第四話 中編
― 四 中編 ―
放課後。
雪月に入り日が短くなった空を見上げた藤堂は一度溜息をつく。今日、この日に何が起きるかを知っているからである。
藤堂は真冬達のように夢は見ない。だが、自らに戦う術を教えた者から全てを聞かされているのだ。そして、時が来れば彼らの力になるようにも言われている。
(大丈夫かな、真冬は)
今回の真冬は運命に抗えるのだろうか。それとも前世の彼のように心を折られてしまうのだろうか。それは蚊帳の外にいる藤堂には分からない。
そして、踏み込む事も許されない。仮に踏み込むような事があれば神を気取る少女によって真っ先に消されてしまう事だろう。抗う力があればいいのだが、全力の彼女を止める力は今の藤堂にはない。そして、真冬達にもその力はないだろう。
(俺が介入するのは……まだ先だ。だからそれまでは無事でいろよ)
藤堂は強く拳を握る。今すぐにでも介入しようとする自らを止めるために。
それと共に真冬を信じる。彼なら抗えると。
「まあ、あのシスコンの事だ。死んでも春ちゃんを守るかもな」
藤堂は自らに言い聞かせるように独語する。そうでもしなければ今すぐにでも駆け出しそうになる足を止められなかった。心を埋め尽くす不安を拭い去る事は叶わなかったから。
「本日も稽古をするかの?」
突如、背後から声が聞こえる。今まで人の気配などなかったというのに。おそらく彼はずっとそこにいたのだろう。自らが鍛える男を待つために。その彼に気づけなかったのは、それだけ藤堂と彼の間に力の差があるからだ。
「いつも驚かせないでくれよ、一刀斎さん」
藤堂は肩をすくめて振り返る。
背後に立っていたのは白髪を腰まで伸ばした老齢な男性。藤堂は彼の事を名前以外は何も知らない。今日のように一人で寮へと向かっている時にふと背後から声を掛けられた事が始まりだった。
一刀斎が語る話を聞いた当初はまるで信じる事が出来なかった。だが、真冬に春、そしてクラスメイトである雨月雫の命が掛かっていると言われれば放置する事はさすがに出来なかったのだ。
嘘であればそれでいい。そんな気持ちが最初だった。
だが、一刀斎の人間離れした刀の技を見ている内に徐々に信じようとしている自分がいる事に藤堂は気づいた。そして、最も決定的だったのは一刀斎に指定された場所と時間に身を潜めていた藤堂が見たものだった。
それは巫女服を着た雨月雫と春。そして、まるで幻でも見ているかのように歪な空間へと飲み込まれる光景をこの目で見てしまったからである。全て一刀斎が語った事と食い違う事はなかった。
真実を知った藤堂は彼らに気づかれずに腕を磨き、密かに介入の時を待っているのである。
「ワシの気配にすぐに気づけねば……おっかない少女に狩られるぞ」
一刀斎は薄く微笑むと共に長い槍を藤堂へと放り投げる。
「それは勘弁してほしいね」
藤堂も槍を受け取りながら彼に倣って微笑む。実際に冗談ではないのが恐ろしい所である。
「行くぞ。藤堂」
一刀斎は浮かべた笑みを消して進んでいく。彼らの秘密の特訓場へと。来るべき介入のために。
「ああ」
藤堂は表情を引き締めて自らの師匠の背を追った。
*
彼らが立っているのは信じられない場所だった。
「本当にここなのか?」
真冬は道案内を終えた雫の背へと言葉を掛ける。雫は無言で前方を見つめるだけだった。雫が見つめているのは冬月高校の運動場。真冬達にとってはあまりにも馴染みがある場所だった。
最後くらいは馴染みのある場所で眠らせてくれるとでも言うのだろうか。そんな人間らしい感情をあの監視者が持っているとでもいうのだろうか。
真冬が答えのない疑問を浮かべていると、ようやく雫はゆっくりと口を開いた。
「この場で誰かが倒れれば……登校する度に心が折れていく」
雫が監視者の思惑を正確に語る。
雫の落ち着いた言葉を聞いた瞬間、真冬は妙に納得している自分に気づく。ここ数日で自分もこの特異な環境になれたものだと思えてならない。それと同時に真冬はとある疑問が頭を掠めた。
「穢れは監視者が操っているのか? そもそも監視者は人なのか?」
場所を指定出来るという事は、彼女が支配しているという事なのだろうか。そんな事が出来る監視者とは一体何者なのか。見た目は人と相違はないために余計に気になってしまったのである。
「監視者は穢れであると同時に人でもあります。両者の均衡を保つ者……そう聞いています。彼女に与えられている力は今回のように特別な穢れを特定の場所に出現させる事と、私達にあの夢を見せる事」
雫が振り向くと共に問いに答える。
だが、さすがにこれだけの情報だけでは分からなかった。そもそも穢れがどういう存在であるかすら真冬は知らないのだから。真冬は怪訝な瞳を雫へと向ける。
すると雫は一度溜息をついて再びゆっくりと口を開く。
「穢れとは人の負の感情が生み出すもの。放置すればあの空間から飛び出し、人を襲う招かれざる獣です。太古ではこの地に穢れが降り立ち、人々に恐怖を与え正したとも言われていますね。ただ所詮は獣。飛び出せば意味もなく無欲な人を傷つける事もあります。そうならないために存在するのが私達巫女です」
雫の言葉を聞いて真冬は思考を走らせていく。
まず分かった事は穢れを完全なる悪と断定するのは危険であるという事だ。あの赤い瞳を持つ獣にもこの世界における役目があったという事である。人に危害を加える事をよしとするのは問題ではあるが。
(だが、春を殺すとなれば話は別か)
真冬は心中でつぶやき視線を左へと向ける。そこにいたのは緊張で震える妹。今日この日に命を散らすかもしれない少女。自らの命よりも大切な掛け替えのない命を散らそうというのであれば、例え世界を救う存在であろうともこの力でねじ伏せるのみである。例えその行動を悪と断定されようともこの道を譲るつもりは真冬にはない。
そして、穢れが何なのかというような難しい事はその後に考えればいいのだ。必要であれば監視者とも話せばいい。なぜこんな愚かしい事をするのかと、問い詰めればいいだけなのである。
「行こう。今は考えるよりも先にやる事がある」
真冬は二人の巫女から視線を外して見慣れた運動場を見つめる。正確にはその場にあるであろう漆黒の空間へと。
「そうだね。行こう」
「ええ」
二人の巫女は同時につぶやいて歩を進める。そんな二人を追い越すように真冬は早足で進んでいく。
一度、閃光が周囲を満たす。
溢れる閃光の先にいたものは予想通りの存在だった。鮮血のように赤い霧を周囲へとまき散らす赤い瞳の穢れが一体。その赤い瞳が見つめるのはやはり春だった。まるで春がこの場に立つ事を待っていたかのように穢れは春を見つめ続ける。そうしなければならないと言うかのように。
(やはり夢の通りなのか!)
真冬の脳裏に浮かぶのは夢の光景。串刺しにされる春の姿だった。
「春……刀を!」
真冬は脳裏に浮かぶ光景を、叫び声を上げて霧散させる。そして自らを穢れの標的にさせるために弾かれたように走り出す。
刹那、赤い霧に混じったのは白銀の刃。刃の正体は数百を超える騎士剣と、槍だった。真冬は出現した刃を視界に収めた瞬間に数を把握する事を諦める。ざっと数百はあるだろうから。そして、今ある刃を全て叩き落としたとしても、それで終わりとはとても思えないのだから。
「――全てを切り裂く刃を」
春が言葉を紡いでいく。その間も真冬は足を止めない。狙いはただ一つ。不気味に蠢く赤き瞳のみである。赤い瞳をつぶせば倒せるのかどうかは分からない。だが、他に実体化している部分は見当たらないのもまた事実である。ならば唯一有効となり得る部分を貫く他に選択肢はないのである。
「我を護る者に与えたまえ!」
春の叫び声が上がるのと、霧から無数の刃が射出されたのはまさに同時だった。
(防げるのか。――いや、防いでみせる!)
真冬が突き進む道を照らしたのは二振りの刀。一つは以前の戦いで見た桜の花びらが散りばめられた真紅の鞘に収まった刀。そして、もう一振りは白い花が散りばめられた薄い黄色の鞘に収まった刀。薄い黄色の鞘に収まった刀はおそらく前世の春がくれたものだろう。
真冬は二つの刀を鞘から解き放ち、鋭い視線を前方へと向ける。その瞬間に刀を収めていた鞘は役目を終えて光へと変わる。その光を吹き飛ばすかのように駆けたのは真冬。
鳴り響いたのは無数の剣響。
そして、地面を抉ったのは真冬の一閃によって叩き落とされた騎士剣だった。真冬は弾丸のように射出される数多の刃を一寸の狂いもなく叩き落としていく。その様はまさに洗練された剣舞のようだった。
そんな人間離れをした力が出せるのは、春から送られてくる力のおかげだった。
――敵までの距離は残り二百メートル弱。
今は射出される刃を何とか凌げるが距離が近くなればなるほどに刃の速度は上がっていく。果たしてこの数を全て叩き落としながら進めるのだろうか。そんな弱気な思考を追い出した真冬は両手に握る刀を強く握り締めて駆け抜ける。
未来を変えるために。春をもう一度抱きしめるために。
――残り百メートル。
真冬は高速で両手の刀を振るい続ける。もはや視認しているというよりも、反射的に手を動かしているという状況だった。手に伝わる固い感触だけを頼りにして射出された刃を叩き落とし、前へ前へと突き進む。
真冬の額を狙った槍を左手に握る刀で弾き飛ばした瞬間。
焼けるような熱が真冬の右肩に走る。視線など向けなくても何かが肩を掠めたのだと理解する。
「うっ――!」
背後から春の呻き声が伝わる。真冬は巫女の力のおかげでかすり傷程度の痛みしか感じない。だが、真冬の痛みを引き受けている春はまるでナイフで切りつけられたような痛みを肩に感じたのだろう。
真冬の心にある種の焦りが浮かぶ。その焦りが完璧に思えた剣舞を乱していく。
響く剣響の音は明らかに数を減らし、変わりに響くのは春の悲鳴。
「俺がしっかりしないと。足を止めてはいけないんだ!」
真冬は自らを鼓舞するために叫ぶ。叫び声は気迫に変わり、真冬の足を前へと押し出す。
――目標までは残り五十メートル。
全ての力を左腕に込めて刀を投擲すればおそらく届く距離。真冬は前世の春が与えてくれた刀を肩よりも高く上げ、地面と水平に構える。
あとは投擲して終わり。明るい未来を信じて全ての力を左腕に込める。
だが、そんな真冬を嘲笑うかのように赤い瞳の穢れは次の行動に移る。
(あれは!)
真冬は宙に浮いた槍に目を離す事が出来なかった。今まで射出された槍よりも一回り大きい長さ三メートルを超えた金属槍。その槍が狙うのは当然、真冬に力を与えている春である。春が倒れれば真冬の刀が瞳を貫く事はないのだから。力を失ったただの高校生が五十メートル先にある目標を正確に狙う事など不可能なのは誰でも分かる事である。
投擲するか、庇うか。
真冬が迷ったのはわずかな時間。
(春を犠牲には出来ない。それに……春なら!)
真冬が選んだのは春を庇う事。雫と屋上で話した通りの展開だった。
「雫! 後は任せた! そして、春! ――代わりに走れ!」
真冬は両手に握る刀を放り投げて両手を左右へと広げる。無防備な姿を晒して真冬に視線を向かせるために。その背に隠れて走るのは巫女服を血で染めた春。
(はは……まるで見えないな)
今まで巫女の力のおかげで反応出来た刃を視認する事はすでに不可能だった。そして、力を失った真冬が射出された金属槍に貫かれれば無事では済まないだろう。もしかすればショック死するかもしれない。だが、真冬は生きる事を諦めてはいない。
そんな真冬の覚悟に応えたのはもう一人の巫女。
「約束通り……受け取って下さい!」
雫の声が響く。真冬を照らしたのは海のように青い鞘に収まった一振りの刀だった。
雫が差し出した力を受け取るのは真冬の体を槍が貫いた瞬間である。貫く前に掴んでしまえば雫には予想も出来ないような痛みが襲う事だろう。
生きるか、死ぬか。
そんな予想も出来ない事態を経験するのは真冬だけで十分なのである。瞳を見開いて高速の槍が真冬に触れる瞬間を待つ。
「俺は生きる!」
真冬が叫んだ瞬間。
地面を破壊する轟音が響く。そして、まさにその轟音が響いた瞬間に真冬は右手で鞘を強く握り締める。生きるために。
刹那、鳴り響いた轟音に負けないくらいの絶叫が空間を満たす。断末魔に近いような雫の声を背に聞いた真冬は握った刀を離しそうになる自分を必死で追い出す。そして、自らが出来る事を即座に実行する。
「さあ、俺を見ろ。目玉の化け物!」
真冬は血を吐きながら叫ぶ。一秒でも長く真冬に意識が向くように。そのわずかな時間で妹が道を切り開く事を信じて。安い挑発に乗った穢れは数多の刃を真冬へと向ける。
(これでいい)
真冬はゆっくりと瞳を閉じる。
次の瞬間。真冬の隣を突風が駆け抜ける。
「霧へと変われ!」
春の叫びが空間に響く。
薄っすらと瞳を開けると、赤い瞳に向けて突き進む一本の薙刀が見えた。それは戦いの終わりを告げる一撃に見えた。未来を変える一撃を視界に収めた真冬はまるで眠るように意識を失った。