妹は夕日に心を隠す
太陽の低空飛行がクライマックスに突入し、眩しい程に辺りが金色に輝く、ある晴れた夕方。
俺が学校から帰ってくると、いつもなら先客がいるはずもない俺の部屋に、今日はなぜか妹がいた。
「おにい、おかえり」
生まれつきの鋭い目付きをこちらに向け、これまた生まれつきの無愛想な口調で俺に最低限の言葉を投げ掛ける。
ツリ目で無口のこいつは、部屋中央のスペースでベッドにもたれて、足を投げ出すように床に腰を下ろしたくつろぎポーズを取っていた。手に持っているのは、今しがた読んでいたらしい漫画雑誌。ちなみにその雑誌は俺の私物だ。
西向きの窓から飛び込んでくる赤い夕焼けが逆光になって妹の輪郭が鮮明に切り出されている様は、思いの外幻想的だった。
「お、おう、ただいま」
返事をしながら、俺は戸惑い戦慄した――
「珍しいな、真知がここにいるなんて」
――『この状況』があまりにもレアだったから。
絵になりそうなこの光景も珍しいが、それ以前に真知が俺のプライベート領域たるこの部屋に居座っている確率自体がゼロに近いから、俺は驚いている。
中学に上がって思春期に入った妹は、恥じらいか嫌悪か、おそらく後者が理由だろうが、普段滅多に俺の部屋に来ることがない。そんな、現在進行形で兄離れの度合いが増している状況にもかかわらずの、この急接近。ひょっとしたら天変地異の前触れかもしれない。
それ以上に……。
「宿題、手伝って欲しい」
と、俺がここまで色々考えていると、真知が単刀直入に要件を述べてきた。
「宿題って、これのことか」
ベッドの上に置かれたA4のプリントを拾い上げて俺は読んでみる。
英会話の授業で出たプリントなのだろう。文面はほとんど英語だった。
中身は、
「……友達にインタビュー……」
友達に好きなものなどを質問してその応答を記録しろ、という旨が印刷されていた。
結果を書き記すための表のうち、「favorite food」の欄に「イカせんべい」という文字が妹の筆跡でむなしく存在していた。
「……?」
ここでプリントの指示にある「friend」という単語が、一つの違和感を俺に覚えさせる。
経験上、こういう他人の協力が不可欠なタスクは普通授業中に完了するものなのだが……。
「もしかして真知、と――」
友達少ない? と訊きかけた刹那、
ゾンッ。
ただならぬ殺気を感じた。
「ぐっ」
本能的に防御の構えをさせられる。
格闘ゲームにたとえるならば、敵の必殺技ゲージがMAXに達して、いつこちらが瞬殺されてもおかしくないような、緊張感あふれる状況。
殺気の源は無論、真知。こいつ以外には俺を除けばこの場に誰もいないので当然だ。
「と、とと、と……」
痺れるような悪寒に包まれながら、必死でフォローの言葉を探す。
「と?」
いつにも増して静かに問う真知。ヤバい。気を抜くと、狩られる。
(考えろ! 考えるんだ俺っ! 試験は毎回赤点神回避程度のバカかもしれんが、今ここで考えなくていつ考えるっていうんだ!)
ここで諦めてはいけない。なんとしても地雷を回避せねばなるまい。真知のためにも、俺の命のためにも。
「と……とびきり可愛いんじゃないのか?」
脳汁が出そうなほど知恵を文字通り振り絞って、俺はこう答えた。
「か、可愛……い?」
俺の、俺自身も驚くほど突飛な発言を、真知はきょとんとして聞き返す。
だが、これではまだ詭弁にすぎない。
前後の文脈上、俺は「ひょっとしたら真知は可愛いのではないか」と彼女の傷つきそうなことを言っているようなものだから。
もう一押しが、必要。
「真知ってさ、前髪長くて暗い雰囲気あるように見られるかもしれないけどさ、ホントはとっても可愛いんだからさ、もうちょっと努力してみたら?」
だからこうたたみかける。緊張のあまり文の切れ目に妙な間投詞が混ざっているが、嘘は多分ついていない。
「本当に可愛い?」
「疑り深いなぁ真知は。可愛いに決まってるじゃんか。これだけは兄のプライドにかけて断言してもいい」
身内贔屓とか兄の欲目とかもこのセリフには混じっているが今更後には引けない。行くところまで行った感がして、もう怖いものなんて何もないようなやけくそ感を抱く。
「女子力ってあるだろ? あれって要するに男でいう自分探しの女子バージョンであってだね、そう、自分をよりよく魅せる努力っていうの? した方がいいだろぶっちゃけ」
キャラが変わったんじゃないかと思われても仕方ないくらいテンパっているし、女子力については完全に出任せぶっこいている。でも、交友関係について自信を持って欲しいという真知に対する俺の偽りなき気持ちを前面に押し出して、口下手でも不格好でもいいからそれをぶつけてみる。
「……」
「……」
しばし俯いてなにやら思案していた真知は、
「……分かった。努力、してみる」
やがて面を上げるとこう告げた。その顔は、沈みゆく日の光に照らされて真っ赤に染まっていた。
「そうか、よかった」
何より一安心。俺の生命の危機が去って一安心。
「それで、宿題は――」
「ああ、もちろん手伝ってやる」
そう言ってやると、真知の表情から険悪さがすっかり取れた。
いつもポーカーフェイスを通しているように見える妹だが、わずかな面持ちの変化は、兄妹として付き合い俺には大体理解できる。こいつにだってちゃんと喜怒哀楽がある。ただそれがあまり表に現れないだけなのだ。
「ところで真知。宿題に取り掛かる前にひとつ訊いておきたいことがあるんだけど」
そうすると、今まで保留していたひとつの懸案事項が浮上する。
「何」
「その雑誌、どこから出してきた?」
俺が帰宅するまで真知が読んでいた漫画雑誌の正体が――
「ベッドの下。引き出しの一番奥」
――年齢、性別、内容。どれを鑑みても両親以上に、何より真知に対して、命を賭してでも一番読まれて欲しくなかった類の御本だという事実である。しかもあろうことか真知の手にあるのは秘蔵度自己ランキング堂々一位の代物だった。
ブワッ。
まことに今更ながら湧き出たのは、大量の脂汗。
「えっと……その……だな」
さっきの「可愛い」発言に全力を尽くした反動か、言い訳すら全然思い浮かばない。
(今度こそ……殺られる!)
再び来るであろう静かな覇気に身構える。
が、
「大丈夫。気にしていない」
意外にも真知は素っ気なく返す。
「……はい?」
「――おにいの気持ちが本当ならば」
意味深なことを口にした妹は、問題のブツを律儀にベッドの下にしまい、俺の脇を通り過ぎて自分の部屋へ向かっていった。
しまってくれるのはいいことだが、この場合は別にそうしてくれなくてもよかった。かえって恥ずかしいことこの上ない。
「……どういうことだ?」
思わず俺は首を傾げてしまう。
真知の歩みがいつもの一割増しくらい軽やかなのも気になったが、それよりも、最高のいかがわしさを誇るアレを見て俺にお咎めなしというのがまた不思議でたまらなかった。
「やはり天変地異の前触れか?」
「おにい、早く部屋に来て。宿題やるから」
廊下からこちらに顔を覗かせて真知が俺に移動を促した。
「えっ、あ、ああ」
宿題を手伝うと決まった以上、いつまでもぼけっとしているヒマはない。
俺は荷物を置いてから、真知の後を追うようにして、夕日の燃え盛る部屋を退出した。