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墜落の途中  作者: 香月鐘二郎
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第一章 有明探偵事務所


 傾きかけた春の陽光が街路樹の葉先を掠めて、鮮やかな色彩を歩道の上に残してゆく。

 オレンジ色に染まった残照が、ビルの窓ガラスに反射してコンクリートの谷間に深い影を落とす。

 六本木通り。首都高速道の側道である。

 隣には東京ミッドタウンの巨大な建物がそびえている。

 夕暮れ間近の春の日に街ゆく多くの人々は、どこかうきうきとした表情を見せて思い思いに路を急いでいる。

 そう、この街はようやくその眠りから目覚めようとしているのだ。

 夜の街、六本木。

 人々の流れに逆らうように、一人の少女が歩いてくる。買い物帰りなのであろうか、その腕には大きな紙袋を抱えて、嬉しそうに鼻歌などを口ずさんでいる。

 行き交う人々が一様にほうとため息をつき、振り返るのも無理はない。それは彼女が見事なプロポーションの美少女だからだ。

 20代前半、いや見ようによっては10代後半にも見えなくはない。

 まつ毛の長い黒曜石の瞳。形のいい鼻にバラ色の唇。

 クルクルに巻いた長い髪。黄金色に染めた髪。小麦色の肌。

 黒のレザーショートパンツから覗くしなやかに長い脚。

 どう見てもどこぞのプロダクションのモデルの卵か、一流クラブのキャストにしか見えない。

 男たちの羨望の眼差しと、女たちの嫉妬にも似た視線を、平然と受け流して足早に歩を進める。


 と。

 不意に彼女のニーハイブーツの脚が止まった。意志の強そうな瞳が歩道のキワを見詰めている。

 歩道の植え込みに隣接するように停車した一台の車に目を止めたからだ。

 それは黒塗りの大型ベンツであった。

 後部の窓には濃いスモークが貼られていて、外からは中がうかがい知れないようになっている。

「ふうん」

 少女の唇にいたずらな笑みが浮かぶ。そうした彼女の表情は、意外と幼いようにも見える。

 もとよりこの街では、黒塗りのベンツも濃いスモークの窓もそう珍しいものではない。それでも彼女がその車を「面白い」と感じたのは、スモークの窓の奥深く蠢く人間の気配を察したからであろうか。

 停車したベンツのすぐ脇には、ひとが一人やっと通れるほどの狭い路地がある。ビルとビルの隙間にある路地とも呼べない細い隙間であった。

 少女は目を閉じて、夕暮れの景色のなかに形のいい顎先をわずかに傾けた。

 意識を澄ませて心気を凝らす。風の中に呼吸の数を数える。

 ひとつ。ふたつ。みっつ。・・・

「なるほどね」

 何かを確信したのか、少女は真横に停車したベンツを尻目に狭い路地のほうに目をやった。

 夕闇近い春の日差しはビルとビルの隙間にまでは届かない。

 一足先に宵闇を迎えた路地の奥底に、彼女はもつれ合う数人の人間たちの気配を感じていた。ためらう様子も見せずに彼女は路地のなかに足を踏み入れる。

 その少女の姿を、ベンツのスモークの奥から見つめる強烈な視線に、もちろん彼女は気づいてはいなかった。


 路地の奥はやや広めの広場のようになっていた。とはいえ人が三人並べはいっぱいになる程度の広さではあるが。

 もとはその広さの間隔だったところを、右側のビルが入り口に室外機を設置したために、この細さの通路になってしまったというところであろうか。

 奥の薄暗がりに数人の男女が蠢いている。

 目が慣れて来ると、一人の女子高生らしき女の子にふたりの男が絡みついて、押さえつけようとしているらしい。少女は必死に振りほどき声を上げようとするのだが、男たちはその口を抑えて許さない。

 制服姿の女子高生の背後から口を押さえているのは、派手なスカジャンを着た長身の男である。今時古臭いリーゼントの頭をクールグリースで固めている。

 一方バタつく両足を抱え動きを封じようとしているのは、頭の後ろを剃り上げた小太り男だ。いずれも20代の若者だが、見るからにまともな男達ではない。

 ヤクザ者か街のゴロツキか。いずれにしてもあまり関わりたくない連中だ。

 にも関わらず路地から入って来た少女は、たじろぐ様子も見せずに平然と近づいていく。

「ねえねえキミたち、なにやってんの?」

 少女は軽やかに声を掛けた。まるで楽しい遊びをしている、仲のいい友だちに声をかけるような気安さだ。

 女子高生を押さえつけている男たちの動きが止まった。

 彼女をも含めた六ッの眼が、夕闇の中から現れた美少女に向けられる。

「何だ、てめえは!?」

 女子高生の脚を抱えていた剃り上げの男が、ドスの利いた声を発した。

「ボク? ボクはキュート。よろしくね」

 美少女はピースの形を作った人差し指と中指を、大きな瞳を真横に挟んで愛らしいウィンクをして見せた。

 ふいに女子高生が暴れだした。必死で何かを訴え掛けようとしているらしい。しかし長身の男が口を押さえているため、もちろん声は発せられない。

「ふざけやがって」

 女子高生の脚を下ろした男が吐き捨てるように言った。

「この状況を分かっていて、言ってるのか?」

「もちろん」

 キュートと名乗った美少女は、にこやかに答える。

「でもさ。そのコ、嫌がってるみたいだし、よかったら代わりにボクと遊ばない?」

「へえ」

 女子高生の口を抑えていたスカジャンの男が声を上げた。舐めるような視線を少女の肢体に這わせる。

 声を出すんじゃねえぞ、というように手にした女子高生を睨みつける。彼女は怯えて凍り付いたように動けない。

「おい、タケシ。ちょっと代われよ」

 長身のスカジャン男が女子高生を離して前にでた。その身体をタケシと呼ばれた小太りの剃り上げが抑える。

「シンジ、ヤバくねえか? 時間をかけすぎると権藤さんに叱られるぞ」

「大丈夫だよ、すぐに済む」

 シンジと呼ばれた長身の男は、舌舐めずりをしながらキュートに近づいた。

「なあ、お前。俺らと遊びたいんだって」

「うん」

 ノースリーブから剥き出しの肩を抱かれるのを平然と受けて、キュートは涼しい笑顔を向けた。

「おめえ、よく見ると結構マブい顔してんじゃん。俺の女になるか」

 肩を抱いた腕に力を込めてシンジが顔を被せようとした時、路地の入口から大きな人影が現れた。

「おいお前ら、何をやってるんだ!」

「ご、権藤さん!」

 タケシと呼ばれた男の身体がビクリと震えた。明らかに路地から現れた男に怯えているのだ。

「さっさと仕事を済ませろ。何だ、こいつは?」

 カーキ色のジャケットを引っ掛けた、30絡みのパンチパーマの男が現れた。ベンツの中から路地の中を見張っていた男だ。

 路地に入り込むキュートの姿を見掛けて後を追ったのだろう。


 権藤と呼ばれたその男は、前のふたりのチンピラと違って明らかにソレ者の雰囲気を漂わせた男であった。暗い目つきが暴力的な光を放っている。

 右の頬から額に向けて引き連れたような疵跡が見える。よく見るとそれは火傷の跡のようだ。

 権藤はキュートの逃げ道を塞ぐように、通路の中央に仁王立ちになっていた。

「ちょっと待って下さいよ、権藤さん。あれを見られたからにはこの女、ただで返すわけには行かないんじゃ・・・」

 そう言いかけたシンジの口を、形の良いキュートの唇が塞いだ。

 呆気に取られている男達を尻目に、ふたりは濃厚な口づけを始めた。突然の出来事に面喰ったシンジだったが、すぐにうっとりと瞳を閉じる。

「何をやってんだ! こら! シンジ!」

 顔を真っ赤に染めたタケシが叫んでいる。その手に抱えられた女子高生も、信じられない光景に自分の立場を忘れて俯いていた。

 ただひとり、後方の権藤だけが冷たい瞳で、油断なくふたりの痴態を見つめている。その権堂の目線が、するりと男の股間に伸びるしなやかなキュートの指先を認めた。

 2度3度、美少女の細い指先がシンジの股間をさすった瞬間、その異変は起こったのだ。

「うっ、ぐッ・・・」

 美女と抱き合い悦にいっていたシンジだったが、その身体は突然ビクリと震え、腰を後ろに引いてくの字に折れ曲がった。そして身体を痙攣させながら、地面に崩れ落ちたのである。

「てめえ、何しやがった」

 権藤と呼ばれたヤクザ者が目を剥いた。

「何って、見ればわかるでしょ。このコ、手だけでイッちゃったのよ、天国へ」

 平然とキュートが言い放つ。

 呆けたように地面に座り込んだズボンの股間に黒い染みが広がっている。射精させられたのだ。

「タケシ、その女を離すんじゃねえぜ」

 憤怒の形相をした権藤が、ポケットから黒い革の手袋を取り出しながら言った。抑えた声だが殺気がこもっている。

「可愛そうだが、どのみち現場を見られた以上、生かして返すわけにはいかねえんだ」

 権藤さんがあの手袋を付けた時は、本気の本気だ。相手が女だろうが、子供だろうが一切容赦しない。それをタケシは見に染みて知っていた。


「こわーい、おじさん」

 鬼の形相を目にしても、変わらずキュートは微笑んでいる。

 この女、少しおかしいんじゃないか。

 そう思ったタケシが声を掛けた。

「おい、お前。逃げろ、殺されるぞ!」

 その言葉が終わらないうちに、権藤の右の裏拳が走った。

 まともに喰らえば鼻は潰れ、前歯は砕け散る勢いだ。

 しかしその拳は、空を見上げて上体を反らしたキュートの鼻先をかすめて真横に流れた。

 ブン!

 という風切り音が、少女の前髪を揺らして宙に散った。

 必殺の拳を避けたキュートの上体は、しかしそれだけでは止まらない。更に深く後方に折れ曲がる。

 同時にニーハイブーツに包まれた素晴らしく長いお御足が、折れ曲がった身体の後を追いかけて上方に持ち上がる。

 遂にキュートの身体はふたつに折れ曲がり、長い金髪が大地を舐める。まるで新体操の演技を見るようだ。

 そして次の瞬間、その恐ろしい光景が繰り広げられた。

 天に向けて突き上げられたニーハイブーツのピンヒールは真下から、殴りつけに来る権藤の下顎を突き抜け、更なる天空に駆け抜けたのである。

 メキっともボキっともいう、下顎骨の砕ける音が耳を叩いた。男の口から数本の歯と共に、血しぶきが舞い上がった。

 少女の両方の足先が180度に開いて大きく伸ばされている。

 その伸ばされたブーツの踵が、俯せに倒れゆくヤクザ者の頭を追って、真っ直ぐに降ろされていく。

 メチャ!!

 頭部が潰れる不気味な音が轟いた。

 崩れ落ちる権藤の頭部を空中で捉えたキュートのブーツは、そのまま彼の顔面を大地に貼り付けたのだ。

 権藤は大地に壮絶なキスをした。

 ピクリとも動かないヤクザ者の顔面から、じわりじわりドス黒い血が染み出してくる。

 女子高生を抑えたタケシも、抑えられた女子高生も、腰を抜かして地面に座り込んだシンジも、愕然としてその光景に目を奪われていた。

 信じられない。

 ステゴロの権藤。

 と、異名を取ったあの権藤さんが、年端もいかない金髪ギャルに、ただの一撃で地面に沈められたのである。

「ステゴロ」とは「素手での喧嘩」という意味である。これまでタケシは、素手のケンカで権藤が敗れた所を見たことがなかった。

 この女、化物か?

 タケシの背筋に冷たいものが走った。

 その化物が、天使の笑みを浮かべながら近づいてくるのを目にしたからだ。

「ねえキミ。選ばせてあげる」

 微笑みながら美少女は言った。

「天国へ行きたい? それとも地獄へ行く?」



 瀬名あさみです。

 と、消え入りそうな声で少女は答えた。

 西国戸田高校の2年生。西国戸田高校というのは東京の西、国分寺市にある私立の高校だ。

 国分寺近辺には一橋大学や東京経済大学、東京学芸大学など数多くの大学があるため、戸田高校の偏差値は都内でもトップクラスである。毎年東大にも何人かの合格者を出している進学校である。その代わり授業料もそれなりにかかる。つまり、西国戸田高校の生徒であるというだけで、かなりのお嬢様と想像できるのだ。

 六本木7丁目の外れにあるクラブ「響」。

 クラブとはいえ銀座辺りにあるような、キャストを何十人も抱えた高級クラブとはわけが違う。

 高層ビルの狭間にひっそりと佇む、小さな貸ビルの地下にあるいわいるミニクラブである。いいようによってはスナックと言い換えたほうがいいかも知れない。

 なにしろキャストと言われるのは、このキュートが只ひとり。他には見事なまでの銀髪頭の老バーテンダーと、ママと呼ばれる女性がひとり。ボーイすら置いていない、三人だけのささやかなお店なのであった。

 お店の広さは10坪ほどで、10人掛けのカウンターと4人掛けのボックス席がふたつ。20人も入れば一杯の小さな店である。それでも毎夜客が入りきれないほど繁盛しているのは、キャストであるキュートの可愛らしさもさるものながら、一重に響子ママの美貌に寄るところが大きい。

 キュートが幼さをたたえたアイドル系の美少女なのに対して、響子ママは妖憐な魅力を秘めた小悪魔的な美女であった。

 年の頃なら30中半か後半、四十の声は聴いていないと思える。もしかしたらもっとずっと若いのかも知れない。年齢不詳の響子ママの年齢は、常連客の間でも噂の的である。

 別の噂では、以前銀座の一流店を経営していたらしいのだが、何を思ったか数年前に銀座の店を売って、この街にやって来たらしい。もちろん噂だから、真実のほどは知らない。当然本人は喋らないし、昔の彼女を知っている客は殆どいないようであった。


 開店前のボックス席。

 女子高生瀬名あさみの横にはキュート、そしてその対角には響子ママが座っている。

 いまのキュートは仕事用の濃蒼色のドレスに着替えている。胸から腰にかけて淡いブルーから徐々に濃さを増してゆき、膝から下は濃紺のグラデーションというサマードレスだ。長い金髪のヘヤーも盛り髪風にまとめてある。

 それに対して響子ママは豪華な和服。淡い紫に花菱柄をあしらった正絹の付け下、軽く見積もっても百万を下らない。

 カウンターの奥には老バーテンダーが居るはずだが気配さえ感じない。場の雰囲気を察して席を外しているのかも知れなかった。

銀色の髪の毛をピタリと撫で付けた小柄な老人だが、年齢は幾つなのかはっきり言ってあさみには見当がつかない。70代かそれとも80までいっているのか。顔のしわや頬から顎先へと連なる白髭をみればかなりの年齢を想像させるが、それにしては背筋もピンと伸びて足腰もしっかりしているようだった。

 あさみは怯えていた。

 無理もない。初めて歩いた六本木の街で、いきなり三人のヤクザ者に誘拐されかけたのだ。おまけにあわやの所に駆けつけた救世主は、大の男を一撃で血まみれにして平然と笑っていたのだから。連れてこられたこの場所も、はじめて目にする怪しい酒場。彼女にとっては拉致されたのも変わらない。

「大丈夫。こわくないよ」

 そう言うキュートの言葉も耳に入らない。ただただ子猫のように震えているだけだ。

 持て余したキュートは困ったように、目でママに助けを求める。

 響子ママはため息をついて、俯く女子高生に目をやった。

「ねえ、あなた。あさみちゃんだっけ、あなたはどうしてこの街にやって来たの?」

 あさみは押し黙ったままだ。

「あなたみたいな子が、ひとりでこんな所をうろつくなんて思えないわ。何か事情があるんでしょう?」

「お父さんが・・・」

 長い沈黙の後、聴き取れないような小さな声であさみが言った。

「お父さんが?」

「・・・いなくなったの」

 そしてすがり付くような目で響子ママを見た。

「わたし、父を捜して。そして・・・」

 横に座ったキュートに縋り付き、ワッと泣き出した。それまで堪えていたものが、一気に込み上げて来たのだろう。

 キュートの手がその背中を抱いた。

 ママと目を合わせ、彼女が小さく頷くの待って、その手を緩やかに動かした。

「大丈夫だよ。ボクに任せて。・・・ね、落ち着いたでしょう?」

 何時の間にかあさみの嗚咽は止まっていた。

 込上げた感情を吐き出したお陰で気持ちも落ち着いたのだろう、彼女は顔を上げた。

「ぽら、涙を拭いて。折角の美人さんが台無しよ」

 ママが差し出したハンカチを照れくさそうに鼻にあてる。

「それじゃ、落ち着いたところで話してもらえるわね。彼らは何者? なんであなたは拉致されそうになったの?」

「それが、解らないんです。わたし居なくなった父を捜しに来たんです。そしたらいきなり、横に止まった車に連れ込まれそうになったんです。それで慌ててあの路地に逃げ込んだんですけど、あの人達が追ってきて、それで・・・」

 そこでキュートの存在に気づき、慌てて頭を下げた。

「あ、あの時は助けてもらって、ありがとうございました」

「いいよ、気にしないで。それより、パパが行方不明って言ったよね」

「・・・はい」

「どのくらい前からいないの?」

「一週間まえからです。実はその日がわたしの15歳の誕生日で、父がお祝いしてくれるって言うんです。普段そんな事言う人じゃないので、気味が悪いからいいよって断ったんです。そしたら、何でも好きな物を買ってあげるからって。だからわたし、新しいスマホが欲しいって言ったんです。わたしのスマホ、古いから」

 そう言って恥ずかしそうにスマホを取り出した。確かに数世代前の代物だ。

「お父さんに見せたら、確かに古いな。じゃ、新しいのを買ってやろうって」

「で、そのスマホ、買ってもらえたの?」

 彼女は首を振った。

「いいえ。だからわたし、新しいスマホを楽しみにしていたんです。でも、その日、わたしの誕生日に父は帰って来なかった。次の日もその次の日も・・・今日で1週間」

「心当たりは探したの?」

「はい。会社にも電話したし、親戚のおじさんにも・・・」

「会社は何だって?」

「1週間の有給願いは出ているようです。でも、わたしに黙って家を開けることなんかなかったんです」

「電話は?」

「通じません。親戚のおじさんの所にも連絡はないって」

「おかあさんは?」

「いません。5年前に亡くなったんです。心臓病でした。わたし、父とふたり暮らしなんです」

「そう。ごめんね。嫌なこと聴いた」

「いえ」

 膝の上で握り締めた手に、キュートが手を重ねた。彼女は小さく微笑んだ。

「警察には届けたんでしょ」

「はい。でも事件性がない限り動けないそうです」

「ひどいね。たった一人の親がいなくなって、これからどうしろって言うの」

 キュートは本気で腹を立てていた。

「それはそうとして、あなたはどうしてこの街にやって来たの?」

 それまで口を閉ざしていた、響子ママが口を開いた。

「この街に何か、お父さんの行方についての手掛かりがあるというの?」

「はい。実は・・・」

 そう言うとあさみは、学生鞄を開いて一枚のカードと数枚の写真を取り出した。

「父がいなくなった後、父の部屋を調べたんです。そしたらこんな物が出てきて」

 それは「レッドスター」という名のホストクラブの名刺だった。後ろを見ると、「聖夜」の名前が刻まれている。

 写真を見るといずれにも金髪の若い男の子が写っている。これが「聖夜」だろうか。

 それは只の写真より幾分修正が加えられている。店のプロフィール写真を複写した物のようだ。

「赤坂7丁目にあるホストクラブね。あまりいい噂は聴かないわ」

 ママが言った。

「父はそんな所に出入りするような人ではないんです」

「そら、そうよね。これがキャバクラとか風俗なら話は別・・・あ、ごめん」

 ママに睨みつけられてキュートは口を抑えた。

「ホストクラブというより、このホスト個人に興味があるみたいね」

 ホストの写真に目を落としてママが言った。

「聖夜か」

 キュートは自分のスマホを取り出した。名刺には当然テレフォンナンバーが刻まれている。

「だめです。契約が切られているみたいで」

「だよね」

 そんな事はとうの昔に試したであろう。

「で、実際に行ってみたって訳ね」

「はい。でも、時間が早すぎたせいか店は閉まっていて、それで時間を潰した後、もう一度行ってみようかと思ったのですが」

「そこで連中に襲われたってことよね」

 ちょっと考えてキュートはママの顔を見詰めた。

 だめよ、キュート。

 というようにママは小さく首を振ったが、キュートはそれを無視してあさみに向き直った。

「ねえ、あさみちゃん。よかったらボクたちを雇わない?」

「えッ?」

「ボクたちは探偵をやっているの。もっとも表立ってじゃないけど。ねえ、ママ」

 仕方がないわね、という表情で響子ママが頷いた。

「そう。有明精二探偵事務所というのだけど」

「有明精二って、あの名探偵の?」

 あさみは驚いて目を見張った。

「そう、あの有明精二だよ。ようこそ、有明探偵事務所に!」

 キュートは胸を張って言った。



 名探偵有明精二。

 この名前を知らない日本人はまずいない。日本一、いや世界で最も有名な名探偵といっても過言ではない。

 そのルーツは終戦後の少年向き探偵小説「少年少女探偵団」に由来する。

 有明精二は宇田川独歩という探偵小説家が、終戦直後に発表した名探偵だ。小泉少年を団長とする少年少女探偵団を率いて、世界的を股にかけて暗躍する怪盗幻と対決する冒険探偵小説である。

 この物語は当時の少年少女の間で大ヒットし、何度も舞台や映画化された。昭和から平成にかけては、有明精二の息子・有明小次郎が活躍するマンガ「有明精二の息子」が、そして現在ではその孫の有明比斗志が大暴れする「三代目有明精二」が、コミックやアニメで日本だけではなく世界的な大ブームになっている。

「なぜなら俺が、三代目有明精二だからだ」

 という比斗志の決めセリフは流行語大賞を獲ったこともある。

 有明精二が世界で最も有名な探偵といったのはそういう意味である。


「だって、あれって、マンガの中の話でしょ?」

「だと思うでしょう。でもね、有明精二は実在の人物なの。戦時中は特高探偵という、政府関係の仕事をしていたらしいけど。戦後から昭和30年代前半くらいまでは、正にいまボクたちの居るこの場所にあったらしいのよね」

 声を潜めて言う。

「有明探偵事務所」

「ホントなの、じゃ有明比斗志も実在するの?」

「それはないわ」

 響子ママが苦笑を浮かべて言った。

「有明精二は生涯独身だったって聞くから、息子も孫も存在しないわね」

「ついでに言っちゃうとね、有明精二の宿敵・怪盗幻も実在したって話よ。もっとも小説にあるような勧善懲悪の怪盗なんかじゃなくて、実際はテロリストというか殺し屋みたいな存在だったようだけどね」

「それくらいにしなさい、キュート」

 響子ママは喋り過ぎのキュートをたしなめて、改めてあさみに向き直った。

「話を戻すわね。わたしたちはその有明精二の関係者の意向を受けて、この場所で探偵業務を始めたわけね。もっともわたしたちは普通の探偵じゃないわ。御覧の通り看板も出してないし、表向きに公表しているわけでもない。ある特定の人たちの依頼を受けて動く秘密探偵。本来ならあなたのような一見の依頼を受ける立場にはないのだけど・・・」

 あさみの横でニコニコしているキュートを見やり、

「可愛い妹分の友達の頼みとあれば仕方がないわね」

「やったー。ねえねえ、あさみちゃん。ボクたちに依頼するって言って。そしたらボクらはキミを全力で守るし、キミのパパも必ず見つけ出してみせるから」

 あさみは暫く考えてから真剣な顔つきで、まず響子ママにそしてキュートに深々と頭を下げた。

「お願いします。父を捜してください」

「オッケイ。決まりね。久しぶりのお仕事、張り切って行きましょ!!」

 キュートが飛び上がって叫んだ。

「あ、でもわたし。お支払いとかできませんけど」

「いいのいいの、取れるところから取るというのがウチの方針だから」

 そんな妹分を見やって響子ママはクスリと笑った。

「まずは、あさみちゃんの安全を確保するのが肝心ね。いつまた襲われるとも限らないし・・・徳さん」

「はい」

 後方で声がした。あさみがビックリして振り向くと、そこには銀髪のバーテンダーが立っていた。いつの間に近づいたのか、気配がまるで感じられない。

「話は聴いた通り、大至急場所を確保してください」

「分かりました、お嬢様」

「ごめんね、あさみちゃん。暫く学校は休んでもらうことになるわ。あなたの安全が第一だから」

「わかっています。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 頭のいい娘であった。即座に周囲の状況と自分の立場とを理解している。

「で、どうするママ?」

「手掛かりはふたつ。あさみちゃんを襲ったヤクザ風の男たちと写真のホストね」

「ホストの方はボクがやるわ」

 得意分野。キュートが手を挙げた。

「問題はヤクザの方ね」

「あ、写真撮ってあるから」

 キュートはスマホを取り出した。何時の間に撮影したのだろう。そこにはシンジとタケシ、そして彼女がぶっ飛ばした権藤と呼ばれる男がそれぞれのアングルで写っていた。

「一応プロだからね。怪しいものは何でも撮っちゃうクセがついてんの。どうママ、心当たりある?」

 画面を見つめていた響子ママは眉を潜めた。

「ごめんね。記憶にないわ」

「ママが知らないなんて、相当なモグリか、このあたりの人間じゃないか」

「キュート、あなたが闘ったときの感じはどうだった?」

「まあ、そこそこの腕だったわね。アイツ大分ボクを舐めていたからあれで済んだけど、まともに闘ったらもう少し時間が掛かるかも。もっともその時には別の闘い方もあるけどね」

「そうなるとモグリの線はないか。この近辺の人間ではないかもね。・・・それにしても」

 響子ママは権藤の顔、というよりは顔の疵を眺めながら、昔を思い出すような遠い目をした。

「この傷・・・まさかね」

「なんか思い出した?」

「それよりあさみちゃん、お父さんの情報を訊きたいんだけど」

「はい。父は瀬名京太といいます」


 瀬名京太。47歳。自宅は立川市の栄町。勤務先は日本橋に本社を構える東信物産。

 母親は瀬名由美子。あさみの言う通り5年前に亡くなって、現在では父親とふたり暮らしをしている。

 父親の写真はスマホに入っている。キュートとママは、それを自分のスマホにコピーした。

「わかったわ、ありがとう」

 響子ママは「徳さん」と呼ばれた老バーテンダーに向かって頷いた。バーテンダーは軽く会釈してカウンターの奥に引っ込んだ。

 それを見てあさみは、

 ああ、身元調査をするのだなと思った。

 この探偵社は情報収集係が徳さんという老バーテンダー。実行部隊がキュートというキャスト。そして全てを統括する責任者が響子ママと役割分担が出来ているようだ。

 少数精鋭。仕事に関しては安心して任せられそうだ。

 感のいいあさみには直ぐに理解できた。しかし完全に信用した訳ではない。

 そもそも初めてこの街にやって来た自分が、いきなり拉致されかけたこと自体が納得し難いのだ。そして都合良くスーパーガールみたいにキュートが助けに来た。

 もしも全てが予め仕組まれたシナリオだったとしたら・・・

 そこまで考えて、あさみはハッと顔を上げた。じっとこちらを見詰める響子ママの視線に気が付いたからだ。

 全てを見透かすようなその視線に、あさみの背筋を冷たいものが流れていた。



 夜の六本木を派手な格好のギャル女が歩いている。

 キュートだ。

 キャバ嬢ふうに盛り上げた髪をいまはストレートに垂らし、真っ赤な女優帽で抑えている。

 淡いパステルピンクのワンピース。腰の辺りにはサッシュベルト。ミニの裾から見える長い脚には編みタイツ、そして真っ赤なハイヒール。

 ノースリーブの肩からは黒いライダージャケットを引っ掛けている。

 ホストクラブ「レッドスター」。

 あさみが「響」を訪れてすでに1週間が経っていた。

 彼らがあさみの依頼を受けてすぐに行動を起こさなかったのは、敵の動きを警戒してだ。あの事件のあった後すぐに動いたのでは、敵にこちらの存在を知られる恐れがある。

 1週間の猶予を持って、ようやくキュートは行動を開始したのだ。


 扉の前に立ち、形のいい唇をキュと持ち上げる。

 さてと。

 扉を開ける。

「いらっしゃいませ、お嬢様。ようこそレッドスターへ」

 途端に押し寄せる光と音の洪水。その隙間を縫うように、男たちの野太い掛け声がこだました。

 その圧倒的なきらびやかさに、さしものキュートも薄紅色のサングラスの下の目を瞬かせた。

 思い思いの服装に身を固めたホスト達が、二列になって新客を迎える。その間を客は通るのだが、花道を通るスター気分で気持ちがい。

 部屋の中は圧倒的な光の量だ。

 壁や天井や床。果てはテーブルやソファーに至るまで、ところ構わずLEDの電球が取り付けられ様々な色の光を放っている。それらを反射し、さらに際立たせる鏡の壁。

 そしてそれらの光を受けて虹色に輝くガラスの塔。あれが噂に聴くシャンパンタワーか。

 更には脳を揺さぶる大音量のBGM。

 なるほど、これでは客は正常な判断力が奪われるわけだ。もっともそれは、キュートにとっても好都合な状況であった。

「・・・」

 横で前髪を長く垂らした美麗なホストが何か叫んでいる。

 よほど耳を近づけなければ聴こえない。

「ねえ君。前に会ったっけ、僕を指名してくれたよね」

「はあ? ボクこの店初めてだけど」

「そうだっけ。君、可愛いから僕の客かと思ったよ。僕、可愛い子しか客にしないから」

 ホストは臆面もなく言い放った。

 もちろんキュートの目的は「聖夜」以外にありえない。肩を抱かれ席に誘導される間、素早く壁に飾られた写真に目を通す。そこに「聖夜」の写真はなかった。

「どうも、来栖です」

 革張りのソファーに座ったキュートに片膝を着く。もらった名刺は聖夜のものと同じだ。

「君は?」

「んと、ボクはね・・・蘭」

 キュートは柱に飾られた蘭の鉢植えを見て思わず答えた。

「蘭ちゃんか、可愛いい!」

「来栖ちゃんも可愛いい!!」

 もちろん、いきなり本命には行かない。用心させないためにも、まずは打ち解けることが肝心だ。

 となればキュートの本領だった。

 一時間後には目の前のホストはもちろん、他の客たちも交えて店の人気者に成り上がっていた。

 シャンパンタワーの前に立ちはだかって、華麗なブレイクダンスを披露したのだ。客もキャストも手を叩いて、大いに盛り上がった。


「いやあ、いいノリだね。蘭ちゃん」

 来栖が駆け寄ってシャンパンを開ける。

「蘭って呼んでよ」

 その肩にしなだれかけて見せる。

「蘭ねえ、ちょっと酔っちゃたみたい」

 ゴクリと来栖の喉が鳴るのがわかった。キュートの細い指先が、ホストの腕をすうっーと撫で上げる。

 ワイシャツの薄い生地越しでは、殆ど素肌に触れられたのと同じだ。

 来栖の身体がピクリと反応した。

「ね、わかる?」

 下から訴え掛けるように見上げる。

 潤んだ瞳に吸い寄せられるように顔を被せようとした来栖から、キュートの身体はスルリと抜け出していた。

「ねえ。いい店だね。この店」

 鮮やかな笑顔を向ける。

「え、・・ああ、ありがとうございます」

「お姉ちゃん」

「え?」

「お姉ちゃんがね、前によくこの店に来ていたんだ。それで、ボクも来たかったんだ。ようやく夢が叶ったよ」

「そうなんだ」

「お姉ちゃんから聴いていたよりいい店」

「お姉さんには誰がついていたの?」

 2杯目のシャンパンを注ぎながら、来栖が一番聞きたいセリフを口にした。

「んとね、確か聖夜とか言ったかな」

「聖夜?」

 来栖の顔色が変わった。平静を装うとするも、明らかに何かに動揺している様子だ。

 キュートは人差し指を立てて、その背中をすっと撫で上げた。

 うっとりと来栖は目を閉じる。

「ねえ、来栖。ボクは隠し事は嫌い。キミは隠し事なんてしないよね」

 甘い声でその耳に囁いた。うんうんというように、彼は頷いている。

「聖夜君はいまどうしているの?」

「聖夜は辞めたよ」

 来栖は夢心地で答える。

「辞めた? いつ」

「もう3ヶ月にもなるかな」

「何で?」

「さあ、知らねえな。・・・でも」

「でも?」

 キュートはピタリと身を寄せ、指先で背中を摩っている。傍から見るとホストに甘えかかっているようにしか見えない。

「なんでもかお袋さんが亡くなったらしい。それで遺産が入るんだって、ひどく喜んでいたぜ」

「遺産ねえ」

「しかし、変なんだよな」

「変? 何が」

「だってあいつ、親父さんが早くに亡くなって、母親ひとりの手で育てられたんだぜ。遺産なんてあるはずがない」

「お母さんの実家が金持ちかも知れないじゃない」

「それはないんじゃない。実家が金持ちなら、ホストなんてやってないって」

「そうなの?」

「でさ」

 急に来栖が身を乗り出して来た。酔いのせいか眼が潤んでいる。

「前に聴いたんだが、あいつの親父には兄貴がいてな。高校生の頃に自殺しちまったんだってよ。前に言ったように、その親父さんもずいぶん前に亡くなったんだけど、亡くなる直前まで兄貴の自殺についてずっと調べていたらしい。そのノートがお袋さんの実家にあるんだとさ」

「で?」

 来栖は声を潜めて、囁くように。

「俺が思うんだけどさ、相続した遺産てそのノートのことなんじゃないのかな」

「何でそう思うのさ」

「辞める前にそんな話をしていたからさ、子供の頃はなんてことのないノートだと思っていたけど、改めてみると凄いって」

「凄い? 何が凄いんだろう」

「さあな。それから直ぐに辞めちまったから、俺は知らないな」

「ふうん」

 キュートは考えをまとめるために、一瞬手の動きを停止した。その間ふと我に帰ったように来栖が顔を上げた。

「ってお前。何でそんなこと訊くんだよ」

「別に。キミが勝手に喋ったんじゃない。もう忘れなよ、そんなこと」

 そう言ってその肩をポンポンと二度ほど叩いた。



 深夜の春風がキュートの身体を包んでいる。

 春とはいえこの季節の夜風は、まだノースリーブの素肌には薄寒い。彼女はライダージャケットの袖に腕を通した。

 その腕にスマートフォンが握られている。

 檜町公園の散り始めた桜の花びらが、はらはらとライダージャケットの肩に舞い落ちる。

 公園を右手に、六本木駅の方向に歩いているのだ。

檜坂は急な登りだ。

 スマートフォンで話をしている相手は響子ママだ。先ほどのホストクラブでの調査結果を報告しているのだ。

「・・・と、言うことなの、ママ」

「そう、やはり気になるわね。その聖夜君という子」

「辞めちゃったって言ってたけど、いまどうしているのかな」

「住所とか、わかっているの?」

「あの後、お店の店長さんに訊き出した。最初は渋っていたけど、壁ドンしたら親切にも話してくれたわ」

 ふふふん。

 とキュートは鼻を鳴らした。

「でも、多分そこには居ないね」

「何でわかるの?」

「ヤバそうなのが居るから」

 ふふっと笑いながら足を公園の中に向ける。

「あらあら」

「ねえ、ママ。遺産ってなんのことかな?」

「お金ってことでしょ」

「あのノートがお金になるってこと?」

「そうかも」

「なるほどね」

 トイレの脇を通って更に奥へ。

「聖夜君のお父さんのお兄さん、自殺したって言ったわよね。どうもその辺りに何か事情がありそうね」

「自殺と遺産とヤクザ。それとあさみちゃんの一件と、どう繋がるの?」

「さあ? それを調べるのがあなたの仕事じゃない」

「う~ん。面倒臭くなった」

 キュートはため息をついた。

「あんたが持ち込んだ仕事でしょ」

「ボクってば、ゆっくり考えるの苦手なんだよね。手っ取り早く答え、訊き出しちゃってもいい?」

「訊き出すって、今あなたの後ろをつけている人達からってこと?」

「さすがママ、よくわかるわね」

「あなたが言ったのよ、ヤバいのが居るって」

「だよね」

「だめよ。酷いことしちゃ」

「大丈夫。話を訊くだけだから、荒っぽいことはしないよ。じゃあ、電話切るわね。こんなことしてたら、彼ら襲ってきてくんないから」

「はいはい。くれぐれも騒ぎを大きくしないでね」

 了解。と言ってキュートはスマホを切った。その時にはもう、公園の中深くに足を踏み入れている。


 深夜の檜町公園。

 周囲には誰も居ない。桜の花びらがはらはらと舞うばかりだ。

 こんな場所で襲われても殺されても、誰にも知られることはない。

「さてと」

 常夜灯の明かりの中で、キュートは足を止める。ゆっくり振り向いた。

「いいよ、みんな。出ておいで。ボクのこと拉致って犯して、色々訊き出したいことあるんでしょ」

 しかし暗闇の中にはなんの反応もない。

「こちらもさ。聴きたいことは山程あるからさ、情報交換といかない?」

 キュートは女優帽を脱ぐと、ゆっくり足を進める。

「ほら、そこの木陰のキミ。それとそちらと、後は・・・」

 くるりと後ろを振り向き、

「後ろに回ったキミ」

 キュートが指さした大木や灌木の陰から、それぞれ3人の黒ずくめの男たちが現れた。2人は前方残りの一人は後ろに回って、キュートの退路を塞ぐフォーメーションだ。

「・・・・」

 男たちは無言で折りたたみの特殊警棒を取り出した。前回のチンピラ達とはわけが違う。冷たい殺気を纏い付かせた本物だ。

 芝生はゆるく、足元から男たちの方へ下っている。

 背後にはミッドタウンタワーの大きな影が、漆黒の巨人のように覆いかかる。

 キュートの唇に笑みが広がった。

「なるほどね。こんな街中じゃ流石に拳銃とかは使えないか。・・・じゃ、いくよ!」

 そう言うといきなり2人の男たちに向かって全速でダッシュした。

 不意をつかれた男たちが身構えるのへ、着ていたライダージャケットを投げつけると、反転して後方から追いかけてくる男のほうへ方向を変えた。いきなり方向を変えられた男との距離が一気に縮まる。

 慌てた男は手にした特殊警棒を振り下ろした。その警棒の下をすり抜けながら、男の顎を抑えた手を支点にして、キュートの身体は大きく回り込んだ。

 男の首が激しく捻れた。一瞬、脳震盪を起こしたのだろう。声も上げずに膝から崩れ落ちた。

 その時にはもう、前方のふたりが目前に迫っていた。

 2本の特殊警棒が、それぞれの角度からキュートを襲う。一撃でも喰らえば骨は折れ、肉は弾ける勢いだ。

 その特殊警棒の嵐の中を、キュートの身体は右に左に摺り抜ける。摺り抜けながら彼女の白い手のひらが、ひらりひらりと宙を舞う。

 何をしたというわけでもない。

 キュートの掌が2度3度男たちの身体に触れ、すれ違う瞬間その耳元に何やら囁いただけだ。

 それで屈強な男たちは膝を付き、固まったように動けなくなった。

 微かに震える男たちに桜の花びらが舞い落ちる。

 男たちは必死に身体に動かそうともがくのだが、どうにもいう事を効かないらしい。

「だめだよ、もうキミたち動けない。ねえキミたち、心法って知っている?」

 キュートは歯を食いしばって、必死に身体に動かそうとする男の顎先を抑えて問いかけた。

 その唇に血が滲む。男の全身にもの凄い力が篭っているのがわかる。

「知らないよね。ま、いいか。じゃ、話を聴かせてもらおうかな」


 その時だった。

 黒い怪鳥のように大きな影が、キュートの前の男をなぎ払い、男の身体は植え込みの向こうに転がった。

「てめえら、俺の女に手を出すんじゃねえ!」

 大声で叫びながら、動けない男たちを次々となぎ倒していく。

 さすがのキュートも突然のことに言葉を失った。

「な、何? キミは誰なの?」

「よう、キュート。捜したぜ」

 男はキュートを振り向いて親指を立てて見せた。常夜灯の光がその横顔を照らし出す。

「あ、キミは・・・確かタケシくん?」

「シンジだよ。犬飼信二。間違えるか、そこ」

 男は瀬名あさみを襲った二人組のチンピラのひとり犬飼シンジだった。キュートの手により呆気なく射精させられた男だ。

「どうしてキミが?」

「お前を捜していたんだよ。あん時のことが忘れられなくってよ、それでお前の立ち寄りそうな所を捜していたら、偶然お前が公園の中に入って行くところを見つけてよ。これは運命なんじゃないかと思ったら、何か怪しげな男たちが後を付けて行くじゃねえか。こいつはヤバって思って後を付けて来たんだよ。いやあ、危ないとこだった」

「何言ってんの? 状況をみてよ、全然危なくないじゃん」

「いいからいいから。可愛い彼女のピンチを救うのは、彼氏の責任だからな」

「誰が彼女やねん?」

 つい関西弁が飛び出した。

「俺の彼女になるって言ったじゃんか」

「言ってないよ」

「俺の女になるかと言ったろ、そしたらキスしたじゃん。あれはOKってことだろうが」

「キミってバカぁ?」

 ふたりがそんなやり取りをしている間に、自由を取り戻した黒ずくめの男たちは、ほうほうの体で闇の向こうに逃げ出した。

「ああ、ちょっと。ねえ、見てよ、逃げちゃったじゃない」

「いいじゃん、やっとふたりきりになったってことで」

 シンジは平然と言ってのけた。

「まったく、キミって男は」

 キュートはその首根っこを抑えて、

「まあ、いいわ。代りにキミに答えてもらうから。ちょっと付き合ってもらうわよ」

「付き合ってください、だろ?」

「その付き合うじゃないよ!」

 言ってからキュートはプッと吹き出した。

 なんかヘンな男。

 

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