最終回 後編
― 最終回 後編 ―
空へと舞うのは、鮮やかで、それでいて可憐な桜色の刃。
小指の第一関節にも満たない桜の花びらは、意思を送る彼女、春の命を受けて視界に移る物全てを切り裂く。
――視界に移る物。
それは空を覆い尽くす真紅の刃。左右に展開する甲冑姿の穢れである。
(構っていられない)
甲冑姿の穢れは数に限りがある。だが、空を覆い尽くす大剣は数に限りがないように見える。
ならば視線を向けるべきは、やはり正面で真冬と戦っている彼なのだろう。薄い金髪を揺らし、狂喜の笑みを浮かべている彼を視界に収めるべきなのだろう。
何が楽しいのか、何を思っているのか。
刃を交える真冬が、呼び掛けても笑う彼。
笑っているけれど、瞳は揺らしている彼。
(倒すしか――ないの?)
理解出来ないから、ただの脅威でしかないから倒す。今も街は彼の力によって脅威にさらされている。惨劇を止めるための方法としては正しい。
だが。
同時に春は思う。これで本当にいいのかと。幾重にも渡る、輪廻の鎖に縛られていた自分達。鎖は、監視者を倒す事で断ち切られた。
しかし。
結局、春は彼女と同じ道を選ぼうとした。まるで、定められた運命に、決められたレールを進むかのように。それを止めてくれたのは、真冬だった。
新しい道を歩む事を教えてくれたのは、歩む勇気をくれたのは、愛する人だった。
(倒して。憎んで。繰り返して。それだけでは何も変わらない)
それは以前の監視者の生き方を見れば、分かる事だ。
ここで彼を倒しても終わらない。幾重に転生を繰り返せば、再び彼は現れる。その身にさらなる負の感情を抱えて。抱えたもの全てを、世界に向けて解き放つ事だろう。
「それでは駄目なんだ」
春が辿り着いた答えは、太刀を振るう真冬と同じ。
彼を殺してはいけない。それが分かるのは、真冬によって救われたからだ。
「だから――」
春は呟くと、一歩、二歩と進む。
固いコンクリートの感触を感じながら。鳴り響く轟音にも怯まずに。
揺れない意志を、可憐な刃に込めて。進む。
「伝えないと」
春は意志を言葉に変える。
これは世界に、この地にいる全ての者にとって理解されない事かもしれない。それでも伝えたい。溢れる想いを。
響くのは、甲高い金属音。
真冬の太刀と、彼が握る大剣が奏でる剣響である。
音は勢いを増し、二人の間で舞う火花は勢いを増す。決着は目前だった。
肩で息をする真冬、そして狂喜の笑みを張りつけた彼。
他には何も、誰もいない。周囲を埋め尽くすのは、景色を失った商店街の成れの果て。
――助けも、奇跡も望めない。
戦いを終わらせる鍵は、この身に溢れる想い。だから、迷わず地を蹴る。
他の誰かではなくて、想いを抱えた春にしか終わらす事が出来ないのだから。
「ボクに勝てる訳ないんだよ」
彼の楽しそうな声が響いた瞬間に鳴り響いたのは、絶望の音色。奏でた音色は太刀がへし折れる音だった。幾重にも大剣と重なった事で、限界に到達したのだろう。
「武器を失ったくらいで!」
叫ぶ真冬は、一度、二度。彼の大剣を満足とは言えない刃で受け止める。
その間に、春は進む。間に入るまで、残り一歩。
「抱えてるものが違うんだ。幸せを! 笑顔を! 希望を! 持っている奴に――」
声を荒げて、頬を涙で濡らして、彼は大剣を振り回す。その動きには、先ほどまでの洗練した動きはない。まさに感情のままに剣を振るっていた。
伝わるのは、憎しみ、嫉妬、怒り。彼を構成する感情。彼はそれだけしか知らないのである。
「負けられないんだぁ!」
吠えるような、彼の声。
溢れる想いを受け止めるのは真冬。折れた太刀の柄を握り締めて、憎しみの刃を受ける兄。そんな真冬を横目で捉えて春は進む。殺すためではなくて、救うために。
「君にはないの?」
優しい声音と共に、春が成したのは幼い子供あやす様な抱擁。真冬が大剣を受け止めていられる時間は僅か数秒。それが与えられた唯一の時間である。
「何を?」
彼は春の行動に戸惑っているようだった。慌てている事は振り下した刃の力が緩くなった事で、分かる。
「君には伝わらない? 温かさが」
春は丁寧に問いに答える。それと共に抱く力を徐々に、徐々に、強めていく。言葉だけでは伝わらない。ならば、この身で伝える他に道はないのだ。
背に立つ兄は何も言わなかった。背に感じるのは温かな視線。おそらく春を信じてくれたのだろう。春が進む道を、信じてくれたのだ。
「温かさ?」
少年は呟く。
その声音には鋭さはすでにない。まるで牙が抜けた獣のように大人しい彼。そんな姿はどこか愛らしさすら感じられるから、不思議である。これが母性というものなのだろうか。子を持たない、持ちえない春には分からない事なのだが。
「そう。これが温もり、温かさ。君にも感じる心はあるよ」
春は諭すように、ゆっくりと言葉を伝えていく。彼の心を光が照らす事を祈って。
「分からない。僕は――ただの負の感情の集合体。憎しみの塊なんだ。だから――」
「そんな事はないよ。だって――」
彼の言葉を遮って、春は最後の言葉を伝えるために息を吸う。
彼は待ってくれた。それが素直に嬉しかった。伝わるのだと、そう信じる事が出来た。
「世界は、こんなにも優しいから」
真冬から受け取った温もりを思い出して、言葉を紡ぐ。真冬の隣はいつも優しくて、そして温かかった。皆は、春を取り戻すために必死になってくれた。
そんな優しい人が住む、この世界。
そんな世界が、優しくない訳がないのだ。
負の感情の集合体。そんな悲しい存在など、存在して良い筈がないのだ。
そんな春の想いに応えるかのように、世界が輝く。
まるで彼を歓迎するかのように世界が瞬く。ここに居てもいいのだと、世界は、雫は教えてくれているようだった。
(伝わるよね)
春はあえてこれ以上は言葉を掛けない。彼自身に感じて欲しいから。気づいて欲しいから。
ほどなく待つと。
「そっか、世界はこんなボクも迎えてくれるんだ。でも、居場所がないよ」
触れ合った頬に感じるのは、確かな熱を持った一つの雫。
――そして。
次の瞬間に溢れたのは、血を連想させる、赤き光だった。
「――そんな!」
叫んだ春は、慌てて彼から身を離す。彼は薄っすらと微笑んでいた。だが、その笑みは消えていく。赤き光に変わる事で。
負の感情が消えれば、彼は存在出来ないとでも言うのだろうか。彼の心を、春が抱く想いで埋め尽くす事は出来ないのだろうか。
世界から消失して、再び体を取り戻す時には、自我を失うほどの怒りの感情しかないというのだろうか。それが、彼の一生だというのであれば、それはあまりにも残酷だ。
「ボクだけには冷たい。皆には優しいのに」
彼の言葉が、徐々に低く、冷たくなっていく。
先ほどまで浮かべていた微笑みはすでに消え失せていた。触れ合う体から伝わるのは、強さを増していく怒り。世界を破壊しても晴らせないであろう憎しみだった。
(もう少しなのに)
春は言葉を探す。
彼を救うために。もう二度と、こんな戦いを経験する者が現れないように。誰も報われない、ただ失うだけの戦いなど、春達だけで十分なのである。
想いだけでも伝えるために、口を開きかけると。
「だったら。全部、壊す! 消す!」
彼は空を、赤き月を見上げて、叫ぶ。同じ言葉を何度も、何度も。まるで壊れた機械のように繰り返す。
「つっ――!」
身に感じたのは、まるで焼かれたような熱だった。
痛みの正体は彼から溢れる、赤き霧。霧は瞬く間に春を包み込む。
心を迷わす者を、世界の全てを焼き尽くすために。
「春!」
その瞬間に、焦りの混じった真冬の言葉が届く。一度、固い岩を踏み砕く音が背に届く。
「待って! まだ――待って!」
全身が焼かれる痛みに耐えて、春は叫ぶ。
真冬ならば春が危機に陥ったとなれば、彼を殺す事だろう。動きが止まり、それでいて周囲がまるで見えていない彼を倒す事など護士であれば容易いのだから。
だが、ここまで言葉を伝えたのだ。決して諦めたくはない。春達で全てを終わらせるために。
「待てるか!」
そんな想いを無視するかのような、真冬の声。
全てが終わってしまう。そう思った瞬間。
「一人で足りないなら――俺も手伝えばいいんだろう!」
叫び声が鼓膜を震わせた瞬間。真冬は春を後ろから抱き止めてくれた。全身を包む霧は一度霧散し、再び春と真冬を包み込む。だが、痛みは、熱はまるで感じなかった。
真冬が、そして雫が受け止めてくれているのだろう。正確な事は分からない。だが、春が成す事は一つだけである。
「伝えろ! 春!」
苦しそうな真冬の言葉が、春の背を押す。
「君の抱えているものは僕が一緒に背負うよ」
春は慎重に言葉を紡ぐ。
空を見上げて、叫び続ける彼に向けて。滑らかな頬を涙で濡らして嘆く彼に向けて。
「だから――」
再び彼を抱きしめる。
刹那。
痛いくらいに彼の想いが、感情が伝わる。
それらを全て受け止めて――
「寂しくないよ」
春は再び彼に言葉を、想いをぶつける。
おそらく、これが最後の機会。失敗すれば真冬も、春も、身に触れる霧によって焼かれてしまう事だろう。
言葉を待つ。
ほどなくして彼は、空から視線を春へと向ける。待ったのは数秒だったのか、数分だったのか。正確な時間は分からない。だが、彼は再び悲しみを奥に隠した瞳を春へと向けてくれたのだ。
「本当に?」
彼は問う。
純粋な瞳を向けて。救いを求めて。
「うん。君の気持ちを頂戴。代わりに、私の気持ちもあげるから」
春は身を離して、優しく彼の細い肩を掴む。触れた両手は焼けるように痛む。だが、決して離さない。決して逃げない。
「ありがとう」
それが彼の最後の言葉。
言葉を受け取った春は、自身も最後の言葉を伝えなければいけないのだと思った。おそらく伝えなくても、分かってくれていると思うけれど。
それでも、最後に伝えないと後悔すると思ったから。
「真冬。来世で会おうね」
言葉を伝えた瞬間。
赤い霧へと変わった彼が、春の身へと流れ込んでくる。内側が焼かれるような痛みに耐えて、自身が白き光に変わっていく中で、春は言葉を待つ。
最愛の人の言葉を。
「変わらず春を想ってる。俺の心はずっと――側にいるから。生まれ変わっても、ずっと。ずっとだ」
消えていく意識の中で、聞こえたのは変わらない言葉。
春にはそれだけで十分だった。ただそれだけで幸せだったから。
エピローグ
左腕に伝わるのは変わらない温かさ。
その正体は、身を寄せている妹である。触れる柔らかさが、温もりが、心地良く彼の鼓動を早めて、全身を熱くさせる。
雪月に入った事で寒さを増した近頃ではあるが、その寒さを吹き飛ばすほどに、体が火照っていく。だが、その熱さは、彼の心に至福となって広がっていく。
それは決して失いたくはない。いや、失ってはならないものである。
織部真冬が、織部春が命を掛けて築いたものなのだから。だが、同時にそれに縛られてはいけないのだとも彼は思う。
織部真冬と、自身は違うのだから。
「どうしたの?」
思考に耽っていると妹が声を掛ける。腕を取る妹が浮かべているのは、いつもの満面の笑顔である。
二人が歩む歩道の左右に立つ木々はすでに葉を失って、どこか寂しさすら感じる道のり。だが、そんな寂しさすら吹き飛ばすかのような、見ていて心地良い笑顔を、妹は変わらず浮かべている。
「ああ。ちょっと、夢の事を」
彼はぎこちない笑顔を浮かべて、返す。
妹が浮かべる笑顔とは、まるで違うどこか固い微笑みを浮かべて。朝の夢が、今でも抜けていない事に彼は戸惑いを隠す事は出来ないのだ。
沈んだ心を、整理していると。
「遅いぞ、お前ら」
黒い学生鞄を肩に担ぎ、陽気な笑顔を浮かべる少年が声を掛けてきた。二人を待っていてくれたようで、彼は歩道の中心で立ち尽くしていた。
「といっても、五分しか待っていませんが」
そして、その隣で同じく立ち尽くしていたのは長い黒髪が目印のクラスメイト。左手につけている腕時計を見つめて、いつもと変わらない凛とした声で淡々と語る。
広がっているのはいつもの光景。
歩んで行くのは、変わらない日々。
だが、彼は理解している。変わらない日々が幸せだという事を。
変化に満ちた非日常など、ただ失うだけで何も得られないのだと。
「悪い。変な夢を見てたら。寝過ごした」
だから彼は笑う。何事もなかったかのように。
それが彼に出来る、唯一の事だから。
「朝から大丈夫かよ」
おそらく事情を知っているであろう、友は笑ってくれた。その瞬間に皆が笑う。
場に広がるのは、日常の温かさ。
その温かさを胸に抱いて、彼は進んでいく。自身の道を歩むために。
この優しき世界を。ただ真っ直ぐに。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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