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墜落の途中  作者: 香月鐘二郎
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第五章 30年目の真実


 時間は少々遡る。

 キュートとシンジが名古屋校長を取材した、同じ日の夜である。

 花曇りであった。月はない。

 小石川から神楽坂へ抜ける早稲田通りの間道を、ずんぐりとした熊のような男が歩いていた。黒いネックガードで、顎先から鼻までを包んでいる。ニットの右端からは引き攣ったような火傷の跡が、額近くまで伸びている。

 はぐれヤクザの権藤であった。

 その後ろを明かりを消した1台の車が付けて来る。国産の大型ワゴンだ。

 権藤はその車に気付いていた。気付いた上で、わざわざ人気の少ない間道に誘い込んだのだ。

 突然、車のライトが点った。

 強烈な光が権藤のずんぐりとした、熊のような姿を浮かびあげる。

 大型ワゴンが唸りを上げる。まるで猛獣の雄叫びのようだ。

 大型の肉食獣が凄まじい勢いで権藤に襲い掛かる。

 権藤は横飛びに大地に転がって、間一髪その攻撃をかわした。

 ワゴン車の扉が開き、数人の男達が現れた。どれもこれも一筋縄ではいかない雰囲気を持った男どもだ。

「遅かったじゃねえかよ。待ちくたびれたぜ、千賀さん」

 権藤は一番最後に現れた黒いスーツ姿の男に言った。意思の強そうな角ばった顎を持つサングラスのヤクザ者。

 須王会のNo2である。

「権藤。てめえ、どこまで知っている?」

「さあね」

 権藤は薄ら笑いを浮かべた。

「知っていようがいまいが、どうせ始末するつもりなんでしょう? 千賀さん」

 千賀の合図を待たず、男たちが左右に散った。前に3人、後ろに2人。

 完全な包囲網だ。もはや権藤に逃げ道はない。

「どうせ殺すなら、隠す必要はないだろう。聞かせろや、何でタケシを殺った?」

「知る必要はないな」

「向川先生か?」

 権藤は手袋をはめながら、その名を口にした。

「てめえ」

「やはりな。全てはそこが始まりか?」

「何を知っている? 権藤!」

 千賀が吼えた。周囲を取り囲んだ組員達が動いた。


 先頭の顎先に権藤の拳が飛ぶ。

 スイング気味の右フックだ。

 グローブのようなでかい拳が顎先を捻じり上げる。ただの一激で男は昏倒した。

 返す拳を後方から組み付く男の鼻先に叩きつける。

 前歯が砕け、飛び散った。

 ステゴロの権藤。

 ドーベルマンを一撃で沈めるという伝説の拳は、右に左に屈強のヤクザ者を叩き伏せていく。

 前回は油断してキュートに遅れを取ったとはいえ、その実力はやはり本物だ。

 しかし多数に無勢。たちまちの内にその身体はヤクザどもに組敷かれた。

「待て」

 形成が逆転するかと見えた時、千賀が呻くような声で男たちを制した。

 目を向けると、真っ青な顔をした千賀が、両手を胸のあたりに上げて歯を噛んでいる。そのこめかみには、夜目にもまぶしい銃口が突き付けられているのだ。

「そこいら辺にして置くんだな」

 千賀の後ろで声がした。

「誰だ、てめえ」

「おまわりさんですよ」

 頭部に銃口を突き付けた男が、警察手帳を開きながら言った。

「困るんだよね、天下の往来でこういうことをされちゃあ。通報が入ったら、来ないわけにはいかないじゃねえか」

「警官がやたらと拳銃を振り回していいのか」

 千賀が言う。

「心配いらねえよ。こいつは俺の銃じゃねえ。押収品だがマエはねえ。いくらぶっぱなしても、足はつかねえよ」

 男は太々しく笑った。

「とんでもねえ野郎だな。俺が知る限り、そんなふざけたセリフを吐くデカは、ひとりしか居ねえ」

「遅かったじゃねえかよ。オニクマさん」

 千賀の言葉尻を捕らえるように権藤が言った。

「ギロッポンのオニクマだあ? 麻布署の刑事がなんでこんな所にいるんだ?」

 千賀が苦虫を噛み殺したような顔で呻いた。

「ちと、訳ありでな。俺はいまミッドタウンの殺しを追ってるんだ。あんたがいま言った向川先生との話、少し詳しく訊かせてもらえないかな」

 鬼島刑事が言う。

「ふざけるな」

「30年前の事件だよ。あんただって関わっているんだろ? あん時の教諭、今じゃ校長だそうじゃねえか。随分と出世したものだな。え、その辺りの話が訊きてえんだよ」

「いいかげんにしろ」

 千賀はその腕を振り払った。

「話が訊きたければ令状を持ってこい。おい、引き上げるぞ」

 千賀は組員たちを促した。彼らは負傷した仲間をワゴンに運び入れた。


「これでいいのかよ」

 走り去るワゴンを見送って、鬼島刑事は後方の女に話しかけた。

「ええ、上等よ」

 暗闇から現れた響子ママはにこりと笑って、数枚の万札を手渡した。

「これで連中は名古屋校長を放っては置けなくなるわ」

「この先報酬は、あんたの身体でお願いしたいね」

 鬼島刑事は唾を吐き捨てた。

「考えておくわ」

 じゃ、あとお願いね。響子は手を振って去って行った。

「何だ、あの女?」

 去っていく響子の背を見ながら権藤が声を掛けた。

「いい女だろう。俺のレコ・・・」

 鬼島は小指を立てて言った。

「と言いたいところだが、中々なびかなくてよ。まあ、てめえの顎を砕いたコギャルの飼い主だ」

「なるほど。あの化け物女を、どんな野郎が飼い慣らしているのかと思ったが、ありゃ確かにあいつ以上の化けモンだ」

 権藤は納得したように言った。

「ふん。あのふたりは確かに化け物だが、本当にヤバいのは奴らの店にいる銀髪のジジイだ。あのジジイがいる限り、誰もあそこには手を出せねえ。ヤクザだろうが、警察だろうが、例え警視総監だろうがな」

「何者なんだ?」

「知らねえよ、知りたくもねえ。ま、ひとつ言えることは、あのジジイだっていずれはおっ死んじまう。何かをするなら、その後ってことだな」

 じゃあな。鬼島刑事はそう言い残して、両手をポケットに突っ込んで歩き出した。



 六本木。クラブ「響」。

 名古屋校長は権藤と向き合って、ボックス席に腰掛けている。キュートは校長の隣だ。シンジは響子ママと並んで、カウンター席に座っている。その奥では銀髪の老バーテンダーが、素知らぬ顔でワイングラスを磨いている。

 話は元に戻っている。調布の須王会事務所で拉致されかけた名古屋校長を救い出したキュートとシンジは、六本木のクラブ「響」に校長を匿ったのだ。ついでながら響子は、はぐれヤクザの権藤までも店に招待したのだった。

 奇妙な光景である。

 ほんの1月前までは敵味方だった人間が一同に会しているのだ。

「話せば、私は殺されます」

 名古屋校長は暗い顔で言った。たった1日で、10年も年を取ったように見えた。

「どっちにしても殺されるわよ。センセがここへ来た時点で、連中は喋ったと思うでしょうし、それ以前にも拉致されかけたんでしょ」

 微かに震える校長の手に、キュートは手を重ねた。その掌からみるみる震えが引いていく。

 不動明心法。

 キュートは相手に触れるだけで術に掛けられる。

 名古屋校長はふうとひとつ大きく息を吐いた。

「解りました。お話します」

「じゃ、訊くがよ、まずは向川先生と須王会との関係についてだ」

 権藤が言った。


 向川幸二郎。

 東京都議会のボスといわれた男である。父親の向川大造は与党幹事長を何年も努めた重鎮で、総理に最も近い人物といわれた人間であった。

 何年か前に国有地払い下げの収賄事件に書き込まれて政界を引退しているが、その影響力は今だに政財界に大きく及ぼしている。

「向川幸二郎先生と須王会の会長・須藤正輝とは、当時同じクラスの同級生でした」

「30年前のあの時だな」

「はい。しかしふたりの接点はあまりなかったように感じます。幸二郎さんは生徒会の会長として頑張っていましたし、須藤はあの通りで殆ど学校には来てはいませんでしたから」

「高木春生サンのいじめに関しては知っていたのかしら?」

 そう訊いたのはキュートであった。

「向川先生がですか? さあ、ある程度はご存知だったかも知れませんが、それ程関心は持たれてはいなかったと思います。あの方は生まれつきの帝王ですから」

「30年前の試験問題盗難事件ですが、あれはやはり須藤さんが高木さんにやらせたことだと思いますか?」

 今度は響子ママが訊いた。

「そうだと思います。当時から皆分かっていたことですが、誰もそれについては言及しませんでした。事が公になって幸二郎さんのキャアリアに傷がつくのを一番恐れたのです」

「だから、須藤グループはやりたい放題だったのですね」

「はい。今になってみれば、申し訳ないことをしたと思っています」

 校長は消え入りそうな声で言った。

「でも、おかしくない? 須藤正輝なんてどうせ勉強なんて関係ないし。試験問題盗んでいい点取ったって、そんなの嘘だって直ぐにわかっちまうだろ。何の意味があんだよ」

 シンジが言った。校長は頷いた。

「私もそう思います。恐らく試験問題どうこうより、高木君を困らせるのが目的だったように感じます。いじめというのは、そういうことでしょう」

「それで次には自殺未遂事件を引き起こすのですね」

 再び響子ママが口を開く。

「はい。彼らは高木君に遺書を書かせた後で、屋上から飛び降りる真似事をさせました。不可思議な飛び降り事件に、世間が騒ぐのが面白かったのです。しかしまさか、本当に殺してしまうとは・・・」

「あの夜、裏口の鍵を開けて置いたのは、あなたですね?」

「はい。彼らに脅されると、嫌とは言えませんでした。彼らには出来るだけ関わるなというのが、当時の学校の方針だったからです。私はその意味さえ知らずに、それをやってしまったのです。翌日事件があって、初めてその意味を知りました。それでも私は何も言えませんでした。彼らがすぐに脅してきたからです。何も言うな、と。それは今も続いています。・・・・私はこの30年、ずっと脅され続けているのです」

 名古屋校長は涙を流して訴えていた。

「その代わり、いろいろと見返りも受けていたんでしょう」

「・・・・」

「まあ、よろしいですわ。ところで当時、津田健吾という生徒をご存知ですか? 現在は弁護士の白岩孫一郎氏の婿養子で、白岩健吾さんとおっしゃいますが」

「はい。当時、生徒会の手伝いのようなことをしてました」

「ということは、当然向川幸二郎さんとは面識があった訳ですね」

「もちろんです。優秀な男で、現在は向川先生の顧問弁護士をなされています」

「その白岩さんですが、今回亡くなられた瀬名京太さんと共に、高木さんの偽装自殺の目撃者になっておりますが、それに関してはどう思いますか?」

「さあ、私には判りかねます。瀬名君がどうして亡くなったのか、それも30年前のあの事件のように・・・」

「先生は、あれが自殺だとお思いですか?」

「は?」

 校長は涙に濡れた顔を上げた。その顔を響子ママが見詰める。

「もしもあれが30年前の事件の模倣だとするなら、やはりあれも偽装とは思いませんか?」

「そ、そんな、・・・まさか、そんな」

 名古屋校長は激しく動揺している。


「ところで、先生よ」

 重苦しい沈黙を破って、権藤が口を開いた。

「岡元武史の事件なんだが、奴はなんで殺されたんだ? やっぱり向川先生と須藤会長の関係に気付いたからか?」

「それもあるでしょうが、直接の理由は別にあると思います」

「別の理由?」

「連中が瀬名君の娘さんを誘拐しようとした時、彼は娘さんの側に居たそうですね。その時彼は、娘さんから何かを受け取ったのだと、彼らは考えていたようなのです」

「何だと!?」

「どういうことよ」

 権藤が声を荒立てた。キュートも驚きを隠せない。

「なるほど、そういうことね」

 響子ママが言った。落ち着いた声であった。

「ママ、知ってたの?」

「そういう事もあろうかと想像はしていたわ。あの時、このお店を最初に訪れた時、あさみちゃんは持っていたのよ。あのノートを」

「まさか、だって確認したよ、彼女の荷物。でもそんなものは持っていなかった」

「見落としていたのよ、私たち」

「だって、ノートは瀬名パパが燃やしちゃったんでしょ。つまり瀬名パパが持っていたってことじゃない?」

「彼女が持っていたのはコピーよ。瀬名さんが万一にとコピーを取っていたものを、彼女に託したのよ。それに、それはノートとは限らないわ」

「ちょっ、ちょっと待てよ。あの娘の側に居たのなら、俺だってそうだぜ。何でタケシだけなんだよ」

 シンジが脇から割り込んだ。校長は抑揚のない瞳でシンジを見詰めた。

「そうです。連中は次に君を襲うつもりでした。でも、出来なかったのです。何故ならそれは、君がここに居たからです」

「何だって?」

「何故かは知りません。君がここに居る限り、彼らは手出しが出来ないと言っていました」

「そういうことか」

 権藤は唸った。

「オニクマの野郎は言っていた。ヤクザも警察も、この店には絶対に手を出せない、と」

 どういう事だという目で、シンジはキュートを睨んだ。キュートは唇に人差し指をあててウィンクした。

 いずれはキミにも話してあげるわ。

 と言うように。

「事情は大体わかりました。先生は暫くここから動かない方がいいでしょう。先生もいま仰ったように、ここなら連中は手を出せませんから」

 名古屋校長は黙って頭を下げた。

「暫くの辛抱です。事件はもうすぐ終わります。そうしたら、自動的に須王会は消滅しますから、あなたは完全に自由です。最も何かしらの社会的な罰を受けねばなりませんが」

 響子ママはそう言って、にこりと笑うのであった。



 六本木ヒルズ裏の小料理屋である。昭和の初期から続く老舗であった。

 午後10時を幾分回った時刻であろうか、店の前には数台の高級車が停まっていた。その多くはベンツであり、中にはコンチネンタルといったアメ車も並んでいた。

 店の最も奥まった1室では、数人の男たちが座卓を囲んでいた。政治家と財界人が公共事業の払い下げの相談をするような部屋である。

 テーブルの上には幾つかの札束が並び、下卑た男が立膝でそのうちのひとつを手に取り、うちわのようにはためかせている。

 鬼島刑事であった。

「随分と奮発したもんだな。え、須藤さんよ」

 広域暴力団須王会々長須藤正輝は凄まじい目をして、正面に座った鬼島刑事の顔を睨んでいる。この道に足を突っ込んで30年、その腕力と度胸のみでここまでのし上がって来た男である。その眼力には半端ないものがある。

 並みの男ならそのひと睨みで、座り小便を漏らしてしまうところだ。

 しかし鬼島はそんな眼光さえも、どこ吹く風と受け流してしまうようだ。

「じゃ、まあ。これで話はついたという事で」

 鬼島は目の前の札束を掴んで立ち上がろうとした。

「ちょっと待てよ。鬼島さん」

 須藤の斜め横に控えていた千賀が口を開いた。広い部屋の中にはこの3人しかいない。人払いをしているのだ。

 しかし隣の部屋には多くの組員が、それぞれの得物を持って控えている。

 もちろんその事は鬼島も知っている。

「あんたが他所で喋らないという保証は?」

「保証だ?」

 鬼島はせせら笑った。

「何ガキみたいなこと言ってるんだよ。俺らとおめえらとは一連托生だろう。こっちだってこの先、飯は食っていかなきゃなんねえんだよ」

「・・・・」

「わかりやすく言ってやるとだよ、例えば漁師は海の中の魚全部を獲っちまうってわけじゃねえだろう。そんなことをしたら、今日はいい思いをするかも知んねえが、明日から獲る魚がいなくなっちまう。だから適当なところでやめて置くんだよ」

 ニヤリと笑う。

「心配すんなよ、俺は喋りはしない。人間持ちつ持たれずだからな」

「それはいいがな、鬼島」

 須藤がドスの利いた声を出した。

「正直なところ、あんたどこまで知っている?」

「ふん。何の話だ?」

「例えば、俺と向川先生との関係についてだ」

「あんたが向川の掃除人みたいな仕事をしていることは知っているよ。どんな世界にだって敵はいるからな。そういう汚い仕事をするのには、あんたみたいな人間が必要だ。まあ、刑事の俺が言うのも何だがな」

「それから?」

「30年前のコロシの件だが、ありゃ千賀さん。あんたらの仕業だろ?」

 千賀の顔色が変わった。

「当時あんた達ふたりを含めた、同級生の5人があの事件に関わっていた。その内の3人は死んだか行方不明だ。どうしたのかな? まあ、そんな事はどうでもいい。実際に手を下したのが、あんたたちのどちらかってことも、今になっちゃどうでもいい事だ。事件はとっくの昔に時効になってるしな」

「そう、どうでもいい話だ」

 須藤は表情を変えずに言った。

 その顔を鬼島はじっと見つめる。

「あんたやっぱり、相当な狸だな。これ以上は話す気がなかっんたが、仕方がない話してやるよ。大体、ちょっと考えれば解るだろう。あんたみたいな劣等生が、なんで試験問題なんて一文にもならない物を盗ませるんだよ。どうせ盗ませるなら、もう少し気の利いたものを盗ませろよ。現金とか現金になりそうな物とかよ」

「鬼島!」

 千賀が叫んだ。

「いい、千賀。最後まで話させろ」

 須藤が嗜めた。

「へへ、いいのかい? 後戻り出来なくなっちまうぜ」

「話せ」

「本当に試験問題が必要だった人間は他に居るんだ。あんたらはその人間のために、試験問題を盗ませた。そうだろう?」

「・・・」

「高木はそのことを知っていたんだ。だから、あんたらは奴を殺さねばならなかった。そりゃ、そうだよな。そんなことが世間に知れたら、野郎の親父さんの立場がなくなってしまうからな」

「もういい」

 須藤は苦いものを吐き出すように言った。

「野郎がそこに居たかどうかは、俺は知らない。例え居なかったとしても・・・」

「もういいと、言っているだろう!」

 須藤は激昂した。

 その迫力にさすがの鬼島も黙りこくった。

「安心しろ。さっきも言ったが、俺は何も喋らないよ。俺だって生命は惜しいからな」

「わかった。話はこれまでだ」

「ふふん」

 立ち上がり掛けた鬼島は、ふと何かを思い出したように席に戻った。

「礼と言っちゃ何だが、ひとついいことを教えてやるぜ。六条委員会が動き出した」

「六条? 奴らか」

「無理もねえやな。てめえんの所の縄張りで、お前らみたいな田舎者がチョロチョロしてたんじゃ、目障りでしょうがないからな」

 六条委員会はひとつの組織ではない。東京の東を収める六ッの組織が、共同で立ち上げた連合組織だ。

 その原点は10年前におきた、東西ヤクザの大戦争、いわいる「渋谷抗争」である。西日本を制する兵庫の住島連合会と、東日本の覇者仙台の極城会とが、東京の渋谷でぶつかったのだ。

 その最先端にいた渋谷の一心会は、当時ひがし東京の覇権を争っていた住島連合会の傘下、六ッの組織と連携を取り極城会と戦った。それが六条委員会の始まりであったのだ。

「具体的に動いたのは赤沼組だ。みどろの赤沼。ありゃ厄介だぜ」

 鬼島はひひッと笑う。

「みどろ」というのは「血みどろ」という意味だ。六条委員会・赤沼組は、住島連合会の傘下の中でも指折りの武闘派である。組長の赤沼三虎は住島連合会の鉄砲玉で名を馳せた男で、荒っぽい抗争には必ず顔を出す、生まれついての喧嘩好きだ。

 先の渋谷抗争においても当事者の一心会と共に、戦闘の最前列で戦ったものだ。

「ああ、それとよ。この俺をどうにかしようなんて、余計な考えを持つんじゃねえぜ」

 鬼島は重ねて言う。

「この俺があの連中の店に顔を出しているって事くらいは、お前らだって知っているだろう。これ以上騒ぎを大きくして、てめえらの大事な誰かさんの顔に泥を塗るんじゃねえぜ」

 

 鬼島刑事の去った後、須藤と千賀は差しでテーブルを囲んだ。

 組員たちはとうに帰してある。

 ふたり切りだ。

 ふたり切りでテーブルを囲み、飲んでいる。

 上等な酒ではない。焼酎である。

 つまみは炙っためざしである。それがいいと言って、わざわざ店に用意させたものだ。

 それで飲んでいる。

 かなり長い時間、無言で杯を重ねた。

「千賀」

 ややあって須藤は言った。

「どうやら腹を括る時が来たようだな」

「須藤」

 千賀が言った。

 親分に対する口の利き用ではなかった。高校の同級生に対する口の利き方だった。

 32年前、ふたりは差しで闘った。いわいるタイマンというやつである。

 学校の頂点を争って対決したのである。

 当時の西国戸田校は男子校であり、現在のような進学高ではなかった。ごく普通の高校であり、そしてそれなりに荒れてもいたのだ。

 ふたりは多摩川の河川敷で闘い、須藤がその闘いに勝った。

 仲間の3人もあの時、あの場所にいたはずである。

 それ以来、千賀は須藤を「さん」づけで呼ぶようになった。だから彼が須藤を呼び捨てにしたのは、実に32年振りということになる。

「俺は高木のことを、一瞬たりとも忘れたことはないよ」

 須藤は言った。

「あれは、俺とお前とが初めて手を染めた殺人だった」

「ああ・・」

 千賀が応える。

「あれから数え切れない程の人間を殺めてきたが、あの時の事は今でもはっきりと思い出す」

「俺もだ」

「あれから俺たちの人生は狂ってしまったんだな」

「後悔しているのか?」

「してはいない。してはいないが。・・・」

「してはいないが、何だ?」

「俺は一言謝りたかった」

「俺もだ須藤」

 須藤は泣いていた。泣きながら酒をあおっているのだ。

「なあ、千賀」

「なんだ?」

「あの世にいけば、やつに謝れるかな」

「無理だな」

 千賀もまた泣いている。

「無理か?」

「やつは地獄にはいないだろうからな」

「そうかな。そうだろうな・・・」

 それからまた、ふたりは無言で酒を酌み交わした。

「あの方だけはなんとしても、お守りせねばならない」

 ややあって須藤はポツリと口にした。

 鬼島を殺す。

 ふたりはただ、黙って酒を飲み続けるだけであった。

 


 閉店後のクラブ「響」。

 明かりを落としたカウンターで飲んでいる。

 時計の針は既に午前3時を大きく回っている。深夜というよりは早朝に近い。

 ひとりである。

 シンジやキュートはとうに帰っている。

 グラスの中身はバーボンのロック。

 溶けた氷がカラリと音を立てた時、裏口の扉が開いて銀髪のバーテンダーが戻ってきた。

「お疲れ様、徳さん。校長先生は大丈夫?」

 響子ママは声をかける。

「はい。大分興奮していたようですが、今はよくお休みになられています。キュートさまのお力ですね」

「心法ね」

 赤らめた顔をバーテンダーに向ける。珍しく少し酔っているようだ。

「不思議よね。私がこの道に足を踏み入れるようになったのも、いってみれば心法がきっかけみたいなもの。そしてまた、心法を使うあの娘と知り合った・・・」

「心法はそれが生まれた奈良時代から、時の朝廷や将軍といった権力の陰を支えるもの。お嬢さまがそれに関わるというのも、むしろ当然の事と言えます」

「ふうん。私とあの娘が出会ったのも、あなたの仕業というわけなの?」

「さあ、どうでしょう」

「うふふ。まあ、いいわ。そんなこと。どうでも」

 響子はグラスを持ったまま、大きく伸びをした。

「少し酔っておられますか?」

「酔っているわよ」

「ところで今回の事件ですが、落としどころはどう致しましょう?」

「そうね。あまりおお事にはしたくないわね」

「六条の赤沼さまが、既に動き始めているとか」

「あの人たちが動くとなると少し面倒ね。渋谷の時のような騒ぎは御免ですものね」

「出来るだけ抑えるようには致しますが、あまり長くは持たないかと」

 応えてバーテンダーは食器を洗い始めた。

「時にお嬢さま。以前仰しゃられていましたが、手品の意味とはどういうことでしょう?」

「30年前の事件?」

「はい」

「あれはアリバイでしょうね」

「アリバイですか?」

 響子は頷いた。

「高木さんが屋上から飛び降りた時、向川幸二郎さんは生徒会に出席していたというアリバイがあるわ。恐らくこの事件に、向川さんは関わっていないという、確たる事実がほしかったのでしょう」

「しかし高木さまが亡くなったのは、それから6時間あとですから、正確にはアリバイは成立しないことになります」

「そうね。でも、高木さんが飛び降りたという事実。そして墜落死体が発見されたという事実を重ね合わせてみると、高木さんがあの時間に飛び降り自殺を図ったという事実は動かせなくなるわ。多少の時間的不都合はあったとしても、前提となる事実が動かない以上、警察としてはそう考えるより他にはないでしょう。事実、あの事件は自殺として処理されてますものね」

「なるほど」

「向川さんにとって最も重要なことは、あれが自殺であれ他殺であれ、自分は一切関わっていないという確証なのよ」

「そのために、わざわざ須藤さま達に偽装自殺などを仕組ませたのですね」

「そうね。最初は偽装自殺だけで済ますつもりだったのでしょうが、思いもかけない誤算が生じてしまった」

 響子は手酌でバーボンを注ぐ。

「それはつまり、高木さんが飛び降り自殺を図ってから、実際に殺されるまでの6時間に何をしていたのか、ということに関わると思うの」

「それがあのノートという事なのですね」

 響子はにこりと笑った。軽く酔が回っているせいか、得も言えずに色っぽい。

「そう。恐らく高木さんは全てをあのノートにしたためたのでしょうね。自分が誰にいじめられているか、試験問題を盗むように強要したのは誰か、そして自殺未遂事件の本当の首謀者は誰か。つまりあれは、高木さんの書いた第2の遺書。そして本物の遺書だったの。しかしそれを連中に知られてしまった。だから彼は殺されたのだわ」

「そういう事ですか」

「連中というか向川さんにとって、そのノートは正に爆弾だったの。でもそれがどこにあるかは分からなかった。だから彼らはその行方を探し始めたのね」

「それで高木さまの弟さまは、ずっとそれを言い出せなかったのですね」

「そうね。自分なりに調べては見たのでしょうが、結局言い出せないままそのノートは甥の眞一郎君の手に渡ってしまった」

「それが今回の事件の発端ですか」

「はい」

 バーテンダーは少し黙り込んだ。

 その顔を響子はいたずらっぽい顔で眺めている。

「しかし、肝心のノートがあれでは、どうしようもないですね」

「コピーがあるわ」

「コピーですか? それは今どちらに?」

「さあ。多分、向川さんの手にあるのでしょうね。彼らはあのコピーを、あさみちゃんから手に入れたと思うの。だからこそ、あさみちゃんは安全なのよ。あのノートが無ければ、彼女をどうこうする理由がありませんものね」

「という事は、それはそれで良かったということでしょうか?」

「もちろん。私たちの目的の第一は、あさみちゃんの安全を確保する事ですから」

「しかし、それでは彼らを追い詰めるわけには行きませんね。あれは大切な証拠なのですから」

「そうお思いになります?」

 響子は意味深な笑みを口元に浮かべる。

 バーテンダーは少しの間、強い瞳でその笑顔を見つめた後、フッとため息をついた。

「なるほど。そういう事ですか」

「おわかりになりまして?」

 バーテンダーは軽く頭を振って、

「ずるい人ですね」

 と言った。

「はい。私、ずるい女なのです」

 響子は花のように笑った。

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