4.噂に踊る人
楽しいことばかりしていると毎日が楽しすぎるけれど、その10倍、100倍の期間、楽しいことを我慢しなければならない日々を過ごすことになるからねと、母によく説教された。
夏休みの始まりに落とされる定番説教である。今年は、功一も一緒に拝聴することになって、何だか心強くてならない。一蓮托生みたいな感じで。
足の引っぱりあいでは、断じてない。
小学一年生の夏休みの最終日、学童保育の先生が夏休みの終わりを告げた。迎えにきてくれた母に、私はこの世の終わりがきたのかと思うほどの暗い顔つきで聞いたらしい。
明日からどこにいけばいいの。
学童保育で夏休みを大満喫している間に、一学期の授業習慣など私の頭の中からきれいさっぱり洗い流されてしまっていたわけだ。夏休みの宿題に苦労していたにもかかわらず、学校にいくという発想を全く思いつかなかった。
紛うことなき勉強嫌いの歴史の一つで、笑い話としてご披露されている。
高校生になっても夏休みの宿題があるのか……。その量たるや、どう頑張っても仕上がるとは思えない。
賢い学生と馬鹿な子に同じ量の宿題を出すのっておかしくない?
こんなにたくさん。どう頑張っても終わんないよねと、功一に愚痴ればそうだよなと相づちをもらったのだが、言いづらそうに言葉が続く。
馬鹿だからもっと頑張れと特別ドリルを貰った年の方が多かったそうだ。賢い奴よりも宿題が多くなるのは、馬鹿の定めなんだよと慰めてくれた。今年は同じ量だからラッキーと思わないとなだって。返す言葉が出てこない。
補修があるのもそのせいだと、功一。
ああ補修……赤点とった分、出席したらチャラ補修がそういえばあった。功一と私はフル出席を言い渡されている。
暑い中、登校しなくて良いよねと隆一をうらやめば、夏期講習を受けるために登校するよと優等生。
出席自由の夏期講習の他に、選抜者だけが受講できる夏期特別講習なるものが、この学校にはあるらしい。その予定表を見せてもらえば、補修より日数が格段に多かった。夏休みがほとんどない。朝から夕方までびっしりとある。
そういうわけで、夏休みに入っても、3人でお弁当を食べてる。昼休みになると、補習クラスに堂々と入ってくる隆一を、畏敬の眼差しで皆が出迎える。全国模試で、トップを取った教科があるという噂にひれ伏しているのだ。その噂、本当だから。
そして、あわよくば宿題の写しなんぞを頼められたらといいなぁと、私達は思うわけでして。
夏期特別講習組は既に夏休みの宿題を終えている聞いた時、その場にいた補習組の全てが戦慄した。やり終えるのに3日もいらないよね、という隆一の言葉にそうかなとなんとか返事して、功一の方を見遣れば驚いた顔をしていた。ここに心強い仲間がいる。
頭の作りが違うとつくづく感じ入った。私なら写し終えるのでさえ、3日では足りない。
もちろん写さないよ、頑張ってやり遂げるつもりだけど、どうしてもの時は頼らせてとお願いしておいた。
本日の補習が終わった。これで明日も登校すれば赤点が一つ消えるとちょっと気分が浮上していた帰り道、隆一と功一との関係をきかれた。
私の母と、二人の父が再婚した関係だとシンプルに応える。実はここからが長い。今まで一度もそこで詰問や難癖が終わったためしがない。
いつもながら女子高校生の舌鋒は鋭く、かなり応えた。
帰宅後、明日の登校の用意をする。目減りしてくれない宿題にしっかりと組まれた補習授業。補習と宿題だけで夏休みが終わってしまいそうだ。意気消沈である。でも特別な、出かける予定が立たないことに、安堵している自分がいる。
どこにいけばいいの。
この不安感はいつもついてまわっていた。
母が家に男を引き込んだという記憶はない。男が部屋にいる間、外にいろとかそんな無体なことは一度も経験したことがなかった。母はいつも私のことを気にかけてくれていたから、私は一人ぼっちの寂しさを知らずに大きくなった。
保育園と自宅、小学校と学童保育と自宅に高学年からはお店、中学校とお店。いつでも私には居場所があったのに。
どこにいけばいいのか、わからなくなる時がある。
私が生まれなければあんなにも苦労せずにすんだのにと、母の知人が声高に喋る。
老いらくの恋に陥った原島さんを見限る人がでてきたと、さげすむように言われた。そんなこと私に言われてもと怪訝な顔をしていたら恋の相手は私なんだとか。疫病神だと、吐き捨てられた。
学年首位の隆一の側を、最下位の私がうろちょろするのはありえないらしい。馬鹿はうつるもんじゃないのに。
功一の母親を追い出しておいて、よくも原島家にのうのうと暮らしていけるわねは、もう何度も聞かされ続けている言葉だ。
そうして、一言付け加える。内緒話をするように、告げ口するように聞かせてくるのだ。
あなたのこと、本当はいらないと彼等は思っているらしいよ。
それは、母達の言葉でなく世間の悪意だ。わかっているのに、心に律儀に積まれていく。
彼等がそんなことをうかつに口にすることなどない。そもそも思ってもいないはずだ。
でも、でも、もしかしてと、不安を抱え込む。
彼等の側に自分の居場所があることにほっとしながらも、不安は大きくなっていく。
ここで、考えは飛躍するのだ。
彼等から離れてしまえば、この不安はなくなるのではないか。与えられた居場所ではなく、自分で作った居場所であればこんな気持ちを抱え込まなくてもいいのではないか。
最近、そんな考えに取り憑かれてならない。
部屋のドアを功一がノックしてきた。リビングで宿題をしようのお誘いだ。立派な部屋を与えられているのだが、宿題をするのには適していない。誘惑が多すぎるのだ。
このままこの部屋にいては駄目だ、馬鹿が大進化してしまう。誘惑部屋を飛び出して居間で宿題を片付けようと四苦八苦をする私に、功一が面白がって付き合いだした。私の勉強の邪魔をしないと母や原島さんの前で宣明させて、横で勉強することを許した。
馬鹿同士が並んでいても、うんうんうなるのが二重になるだけでちっとも宿題は終わらない。そして、二人とも休憩が大好きだ。
あともう少しで夕飯なのに、おやつに手が伸びてしまう。まさかこの年になって、おやつの取り合いをするとは思いもしなかった。それ、私のぶん。功一が手に取ったものを半分こにしてもらった。
渋々とかえしてきた功一が、先日、私の身に起こった告白について聞いてきた。二年男子に、つきあって欲しいと言われてその場で断った件である。特進クラスの男だったらしく、身の程知らずに振って生意気だとかなんとか言われてる。付きあったとしても身の程知らずに付きあって生意気と言われるに違いない。
功一が言うには、その男子、なかなかの優良物件らしかった。それなのに付き合いもしないのはもったいないんじゃないのとのこと。
高校生に良い印象がないことを説明した。
私の通っていた中学校は、地域特性もあったのだろう。同級生の3割前後が片親家庭だった。クラスの中に色んな階級があるんだけれど、水商売をしている母親をもつ女子に対しての偏見には悔しい思いばかりした。
級友が年上の、そう高校2年だった男と付き合いだして、あっという間にいわゆる不純異性交遊に突入した。日も経たない内に、その級友から聞かされた泣き言が、お前はヘタクソだと言われただった。
中学生の二つも下の女の子にヘタクソとのたまったんだよ。母親が夜の仕事をしているからうまいんだろうって付きあったのに外れひかされたって、何なのそれ。
大きく深呼吸して、だから高校生は問題外なの。
自分で責任の取れない付き合いは絶対にしないの。それがどんなに楽しいことか想像できても、しない。
わかったと、功一が返事をくれた。