第一話
本編の書き出しって悩みますよね。
「…で、この荒い斜面の静止摩擦係数μが…」
彼の通っている高校は、二年次に理系と文系に希望者ごとにグラスが別れる。
文系なら書道の授業があって古文の授業が多めになり、理系なら数学の時間が増えて物理の授業がある、といった風になる。
今の時間は物理である。
希望して理系になったのはいいものの、数学に圧倒されて物理で打ちのめされ、中間と期末は目も当てられない散々な結果となり、危うく夏休みに補講が入りかけた程だった。
教壇に立つ先生の説明は呪文を唱えているようにしか聞こえず、それがもたらす催眠効果は抗い難き睡魔となって僕を襲い、毎度の授業は終わりを告げるチャイムが目覚ましとなる状況であった。
そして今回も例に洩れず、授業の感想は「よく寝た」となった。
さて、今の鐘は4限が終わった事を示すチャイムであり、要は昼飯時である。
申し訳程度に公式やら図がちょっとばかり書かれた物理のノートを閉じ、筆記用具を缶ペンケースに突っ込んで、教科書と纏めて机の中にしまい込む。
そして鞄から弁当箱を取り出して机の上に置いたところで、メガネを掛けた背の高い男子生徒が、右手に自分の席の椅子を持ち、左に弁当箱をひっさげて、赤崎、と声を掛けてくる。
―――赤崎 仁。僕の名前である。このメガネは鷹崎で、よくつるんでいたらレッドホークと渾名が付いたりした。リボルバー拳銃みたいな渾名である。
そのまま鷹崎は持ってきた椅子を僕の机の向こう側に降ろし、弁当箱を机に載せる。
高崎とはこの高校が中高一貫ということもあり、中学からの友人である。とはいっても殆どが高校にそのまま上がるので高崎だけが例外と言う訳でもないが。
弁当箱のケースを開けて、頂きますと小さく言って中身を食べ始め、鷹崎も同様にして食べ始める。
「なあ、今日の放課後ヒマだよな?買い物に付き合って欲しいんだが」
と鷹崎が唐突に、唐揚げを頬張りながら話しかけてくる。
口のなかに物があると言うのに…と思いつつ、暇である事を告げる。
僕の所属している部活は演劇部で、中学の初め頃こそ運動系の部活に参加していたものの体力が持たず、2ヶ月と経たずに帰宅部と相成ったのだが、ふとしたことが切っ掛けで演劇部に所属していた。
今日は水曜、部活は月・火・金であるため、つまるところが用事でも入らない限り放課後は家に帰るだけだった。
「買い物って、何を買いにどこに行くのさ。」
「マトンに今期アニメの作品のフィギュアを買いに行く。」
僕が聞くと、鷹崎がそう返す。やはりか、と心の中で呟く。
マトンとは生後1年以上の羊の肉…ではなく、コミック・アニメ関連の商品を幅広く取り扱っているショップの事である。店の名前は食べ慣れるとクセになると云う羊の肉の方のマトンから取ってきているらしかった。
学校から10分ほど歩いた所に店舗があり、よく鷹崎が放課後通っていて、お供として僕が誘われるわけである。
この鷹崎、もとい背高メガネは足繁くショップに通ってはアニメやコミック、それらの関連商品などを買い漁っていた。
「それで今回のターゲットは?」
「んー、今期の水曜深夜枠の『ホワイトゴーレム』は見てるか?」
質問を質問で返される。その番組は見ていなかったので、いいや、と答えると
「もしかして原作もご存知無いのですか?」
と芝居がかった風に鷹崎。ホワイトゴーレムという作品について知っているのは、小説が原作でそれを基にした漫画が出て、今期の水曜深夜枠にアニメが放映されている、ということだけだった。
鷹崎はふむ、と親指と曲げた人差し指で顎をつまんで考えるような仕草をした後、
「今日3話目だから、今回から見たらどうだ?1、2話目分は小説読めばいいだろうし。」
と言う。勧めてくるという事はどうやらお気に入りの作品のようだ。どんな話なんだろうと興味を持ちつつ、今回買いに行くフィギュアはその登場人物なのだろうと判断し、改めて「その作品の中の誰の物を買いに行くのさ?」と聞く。
鷹崎はちょっと待て、と手のひらを見せて反対の手でスマートフォン(琳檎式)を取り出すと何やら操作した後こちらに画面を見せてくる。それに写っていたのは少女…15歳程に見える砥茶色のローブのような物を羽織った、身の丈程もある木の杖を持った金髪の少女のフィギュアの画像だった。
スマフォを受け取り、拡大したり動かしたりして眺める。ひとしきりそうした後、高崎に返しつつ「で、何ていうキャラなんだ?」と改めて聞く。
「リサ・ライラ・アルトマン、メインヒロインだよ」
これ以上はネタバレだ、と鷹崎は続け、「それでどうなんだ?」と聞いてくる。そういえばついて行くのかについて言及していなかった、と思い返し、財布の中に8名の夏目さんを確認しつつお供致します、と返す。
…その後はアニメ談義等をしつつ、弁当箱の中身を腹に収め、5・6限の保健体育の授業の為に体操着とシューズを用意して地下アリーナへと向かった。
―――HRが終わり、放課後。鞄に荷物をしまい終わると鷹崎に「行こうぜ」と声をかけられる。おう、と短く返して教室を後にして校門を出ると、丁度バスが近くの停留所に停まり、客を降ろしていた。
行ってしまう前に乗り込み、公共機関の共通パスを見せて近くの空いた席に座る。
鷹崎が隣の席に座るとバスは動き出し、たわいもない会話の横で暫く都会の景色が流れた後、目的地そばの駅の停留所に停車する。
大きな駅の側で人通りが激しい為、逸れないようにしつつ目的の店舗まで人を避けつつ歩いていく。
アニメショップ・マトンはコンビニ横の階段を下がった地下に有った。ポスターで天井付近が飾られている関連グッズが所狭しと展示された店内へ鷹崎が先に入っていき、こっちこっち、と先導する。買い物カゴを手に後を追う。
アレだ、と指さす先は「最新六巻発売、ホワイトゴーレム」と書かれたメインヒロインの描かれたポスターと、そのそばにある平積みされた小説。
全ての巻を1冊ずつ手に取り、価格を見て(今月)大丈夫、と判断してカゴに放り込み、「お前のお目当ては?」と先導者に尋ねる。
仕事の早い誰かさんは小説を手に取っている間に目当てのブツを見つけ、手に持っていた。
ふと視界の端っこの方に、赤い帯に黒いハードカバーの本が映る。
ファンタジー的設定辞典、と表題が銘打ってあるそれを、空いている方の手に取って眺めつつ尋ねる。
「これって昼にお前が言ってた奴か?」
「ん? ああソレか、そうだよ」
やはりそうらしい。昼の話題の中にこの本についての話もあった。お前が好きそうな本だよ、と言われたのだ。僕がトリビア的な情報が大好きな人間である、という事をこの友人はよく知っていた。カゴを少し地面に置き、ペラペラと捲ってみる。
目次には様々な用語や単語が羅列されており、最初の項はアトロピンという物質について説明されていた。「ベラドンナ(P122)という植物に含まれる、化学式 C17H23NO3・分子量 289.37 のアルカロイド(P18)…」といった具合に結構詳しく、かつ他の単語の掲載ページも書かれていた。…なんとなくファンタジーじゃない単語も目次に含まれていたが、取り敢えずお値段を見てみる。
小説5冊分だったので、これも買うと全部で小説11冊分だった。咄嗟に買える!思ってしまい、全夏目さんの3/4以上が家出をする事になった。
―――鷹崎もお目当ての物を購入し、その後程なくして駅の入口で別れ、停留所にてバスに乗る。
ここに来た時よりも帰宅する人々でバスの中は混んでいたが、ここが出発点ということもあって一人用の席は幾つか空いていた。その内の出口に近い配置の席に座り、鞄を膝に載せる。
マトンはバスの路線の学校を挟んで家から反対の方向に位置していた。暇つぶしに鞄を開き、黒いハードカバーの本の方を取り出す。アトロピンから始めて四天王の項まで差し掛かった時、家の最寄りのバス停に到着する。本を閉じて下車すると、既に空は暗く、涼しいと言うより寒かった。
このバス停は公園の入口前に設置されており、この公園を突っ切って暫く歩いた所が家だ。小さな山を覆うように存在するこの公園は桜の名所としても有名で、今は紅葉が見頃の季節である。
山を削って作った下の広場と頂上付近の上の広場を繋ぎ、上の方の公園入口まで伸びる細長い雑木林を突っ切る階段を上っていく。公園の山はそこまで高さは無いが結構な面積を誇っているため、階段はぐねぐねと蛇行するような、小さな踊り場と短めの段差が幾重にも連なる距離が長いタイプだった。
階段の道筋にはやけに凝った古めかしいデザインの外灯が立ち並び、すっかり黄色やら赤く染まった木々の葉を照らし出していた。春頃の桜並木も良いけど紅葉も良いもんだなぁ、と思いつつ登ってゆく。
ふと、半ばまで登ったところで足が止まる。
―――疑問に思ったのは2秒後、そして大いに焦ったのは更に3秒後だった。
動けない。
呼吸はできる、目も動かせる。しかし手足は動かそうとする意思を無視して1歩も動けず、その場に立ち尽くす。
なんで、どうしてだという呟きもまた、口から発されることはなかった。
何もできない。叫ぶことも、携帯電話を取り出すことでさえも。助けすら呼べないのだ。
手足が反抗期を迎えて10秒ほど経った頃だろうか。体中に違和感を覚える。
まるで、そう……米粒よりも小さな無数の目玉が体中に入り込んで、じろじろと眺め回されているような。そんな違和感だった。
―――気持ち悪い。すごく。すごく。
別に痛いわけでは無く、くすぐったいようなぞわぞわとするその感覚は、手足が動かないという異常な状況に焦っていた仁の精神に追い討ちを掛けてくる。
と、くすぐったいようなその感覚がすっと消え失せ、そして新たな異変に気づく。
さっきまで1人でこの人気のない夜の公園の階段を上っていたのに、自分の目の前にはもう一人の人が立っていた。
思わず助けを求めようとして、はたと気がついてしまう。
同じ学校の服を着た、自分と全く同じ背格好の、鞄に全く同じアクセサリーを、同一の配置でつけている人物―――と、そこまで気がついた所で、すーっと意識が遠のいていく。
理解することの恐怖からではない意識の消失と同時に、足裏から地面の感覚が消え失せる。
最早状況の理解が追いつくことはなく、地面にぽっかりと空いた"橙色の光る縁取りの穴"に、物理法則に従って体が自由落下を始めた所で意識は完全に暗転した。
―――
―――――
――――――――
…あれ?動けるな…
何だったんだ一体。
手足は…ちゃんと動くな。
…きっと疲れてるんだな。そうに違いない。
飯食って風呂入って寝よう…
ああ、でも物理の宿題出てたんだっけ…
階段にいつの間にか現れた、赤崎仁と瓜二つの顔で同じ格好をしたその人物は、そんな事を考えながら仁の家へと階段を上って行く。
そして彼は物理の宿題をわからないなりにやった後、すぐに布団に直行した。
「…で、この荒い斜面の静止摩擦係数μが…」
彼の通っている高校は、二年次に理系と文系に希望者ごとにグラスが別れる。
文系なら書道の授業があって古文の授業が多めになり、理系なら数学の時間が増えて物理の授業がある、といった風になる。
今の時間は物理である。
希望して理系になったのはいいものの、数学に圧倒されて物理で打ちのめされ、中間と期末は目も当てられない散々な結果となり、危うく夏休みに補講が入りかけた程だった。
教壇に立つ先生の説明は呪文を唱えているようにしか聞こえず、それがもたらす催眠効果は抗い難き睡魔となって僕を襲い、毎度の授業は終わりを告げるチャイムが目覚ましとなる状況であった。
そして今回も例に洩れず、授業の感想は「よく寝た」となった。
さて、今の鐘は4限が終わった事を示すチャイムであり、要は昼飯時である。
申し訳程度に公式やら図がちょっとばかり書かれた物理のノートを閉じ、筆記用具を缶ペンケースに突っ込んで、教科書と纏めて机の中にしまい込む。
そして鞄から弁当箱を取り出して机の上に置いたところで、メガネを掛けた背の高い男子生徒が、右手に自分の席の椅子を持ち、左に弁当箱をひっさげて、赤崎、と声を掛けてくる。
―――赤崎 仁。僕の名前である。このメガネは鷹崎で、よくつるんでいたらレッドホークと渾名が付いたりした。リボルバー拳銃みたいな渾名である。
そのまま鷹崎は持ってきた椅子を僕の机の向こう側に降ろし、弁当箱を机に載せる。
高崎とはこの高校が中高一貫ということもあり、中学からの友人である。とはいっても殆どが高校にそのまま上がるので高崎だけが例外と言う訳でもないが。
弁当箱のケースを開けて、頂きますと小さく言って中身を食べ始め、鷹崎も同様にして食べ始める。
「なあ、今日の放課後ヒマだよな?買い物に付き合って欲しいんだが」
と鷹崎が唐突に、唐揚げを頬張りながら話しかけてくる。
口のなかに物があると言うのに…と思いつつ、暇である事を告げる。
僕の所属している部活は演劇部で、中学の初め頃こそ運動系の部活に参加していたものの体力が持たず、2ヶ月と経たずに帰宅部と相成ったのだが、ふとしたことが切っ掛けで演劇部に所属していた。
今日は水曜、部活は月・火・金であるため、つまるところが用事でも入らない限り放課後は家に帰るだけだった。
「買い物って、何を買いにどこに行くのさ。」
「マトンに今期アニメの作品のフィギュアを買いに行く。」
僕が聞くと、鷹崎がそう返す。やはりか、と心の中で呟く。
マトンとは生後1年以上の羊の肉…ではなく、コミック・アニメ関連の商品を幅広く取り扱っているショップの事である。店の名前は食べ慣れるとクセになると云う羊の肉の方のマトンから取ってきているらしかった。
学校から10分ほど歩いた所に店舗があり、よく鷹崎が放課後通っていて、お供として僕が誘われるわけである。
この鷹崎、もとい背高メガネは足繁くショップに通ってはアニメやコミック、それらの関連商品などを買い漁っていた。
「それで今回のターゲットは?」
「んー、今期の水曜深夜枠の『ホワイトゴーレム』は見てるか?」
質問を質問で返される。その番組は見ていなかったので、いいや、と答えると
「もしかして原作もご存知無いのですか?」
と芝居がかった風に鷹崎。ホワイトゴーレムという作品について知っているのは、小説が原作でそれを基にした漫画が出て、今期の水曜深夜枠にアニメが放映されている、ということだけだった。
鷹崎はふむ、と親指と曲げた人差し指で顎をつまんで考えるような仕草をした後、
「今日3話目だから、今回から見たらどうだ?1、2話目分は小説読めばいいだろうし。」
と言う。勧めてくるという事はどうやらお気に入りの作品のようだ。どんな話なんだろうと興味を持ちつつ、今回買いに行くフィギュアはその登場人物なのだろうと判断し、改めて「その作品の中の誰の物を買いに行くのさ?」と聞く。
鷹崎はちょっと待て、と手のひらを見せて反対の手でスマートフォン(琳檎式)を取り出すと何やら操作した後こちらに画面を見せてくる。それに写っていたのは少女…15歳程に見える砥茶色のローブのような物を羽織った、身の丈程もある木の杖を持った金髪の少女のフィギュアの画像だった。
スマフォを受け取り、拡大したり動かしたりして眺める。ひとしきりそうした後、高崎に返しつつ「で、何ていうキャラなんだ?」と改めて聞く。
「リサ・ライラ・アルトマン、メインヒロインだよ」
これ以上はネタバレだ、と鷹崎は続け、「それでどうなんだ?」と聞いてくる。そういえばついて行くのかについて言及していなかった、と思い返し、財布の中に8名の夏目さんを確認しつつお供致します、と返す。
…その後はアニメ談義等をしつつ、弁当箱の中身を腹に収め、5・6限の保健体育の授業の為に体操着とシューズを用意して地下アリーナへと向かった。
―――HRが終わり、放課後。鞄に荷物をしまい終わると鷹崎に「行こうぜ」と声をかけられる。おう、と短く返して教室を後にして校門を出ると、丁度バスが近くの停留所に停まり、客を降ろしていた。
行ってしまう前に乗り込み、公共機関の共通パスを見せて近くの空いた席に座る。
鷹崎が隣の席に座るとバスは動き出し、たわいもない会話の横で暫く都会の景色が流れた後、目的地そばの駅の停留所に停車する。
大きな駅の側で人通りが激しい為、逸れないようにしつつ目的の店舗まで人を避けつつ歩いていく。
アニメショップ・マトンはコンビニ横の階段を下がった地下に有った。ポスターで天井付近が飾られている関連グッズが所狭しと展示された店内へ鷹崎が先に入っていき、こっちこっち、と先導する。買い物カゴを手に後を追う。
アレだ、と指さす先は「最新六巻発売、ホワイトゴーレム」と書かれたメインヒロインの描かれたポスターと、そのそばにある平積みされた小説。
全ての巻を1冊ずつ手に取り、価格を見て(今月)大丈夫、と判断してカゴに放り込み、「お前のお目当ては?」と先導者に尋ねる。
仕事の早い誰かさんは小説を手に取っている間に目当てのブツを見つけ、手に持っていた。
ふと視界の端っこの方に、赤い帯に黒いハードカバーの本が映る。
ファンタジー的設定辞典、と表題が銘打ってあるそれを、空いている方の手に取って眺めつつ尋ねる。
「これって昼にお前が言ってた奴か?」
「ん? ああソレか、そうだよ」
やはりそうらしい。昼の話題の中にこの本についての話もあった。お前が好きそうな本だよ、と言われたのだ。僕がトリビア的な情報が大好きな人間である、という事をこの友人はよく知っていた。カゴを少し地面に置き、ペラペラと捲ってみる。
目次には様々な用語や単語が羅列されており、最初の項はアトロピンという物質について説明されていた。「ベラドンナ(P122)という植物に含まれる、化学式 C17H23NO3・分子量 289.37 のアルカロイド(P18)…」といった具合に結構詳しく、かつ他の単語の掲載ページも書かれていた。…なんとなくファンタジーじゃない単語も目次に含まれていたが、取り敢えずお値段を見てみる。
小説5冊分だったので、これも買うと全部で小説11冊分だった。咄嗟に買える!思ってしまい、全夏目さんの3/4以上が家出をする事になった。
―――鷹崎もお目当ての物を購入し、その後程なくして駅の入口で別れ、停留所にてバスに乗る。
ここに来た時よりも帰宅する人々でバスの中は混んでいたが、ここが出発点ということもあって一人用の席は幾つか空いていた。その内の出口に近い配置の席に座り、鞄を膝に載せる。
マトンはバスの路線の学校を挟んで家から反対の方向に位置していた。暇つぶしに鞄を開き、黒いハードカバーの本の方を取り出す。アトロピンから始めて四天王の項まで差し掛かった時、家の最寄りのバス停に到着する。本を閉じて下車すると、既に空は暗く、涼しいと言うより寒かった。
このバス停は公園の入口前に設置されており、この公園を突っ切って暫く歩いた所が家だ。小さな山を覆うように存在するこの公園は桜の名所としても有名で、今は紅葉が見頃の季節である。
山を削って作った下の広場と頂上付近の上の広場を繋ぎ、上の方の公園入口まで伸びる細長い雑木林を突っ切る階段を上っていく。公園の山はそこまで高さは無いが結構な面積を誇っているため、階段はぐねぐねと蛇行するような、小さな踊り場と短めの段差が幾重にも連なる距離が長いタイプだった。
階段の道筋にはやけに凝った古めかしいデザインの外灯が立ち並び、すっかり黄色やら赤く染まった木々の葉を照らし出していた。春頃の桜並木も良いけど紅葉も良いもんだなぁ、と思いつつ登ってゆく。
ふと、半ばまで登ったところで足が止まる。
―――疑問に思ったのは2秒後、そして大いに焦ったのは更に3秒後だった。
動けない。
呼吸はできる、目も動かせる。しかし手足は動かそうとする意思を無視して1歩も動けず、その場に立ち尽くす。
なんで、どうしてだという呟きもまた、口から発されることはなかった。
何もできない。叫ぶことも、携帯電話を取り出すことでさえも。助けすら呼べないのだ。
手足が反抗期を迎えて10秒ほど経った頃だろうか。体中に違和感を覚える。
まるで、そう……米粒よりも小さな無数の目玉が体中に入り込んで、じろじろと眺め回されているような。そんな違和感だった。
―――気持ち悪い。すごく。すごく。
別に痛いわけでは無く、くすぐったいようなぞわぞわとするその感覚は、手足が動かないという異常な状況に焦っていた仁の精神に追い討ちを掛けてくる。
と、くすぐったいようなその感覚がすっと消え失せ、そして新たな異変に気づく。
さっきまで1人でこの人気のない夜の公園の階段を上っていたのに、自分の目の前にはもう一人の人が立っていた。
思わず助けを求めようとして、はたと気がついてしまう。
同じ学校の服を着た、自分と全く同じ背格好の、鞄に全く同じアクセサリーを、同一の配置でつけている人物―――と、そこまで気がついた所で、すーっと意識が遠のいていく。
理解することの恐怖からではない意識の消失と同時に、足裏から地面の感覚が消え失せる。
最早状況の理解が追いつくことはなく、地面にぽっかりと空いた"橙色の光る縁取りの穴"に、物理法則に従って体が自由落下を始めた所で意識は完全に暗転した。
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…あれ?動けるな…
何だったんだ一体。
手足は…ちゃんと動くな。
…きっと疲れてるんだな。そうに違いない。
飯食って風呂入って寝よう…
ああ、でも物理の宿題出てたんだっけ…
階段にいつの間にか現れた、赤崎仁と瓜二つの顔で同じ格好をしたその人物は、そんな事を考えながら仁の家へと階段を上って行く。
そして彼は物理の宿題をわからないなりにやった後、すぐに布団に直行した。
翌日朝、朝食の食卓で親に、学校では鷹崎に、頬にあるホクロが逆じゃないか?と言われたりするが、それはまた別の話。