながら言った。

「何を?」

「だから、あさみちゃんの親父さんがマンションから飛び降りた時、何かが違っているって言ったろう?」

「はあ、何の話?」

「だから、駐車場で・・・」

 シンジは焦れったそうに言う。

「ああ、事件の前と後では何かが違うっていう、あれ?」

「そうそう、その理由がわかったんだよ。駐車場の車を観ていて思い出したんだ。あれは車だ。駐車場に停まっていた車の位置が、事件の前と後とでは違っていたんだよ」

「ちょっと待って」

 響子が口を挟んだ。

「シンジ君。それ本当?」

「ああ、間違えねえ」

「その車の位置、正確に覚えている?」

 何故か響子が食いついた。

「ああ、俺は記憶力はいいほうなんだ」

 そう言ってシンジは地面に、駐車場と車の位置を書いて見せた。

 それを見た響子は嬉しそうに微笑んだ。

「なるほど。そういう訳だったのか」

「ママ、何かわかったの?」

 キュートが問いかける。

「うん。お陰ですべての謎が解けたわ。実をいうとね、最初にあなたからの報告を受けたとき、何となく投身自殺のトリックが解った気がしたの。でも、なんでわざわざ8時間も死体を消したのか、その理由が解らなかった。それがいまのシンジ君の話で解ったのよ」

 そう言いながら響子ママはシンジの肩を叩いた。

「お手柄よ、シンジ君」

 


 雨が降っている。

 突き刺すような雨だ。湾岸低気圧が、大陸から張り出してきた高気圧に触れ、急速に冷やされた結果である。

 豪雨といっても良い。

 ビルの排水管が壊れ、雨水が飛沫いている。排水溝が溢れ、汚い排水が表通りまで流れている。

 六本木外れの飲み屋街。

 降りしきる雨の中に、街灯の明かりが虹色に滲んで見える。道路の片隅に置かれた金属製のゴミ箱が、雨に打たれてカン高いドラムのリズムを刻んでいる。

 暗い電柱の陰に飢えた2頭の野良犬のように、ふたりの男がジッと立ち飲み居酒屋の明かりを見詰めていた。

 しばらく前に店に入った男を見張っているのだ。

 男が店を出たら、その後をつけるつもりだ。男が人気のない所を歩くまで。

 男達は辛抱強かった。

 降りしきる雨の中、小一時間はそこで粘っていたのだ。

 ややあって、ようやく目的の男が店を出てくる。小汚いビニール傘を差して、ほろ酔い加減で暗い夜道を歩いていく。

 男達が動き出した。

 雨の夜道ほど尾行に適した環境はない。雨のカーテンが視界を消してくれるし、雨音は足音を奪ってくれる。

 男達は適度な距離を開けて、目的の男を尾行はじめた。

 大通りを暫く歩いた後で、目的の男が狭い路地のほうに足を向けた。

 一瞬、見失った男の後を追って曲がり角まできた時に、その曲がり角からふたりの男が現れた。

 ずんぐりとした男と、背の高い若者と。

 追ってきた男達が道を開けようとすると、前方からきたふたりが道を塞ぐように移動する。

「てめえ」

 ふた組の男たちの距離が縮まったせいで、お互いの顔がはっきりと見えたようだ。

 お互いに知らない顔ではない。

「権藤さん」

 ひとりの男がその名を呼んだ。

「よう。石田に新宅か。久しぶりだな」

 額から流れ落ちる雨だれを拭いもせずに権藤は言った。

「こんなところで何をしているんですか?」

 石田と呼ばれた男が言った。

「待っていたんだよ、お前らを。少し訊きたい事があってな」

「訊きたいこと?」

 新宅は少し距離を取った。静かな殺気が流れ始めた。

「丸の内のタワーマンションの件だよ。知らないとは言わせねえぜ。千賀さんは大事な仕事には、必ずお前らを使うからな。今回のように・・・」

 にやりと笑う。

「何の話ですか?」

 石田が身構えた。その手にはサバイバルナイフが光っている。もうひとりの新宅と呼ばれた男も、携帯の特殊警棒を取り出した。

「権藤さん」

 権藤の横に立った長身の男が、雨に濡れたスカジャンを脱ぎながら問うた。眼はふたりの男達を睨みつけたままだ。

「こいつらがタケシを殺ったんですか?」

「ああ、まずは間違いねえだろうよ」

「そいつは都合がいい」

 シンジは凶暴な牙を剥きながら言った。

「油断するなよシンジ。こいつら手強いぞ」

「うす」

 それが闘いのゴングになった。

 特殊警棒を振り上げた男が、シンジの顔面にそれを叩きつけた。

 シンジは雨に濡れたスカジャンを振り回してそれを受けた。

「しゃあ!」

 同時にシンジの長い脚が男の胴を払う。新宅は水しぶきを上げて道に転がった。


 その脇では権藤と石田とが睨み合っている。

 時折キラリキラリとナイフが輝くたびに、権藤の身体から血しぶきが舞う。浅く身体を傷つけてはいるが、それがどれ程の傷とも思えない。

「ステゴロの権藤さんも、ナイフが相手では勝手が違うようですね」

 石田がうそぶく。

「それはどうかな」

 権藤が足を振り上げた。石田が上体逸らしてそれを交わしたが、権藤の狙いはそこではなかった。

 靴先から飛び散った泥水が、石田の目に入り一瞬顔を背けた。

 その機を逃さず、権藤は懐に飛び込んだ。

「ぬおッ」

 飛び込んでくる権藤に、石田がナイフを振り下ろす。

 グローブのような権藤の拳が、真下からそれを弾き返した。

 ナイフが手を離れ、雨しぶきの中を舞い上がる。

「はあっ」

 権藤が吼えた。上体を跳ね上げ、額を顔面に叩きつける。

 メリッと、鼻頭の潰れる音がした。

 更に権藤の右アッパーが、石田の顎先を跳ね上げる。

 ドウッという音を残して、石田は泥水の中に倒れ落ちた。

 その腹を権藤の足が踏みつける。

 ゲボッ。

 石田は胃液を吐きだした。

 更に踏みつける。

 更に踏みつける。

 更に踏みつける。

 踏む。踏む。踏む。踏みつける。

 とうとう石田は動かなくなった。

 シンジはどうした?

 息を吐きだした権藤がシンジを目で探したとき、突然石田が立ち上がった。権藤の身体に身体を重ねる。

「馬鹿め」

 真っ赤な顔で石田が言った。

「ナイフは一本だけとは限らないぜ」

 重なったふたりの身体の間から、真っ赤な血潮がしたたり落ちていた。


 シンジは両手で頭を庇い、猫のように丸くなっていた。

 嵐のように叩き付けて来る特殊警棒の攻撃を、丸めた背中で耐えているのだ。

 背中に火のような暑さが猛っている。骨が軋み、肉が弾ける。

「ちくしょう!」

 頭を下げ敵の胸元に突っ込む。

 新宅はその顎先に下から膝を突き上げた。顔が上を向く。

 やべえ。

 視界が暗くなる。その右肩に激痛が走った。

 鎖骨がいったか?

 顔面に硬いものが当たる。固くて冷たいものだ。

 血なのか雨水なのか分からない。

 目蓋の奥にタケシの顔が浮かぶ。

 タケシは何とも言えない悲しい顔をしていた。

 タケシ、タケシよお。何でお前は泣いているんだ。

 畜生。泣いているのは俺じゃないか。

 伸ばした指先に、濡れそぼったスカジャンの袖が触れる。袖を掴み、夢中で振った。

 スカジャンが新宅の脚に絡み、大地に転がった。

「ぬがァ!」

 気力を振り絞り状態を起こした。スカジャンをその首に巻きつける。

 右腕が動かない。

 左手で袖。反対の袖を口に咥えて締める。

 締める。締める。締める。

 死ね。死ね。死ね!

 タケシの顔が浮かぶ。

 畜生。

 お前は何で笑ってくれないのだ。

 その肩を誰かが叩いた。

 顔を上げると、権藤が立っていた。

「もう、いい。死んじまうぞ」

 権藤は言った。ネックガードが裂け顔が見えていた。顎先の真新しい傷口から血が滴っていた。

 左腕から登山ナイフが生えていた。

「お前の勝ちだ」

 気が付くと、雨の中にふたりの男達が倒れていた。

「うおおおおお!」

 シンジは天に向かって叫んだ。

 勝利の雄叫びであった。



 降りしきる雨の中にその男は立っていた。

 暗い煽り火がその瞳で燃えていた。

 唇に固い決意が浮かんでいる。

 ねずみ色のコートが雨に濡れている。

 男の前で鬼島刑事は頭に手を当てていた。

 やれやれ。

 というように、鬼島は頭を振った。その坊主頭にも雨は降りしきる。

「千賀さん。俺は本当に口をつぐむつもりだったんだぜ」

 軽く酔っている。足元も少し怪しい。

 路地を曲がったところで、道の真ん中に突っ立っていた千賀に塞がれたのだ。

「あんたらはいい金づるなんだ。失いたくはないんだよ」

「鬼島」

 千賀は言った。地獄の底から絞り出すような声だ。

「お前、やり過ぎなんだよ」

 コートの胸ポケットから拳銃を取り出した。照準を鬼島に向ける。

「まじか?」

 鬼島が後ずさる。

「死ねや。鬼島!」

 千賀が吼えた。引き金が引き絞られる。

「ちょっと待てや。俺を殺すのもいいがな、その前に俺の隣にいる、この化け物娘を殺ってからにしてくれないか」

 気が付くと鬼島刑事の隣に、フードを被った細身の人間が立っていた。

 千賀は目を見張った。

 いまの今でそんな人物がそこにいるなんて、気がつきもしなかったのだ。

 視界には入っていたはずである。

 見えてはいたが、認識はしていなかった。それういうことなのか?

 千賀の背筋を、雨水とは違う冷たいものが流れた。

 フードの人物が一歩前に踏み出した。

 フードが外れ顔が見えた。

 暗い雨空が一気に華やいだ。キュートの花のような笑顔がそこにあった。

「こんなクソ虫の護衛なんて、ボクは嫌だって言ったんだよ。でもさ、ママがどうしてもって言うからさ」

 目の前で拳銃を向けられている者の口にするセリフではない。

 千賀は一瞬毒気を抜かれたが、すぐに気を取り戻しその顔に銃を向ける。

「ボクを撃つ気?」

 くくくっと笑う。

「無理だねえ、それは」

「何故だ」

 千賀は戸惑っていた。素人ではない。ヤクザに銃を向けられ、なんで笑っていられるのか。

「キミはボクを撃つことは出来ないよ」

「ふざけるな」

 引き金を引き絞る。

「雨だねえ」

 空を見上げてキュートが言う。まるで世間話をしているかのようだ。

「雨は針となってあんたを襲う。痛くて銃を持ってはいられない」

「何、ぬかしてんだ!」

 千賀が引き金を引こうとした時、突然鬼島が叫んだ。

「こいつの言っていることは、嘘じゃねえよ」

 異変が起きたのは、正にその瞬間だった。

 降りしきる雨の中に、キラリキラリと輝く銀色の針が混じっていたのだ。

 拳銃を構えた千賀の腕に肩に、無数の針が突き刺さる。

「ぬがァ」

 全身を激痛が走った。

 なんだ? これは。

 千賀の身体に刺さった針は、すぐに溶けて元の雨だれに戻った。しかし激痛はなくならない。

 膝を突いた。身体が震えて動けない。

 千賀はその場にうずくまった。

 その身体に冷たい雨が降りしきる。

「これでいいのかよ」

 うずくまった千賀を見下ろして鬼島が言った。

「うん。完璧」

 キュートが横に並ぶ。

「複数の人間がそれを認めると、心法はより掛かりやすくなるんだよ。サクラがいると、物は売れやすくなるでしょ、それと同じ。これを心法では「口あわせ」って言うんだけど」

 キュートはくすりと笑って、

「この名前、なんかエロいよね」

「馬鹿か」

 地面にうずくまっている千賀の腕を取り、鬼島は手錠を取り出した。

「こんな警官みたいな真似、本当はしたくはねえんだがよ」

 そう言って、その手に手錠を嵌めた。

「千賀優一。銃刀法違反、並びに殺人未遂容疑で逮捕する」

 降りしきる豪雨の中、千賀の号泣がこだました。



 東京丸の内タワーマンションの28階。白岩法律事務所応接室である。

 3週間程前、瀬名京太が証拠となるノートを燃やし、窓から飛び降りたというあの応接室である。

 響子ママは白岩弁護士と向き合って座っていた。キュートはその後方に立っている。

 あの雨の夜から既に5日程が立っていた。

 全身打撲と鎖骨骨折のシンジは、まだ病院のベットの上だ。左腕をナイフで貫かれた権藤も、本来ならまだ入院生活が必要だが、自主退院して姿をくらませている。

 千賀副会長と2名の部下が警察に逮捕された同じ夜、暴力団須王会・須藤会長の遺体が発見され、須王会は事実上解散となった。

 会長は自室で拳銃自殺をしているのを発見されたのである。

「あさみちゃんは、どうしておりますか?」

 響子はにこやかな笑顔を向けた。

「花小金井に親類がいるとかで、現在はそちらから学校に通わせております。卒業後は進学を希望しておりますので、私が後見人になって希望を叶えさせてあげたいと思っています」

 白岩は言った。

「そうですか。それなら安心ですわね」

「それで響子さん。本日はいかなる要件ですか?」

 白岩弁護士はやや景色ばった言い方をした。

「はい。あさみちゃんのお父さん、瀬名京太氏の墜落事故の件なのですが」

「また、その話ですか」

「今度は30年前の話ではありません。つい3週間前の話です」

「いい加減にして下さい。その件は詮索しない約束ではないのですか?」

 響子は首を振った。

「いいえ、これは殺人事件です。見過ごすわけにはいきませんわ」

「殺人? 殺人事件ですって」

 白岩は驚いて目を見張った。

「はい」

「瀬名は殺されたというのですか?」

「そう申し上げたのです」

「馬鹿な。あさみさんだって、あの時現場にいた若者だって、そちらのお嬢さん・・・」

 そう言ってキュートの顔を見上げる。

「・・・だって、飛び降りる所を目撃したはずだ」

「そうなの? キュート」

「いいえ」

 キュートはきっぱり言った。

「ボクは燃えかけたノート方に気を取られていて、窓の方は見ていなかった。だから直接飛び降りるのは目撃していないんだ。でも、皆がそういうので窓の方に駆け寄ってみた。窓の外には何もなかったよ」

「他の三人は見ていたはずだ。瀬名が窓から飛び降りるのを」

「それは違います。勘違いなのです」

 響子は言った。

「瀬名さんは飛び降りたのではありません。正確には飛び上がったのです」

「・・・・」

「動体視力のいいキュートなら、見破れたかも知れません。しかし普通のひとは28階の窓から外に飛び出せば、当然落ちるであろうという先入観から、まさか空中に飛び上がっただなんて思わないのが普通なんです」

「ち、ちょっと待って下さい。飛び上がったというのはどういう事ですか?」

 白岩は動揺を隠せない。

 響子は平然と言葉を続ける。

「文字通りの意味です。瀬名さんの身体には、ピアノ線のような見えにくい鋼線が着けられていたのでしょうね。彼が窓から飛び出した瞬間、屋上からそれを引っ張りあげたのです」

「馬鹿馬鹿しい」

「引っ張り上げた以上、そこには引っ張り上げた人間が存在したはずなんです」

「まさか」

 白岩の顔色が変わった。

「見つけ出したのか? その人物を」

 響子は頷いた。

「石田と新宅という須王会の構成員です。逮捕され、そう証言しています。また、彼らは岡元武史君を殺害した実行犯でもありました」

「・・・・」

「それと白岩さん。私は先程、瀬名さんがと言いましたが、あの時窓から飛び出したのは瀬名京太氏ではありません。坂上哲雄という、やはり須王会の構成員で、以前はスタントマンをしていた男です。これもふたりの証言を得ています」

「・・・・」

「瀬名京太氏はそれより20分程前に、28階のあの窓から飛び降りて亡くなっているのです。いえ、突き落とされて殺害されているのです」

「そんな馬鹿な話が信じられるか?」

 白岩は耐えられずに激昂した。

「私は彼の顔を見た。確かに瀬名だった。そうだ、あさみさんも見たはずだ」

「あさみちゃんがお父さんと言ったのは、あなたがそう言ったからです。あの時、室内は暗かった。外からの明かりを受けて、あの人の顔は逆光になっていたはずです。しかし、ここにお父さんがいるはずだと信じているあさみちゃんは、あなたの言葉に反応してそれをお父さんだと思い込んでしまったのです」

「私が間違えたというのですか?」

「いいえ」

 響子はゆっくり首を振った。

「あなたは最初から知っていたはずです、あれが瀬名さんではないことを。知っていてその名を呼んだ。飛び降りたのが、瀬名さんであることを印象づけるために」

「なんでそんな事を・・・」

「アリバイですよ。瀬名さんが飛び降りた時、あなたはここに居たというアリバイを作るためです」

 響子はにこりと笑った。

「わたしのスマホに電話を入れる少し前、恐らく瀬名さんはここを訪れたのでしょう。目的はあのノートをあなたに渡すためです。あなたに渡して、自分とあさみちゃんの生命を保証してもらうためにです」

「どういうことでしょう?」

「あなたは都会議員向川幸二郎さんの顧問弁護士です。そして向川議員は須王会と繋がっていた。ということは、当然あなたと須王会も繋がっていると考えるのが普通です」

「そんな事はない。私は須王会など知らないぞ」

「そうですか。学生時代のあなたは、向川さんとは懇意にしていたそうですね。あなたは向川さんが、須藤グループを陰で操っている事を知っていた。高木さんの偽装自殺の時も、瀬名さんを目撃者に仕立てたのは、あなたなのではないですか?」

「そんなのは根も葉もない想像だろう」

 白岩は額の汗を拭った。

「まあ、いいですわ。ノートを渡された聖夜君が行方不明になり、そして今度はあさみちゃんが誘拐されかけた。・・あ、そうそう聖夜君こと高木眞一郎君の遺体が、東京湾で発見されたそうですわね。犯人はいずれ須王会の誰かなんでしょうけど、まあそういうことで、瀬名さんはあなたに助けを求めた訳です。でも、瀬名さんは真実を知っている訳ですからね、放っては置けなかった。それにノートは回収してもコピーがあるかも知れない。それで何やかんやしている間に、あんな事になってしまった」

 響子は言葉を切った。

 しばしの沈黙が流れた。

「黙秘しても無駄ですよ。逮捕された須王会の構成員が証言していますから」

 白岩弁護士は全てを諦めたように、メガネを外すと顔を拭った。

「・・・私は、私は・・・殺す気はなかったんだ。もみ合っている内に、瀬名は窓から落ちてしまったのだ」

 そして彼は苦渋を舐めるように告白を始めたのである。


「それで慌ててあなたは須王会に連絡を入れたのですね」

「いや、須王会の千賀とふたりの男は最初からこの事務所にいました。すぐに善後策を協議して、近くにいたあのスタントマンの男とその部下を呼んだのです。同時にあなたに電話をして、あさみを連れてくるよう指示しました。墜落したのが瀬名であることを確認させるためです」

「墜落した瀬名さんの遺体は、あなたの車で隠したのですね」

「はい。私のフォルクスワーゲンは大きいですから、死体の上に置けばすっぽり隠れて分かりません。作業を終えた直後にあなた達が到着したのです。その後、計画通りみんなを28階の私の事務所に移動させました。上に上がるまでの間に、準備は整っていました。坂上はノートに火を点けた後で窓に駆け寄り、屋上のふたりが彼を吊り上げました。その後、スタントマンの部下が車を移動して、死体を表に出す手はずだったのです」

「でも駐車場に死体なんてなかったわ」

 キュートが言った。

「いいえ、死体はそこにあったのよ。あったけど、誰の目にも見えなかった。そうでしょう?」

 響子ママが言う。

「はい。とんでもないアクシデントが発生したのです」

「あなた達が偽装工作をしている間に、誰かが死体の上に車を、それもトラックを停めてしまったのね」

「あっ、それで」

 キュートが声を上げた。

「シンジが車の配置が違っていると言ったのか」

「最初からおかしいとは思っていたわ。単に時間をズラしてアリバイを作るだけなら、何も8時間も死体を隠す必要はないものね。そこに死体があったほうが自然だもの。でもそれは出来なかった。あなたはさぞ慌てたでしょうね」

 響子はいじわるな笑みを浮かべる。

「そうです。私は茫然としました。飛び降りたはずの人間が、トラックの下にいるなんてある訳がないからです。幸い私は警察の上層部に顔が利きます。それで彼らを誘導して、何とか車の下の死体に気付かれないようにしたのです。死体が風に流されて、落ちた場所から大分ズレたのも幸いして、何とか誤魔化せたのですが」

「翌日の朝にそのトラックの持ち主が車を移動して、ようやく瀬名さんの遺体は日の目を見るようになった訳ですね。それであのような不自然な飛び降り自殺が出来上がったのですが、それにしても」

 響子は皮肉たっぷりに、

「大変でしたね」

 と言った。

「響子さん」

 しばらくして白岩は口を開いた。

「あなたの仰る通りだ。瀬名君の件は認めます。自首もいたしましょう。しかし、向川先生はこの件にはまったく関与していない。私と須藤とが勝手に忖度して起こした事だ。それだけは信じて下さい」

「忖度殺人ということですか?」

「そうです」

 響子は白岩の目を見詰めた。白岩は目を逸らさなかった。

「確かに今のところ、向川先生が事件に係わったという証拠はないようですわね」

「ママ」

 キュートが言った。響子はそれを制して、

「証拠のノートもコピーもなくなってしまったのですものね。あれがあれば、話は別かも知れませんが」

 意味深な言い方をした。

 気のせいか白岩は少しほっとしたような表情を浮かべた。

 耳を澄ませれば、遠くからパトカーのサイレンが近づいて来る。

「もうじき警察がきます。そうしたら、お願いしますね」

 白岩は大きく頷いた後、響子に釘を刺した。

「例え証拠はなくとも、このような噂が広がれば先生のお立場は悪くなります。くれぐれも御控え下さい」

「わかっています。確かな証拠がない以上、私には何も出来ません」

 白岩弁護士は安心したように目を閉じた。

 それを眺める響子の唇にかすかな微笑が浮かんでいる。

 警察のサイレンが100メートル下の階下で止まった。


 

 それから1ヶ月ほどたったある昼下がり、響子ママ、キュート、シンジが「せせらぎ」のカウンターに集まっていた。

 シンジはあれから10日ほどで退院し、しばらくは鎖骨の固定ベルトをしていたが、今ではそれも取れて元気にしている。右の鎖骨に金属プレートが入っているという話で、1ヶ月後には経過観察に行くことになっているが、本人にその気はないようだ。

 テレビ画面では向川議員の証人喚問が始まっている。

 一同はそれを見るために集まったのだ。

 白岩弁護士と響子が会見したあの日、響子の通報を受けてやって来た警察に白岩は投降し、瀬名京太氏の殺害を自供した。

「動機はお金です」

 と、白岩は言った。昔用立てた資金を返す返さないの言い争いの最中、誤って窓から転落しのだという。その事実を隠蔽するために、娘のあさみの前で、あんな小芝居を打ったのだと説明した。

 30年前の事件は須藤グループのいじめによるものと判断された。拘留中の千賀優一がそう証言したからだ。

 向川議員の名前は一切ださない。

 どう見ても辻褄の合わないあやふやな説明だが、警察も検察もそれで納得した。白岩弁護士が向川議員の顧問弁護士であることは、皆知っていることだから、それこそ「忖度」したのである。

 しかしマスコミはそうは行かない。

 そういうあやふやな事実をほじくり返すのが彼らの仕事であるから。

 彼らは、どうしても30年前の事件と、今回の事件とを結びつけたかった。センセーショナルな事件の概要がそっくりである点を除いても、登場する人間関係がほぼ同一であることを考えれば、ふたつの事件をひとつの物とみなすのはむしろ当然の事といえた。

 疑惑は山程あった。テレビのワイドショーはこぞって特番を組んだ。

 しかし疑惑はあくまで疑惑でしかない。確たる証拠がなければ告発は出来ないのだ。

 そしてお茶の間の視聴者がこの話題に飽き始めた頃、ネット上にあの衝撃的な記事が掲載されたのだ。


 最初それはインターネット上の小さなつぶやきだった。

 それは直ぐに拡散され、あっという間にネットニュースの筆頭に挙げられるようになった。

 それは30年前の謎の墜落事件を根底から覆す衝撃的な記事であった。

 それは事件の被害者・瀬名春夫の第2の遺書とも呼べるもので、そこには事件のすべてが書かれていた。

 中でも衝撃的だったのは、あの事件の概要を考え須藤グループに指示を出していたのは、当時津崎健吾といった白岩弁護士であり、その上で全てを統括していたのは、若き日の向川幸二郎氏であるという事実であった。

 インターネット上の記事であるため、それが真実であるのか虚偽であるのかは判らない。

 いずれにしろ拡散してしまった情報は収集がつかない。情報が一人歩きをしてしまうからだ。

 野党は当然のようにこの問題を追及した。

 少なくともネット上の情報のほうが、白岩弁護士が検察で証言した内容よりも整合性を得ているからだ。

 そしてこの日、向川議員に対する証人喚問が開かれているのだ。


「ああ、これで終わりだねえ、向川のおっさんも」

 キュートがテレビ画面を眺めながら言う。

「でもよ、あの情報が正しいって確証はねえんだろ」

「わかってないね、キミィ。正しいか正しくないかなんて関係ない。要は国民がどちらを信じるか、よ」

 口を尖らすシンジに、キュートは知ったかぶって言った

「議員さんて選挙に勝つことが至上命題ですもの、大変よね」

 マスターに入れてもらったコーヒーを飲みながら、響子ママが人ごとのように言う。

「ところでママ。あのネットの情報って、例のノートに書かれていたことなんでしょ」

「そうなんじゃないの」

「でもさ、あのノートってばオリジナルは焼けちゃったし、コピーも白岩弁護士の手に渡ってるし、何で流出したのかな?」

「さあ、何故でしょうね」

 響子ママは素知らぬ顔をする。その顔をジッと睨んで、

「まさか、ママ!」

 大きな声を上げた。

「あら、わかっちゃった?」

「いや、でも何でママがあのノートを?」

「コピーはひとつとは限らないわ。と言うより、白岩弁護士が手に入れたのは、わたしの作ったコピーのコピー」

「なんですって、じゃママは最初からコピーのありかが分かっていたの?」

「そうよ」

 響子はカウンター席から降りて、窓際のテーブル席に移動した。

「証拠となるノートが瀬名さんの手にあると聴かされた時、まず初めに彼はコピーを取っているはずだと考えたの。では、どうやってコピーを取るか。昔ならそれこそコピー機に向かって、一枚一枚手で取るでしょうけど、今ならどうする?」

「え、それは・・・携帯でバシッて写メるかな。面倒臭くないし」

 当然の質問に目を白黒させる。

「そうよね。何十枚もあるノートのページをいちいちコピー機にかけるのは大変だし、現在のスマホのカメラは高性能でアプリも揃っているしね。当然彼もそうしたと思うの。では、その画像はどこにあるか?」

「そうか」

 シンジが言った。

「スマホのマイクロSDの中だ」

「ご明察」

 響子は頷く。

「そこであさみちゃんのお父さんが、誕生日のプレゼントに新しいスマホをプレゼントすると言っていたのを思い出したの」

「そのプレゼントはされなかったわ」

「そうね、でも新しいスマホをあさみちゃんが持っていたら、すぐに怪しいと思われちゃうわ。だからお父さんは新しいスマホではなく、現在のスマホにSDカードを隠したんじゃないかって考えたのよ」

「それじゃ、ママは?」

「そう、悪いとは思ったけど、内緒であさみちゃんのSDカードを見せてもらったわ。万が一そのスマホが敵の手に渡った場合を考慮して、コピーした別のカードを入れて置いたけどね」

「じゃ、白岩が手に入れたのは・・・」

「そう、私がコピーしたもの」

 響子ママは白々と言いのけた。

「ちょ、ちょっと待って。て、ことはママ。事件の謎は、最初から全部知っていたってこと?」

「そうよ、アンチョコ持っていたからね」

「ずるいよ、ママぁ」

 キュートは情けない声を出した。

「それじゃ、ボクらの苦労はなんだったのよ」

「あら、そのほうが面白いじゃない」

 頭から湯気を立てているキュートに、響子ママは悪戯っぽい笑顔を向ける。

 そうしている響子はまるで少女のようだ。

「どうりでママの言う事はいちいち当たる訳だ」

 シンジが言った。

「まあ、キュートじゃ、到底ママには敵わないわけだな」

「ふん、キミ。どっちの味方?」

「もちろんお前だよ。なんたって俺様の彼女だからな」

 そう言うシンジに、響子ママは目を丸くして、キュートに問うた。

「あら、あなた。まだ、言ってなかったの?」

「え、何を?」

 シンジは目を白黒させた。

「ごめん、シンジ。ボク、キミの大好きなモノ、ついてないんだよね。まあ、後ろの穴なら貸してやらないこともないけど」

「え? ええッ!!」

 そして、響子ママは決定的なセリフを言った。

「この子、実は男の子なのよ」



                                              完


            ※ この作品はフィクションです。



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