第十二話 前編
輪廻の鎖 改訂版
― 十二 前編 ―
― 序 ―
心を埋め尽くしていたのは悲しみ。そして、渇望。
「お母さん――お父さん」
頬へと伝う涙を、拭いながら春は呟く。流れた雫は膝に、そして自らが蹲るように座る畳を湿らせていく。
どれだけ言葉を発しても、望んでも、もう会う事は出来ない。春は家族を失ってしまったのだから。唯一の肉親はすでに兄のみ。
もはや無条件の愛を、この身で感じる事も、甘える事も出来ないのだ。
原因不明の、突然の死。
真冬も、春も両親の亡骸は見ていない。葬儀は近所の方々による好意で静かに執り行われた。幼い春には一体何が起きているのか理解する事は出来なかった。だが、失った事は、もう会えないという事は理解出来た。
――寂しい。
それが春の感じる全て。他にも数多の感情が心を駆け巡っているのだろう。だが、幼い春はその感情を言葉で表現する事は叶わない。どうしていいのかも分からない。
だからひたすら泣いていた。
すると春の頭に、自身の手よりも大きい腕が触れる。そして、その手は優しく撫でてくれた。
「泣く必要はないよ。俺がいるから」
届いたのは兄の優しい言葉。
心に沁みていく言葉は、寂しい心を、沈んでいく心を僅かに温める。だが、足りなかった。今の春が求めているのは、寄りかかれる存在なのだから。
「お母さん……はもういない。だから寂しいんだよぅ」
拙い声で、頭に浮かんだ言葉を、返す。
「俺だけでは、駄目か?」
即座に返ってきたのは、どこか固い声。これだけ固い声を、この優しい兄から聞いた事はないような気がする。
ふと視線を兄へと向けて――
「お兄ちゃんは――お母さんと、お父さんではないから」
春は当然の言葉を返す。
だが、同じ漆黒の瞳を持つ兄の瞳は揺らがない。むしろ、見た事もないくらいに強い意志を持っていた。その瞳に心を奪われていると。
「どこにいるのかも教えずに……挙句には勝手に死んだ両親なんかさっさと忘れろ。親が必要なら……俺が代わりにずっと春を守るから」
強く、それでいて優しい言葉が春に向けられる。
兄の言葉は真剣なのだとすぐに理解出来た。そして、同時に見つけたのだ。春が求めているものを。寄りかかれる存在を、そして甘えられる存在を。
それは春に取っては両親と同じだった。
――そう思った瞬間。
一度、心臓が鳴り響いた。理由は分からない。その感情が一体どういうものなのか理解は出来ない。だが、今は分からなくてもよかった。
「ずっと側にいて」
春は兄の瞳をしっかりと見つめて呟く。
「ああ。ずっとだ」
兄は言葉だけではなくて、しっかりと春を包んでくれた。親が泣く子供を慰めるように、そっと、慈しむように。
春は、溢れる愛に包まれて悲しい心が癒えるまで、ずっと兄の側を離れなかった。
― 本編 ―
「さらに追加のエクソシスト? 大丈夫なの?」
疑念に満ちた声を発したのはセシリアである。そんな彼女に向けて、すぐさま情報端末越しの彼は言葉を発した。
『ああ。常月側も了承した。有事の際は巫女と連携して、穢れを叩くつもりだ』
届くのは、どこか渋さを感じさせる男性の声。セシリア、それにフリージア達が所属している教会の大司祭の声である。つまりはエクソシストを統括する者だ。
その統括者は、事が上手く運んだ事に安堵しているのか、伝わる声はどこか柔らかい気がする。二人は同い年で、物心ついた頃からの付き合いという事もあり、情報端末越しの息遣いだけでも何となくお互いの気持ちが伝わってしまう。それくらい深く、それでいて濃く関わっている。望むと、望まない、とは関係なく。
立場が、そして幼馴染としての縁が二人を結びつけて、それでいて一定の距離を保たせる。冷めた熟年夫婦、そんな言葉が似合う程に彼らはどこか冷たく、だが決して離れる事はない。傍目から見れば不思議で仕方ないのだろうが、二人にとってはそれが自然である。
現在も事前に何の連絡もない、という事実に若干腹立たしく思う。だが、彼にも立場というものがある、そう理解しているセシリアはあえて突っ込まない。
それでいて心の内に僅かに浮かんだ怒りを表現する事はなく――
「ようやく重い腰を上げた、という事ね」
あえて弾んだ声音で返すセシリア。正午が近くなった事で、賑わいを見せる冬月の商店街を軽快な足取りで歩みながら。
疎らに散った常月の住民は、セシリアの金髪が珍しいのか時折視線を向けてくる。だが、それらは視界に収めずに反応は返さない。徹底的に無視をする。
その代わりに、右手に見えるカジュアルな服を並べた店に視線を向け、時には左手に見える喫茶店のスイーツに視線を送りと、交互に視線を走らせる事で外国の地を珍しく見回している一般人を装って、歩く。優雅に、それでいて余裕に満ちて。
――決戦は本日の夜。
いらぬトラブルに巻き込まれる事をセシリアは望んでなどいないのだから。
そして、ついにセシリアが望む展開へと近づいてきたのだ。それは先ほど発した言葉通り。
今まで監視者絡みの件には慎重な姿勢を貫いていた教会が自発的に動く、いや、すでに動いているという事である。それはセシリアにとっては純粋に喜ばしい事だった。
そもそも、なぜ今まで教会は動きを見せなかったのか。その理由は一つ。
監視者に任せておけば問題はないからである。彼女に選ばれた者が一定数の穢れを倒し、そして倒れれば世界は保たれるのだから。ならば余計な手出しはしない方がいい。いや、むしろする必要がない。
――それが、教会が出した答え。
腕が立つから二人を派遣したのでは、決してない。そして、この世界にいる巫女、エクソシストを総動員すれば絶対的な力を持つとされる監視者だとしても、倒す事は可能だった。
だが、それを実行しなかったのは、監視者を倒した後に現れる相手にどう対処していいのか。その判断に迷った結果である。
だが、今は状況が変わってしまった。数百年とこの世界を管理した彼女はもういない。そして、下手をすればもっとも恐れた存在が、外へと飛び出す危険性すらあるのである。
教会、そして巫女を裏で統括している神社は、動かざるを得ない。そんな状況まで追い詰められていると言っても過言ではないだろう。
呟いて、思考を整理していると。
『そうだな。常月だけで終われば動きはしないが……次は当然、我らだからな』
大司祭の声はどこか悔しそうな声が鼓膜を震わせた。脳裏を掠めたのは、一つの戦争。巫女とエクソシストが裏で殺し合ったという、歴史には刻まれていない悪夢のような記録である。
彼が成そうとする事は、過去に戦争をした相手を助けるという事である。内心では、やはり納得してはいないのだろう。セシリア自身も、フリージアとカインのためでなければ、この地を踏もうなどとは思わない。それだけ巫女とエクソシストの関係は溝が深いのである。これは、セシリア独自の想いでは決してない。これはフェレアスの住民、またはエクソシストの総意だと言っても差し支えはないだろう。
だが、今は過去よりも現在。セシリアが、また教会を束ねる統括者が、その判断を違える事は有り得ない。個人の想いで暴走するほどに、子供ではないのである。セシリアにも譲れない所もあるのは確かなのだが。
「出来る限りは中で決める。外に出してしまったら――お願い」
『分かった。配置はすでに済ませている。最善を尽くしてくれ』
セシリアの言葉に了解を示す大司祭。その言葉を最後に通話の終了を知らせる電子音が虚しく鳴り響く。どうやら個別に伝える言葉などはなかったらしい。
「つれないなぁ」
セシリアは唇を尖らせて、まるで子供のように呟く。だが、それは一瞬の事。
次の瞬間にはまるで何事もなかったかのように、ウェアの胸ポケットに情報端末を滑り込ませる。そして、変わらぬ軽やかな足取りで、住民に溶け込むように歩いていった。
*
ガラス越しに、微かに届くのは学生の楽しそうな笑い声。視界に飛び込むものは、爽やかな笑顔だった。
「楽しそうですね」
グラウンドで笑い合いながら、自らが蹴り上げたボールを追いかけている学生を見つめて、ぽつりと呟いたのは雫である。その左隣りには隣のクラスに在籍している、エクソシストの彼が言葉を返す事なく立ち尽くしている。
元々感情が豊かではない雫ではあるが、穢れという存在に関わってからはさらに感情が薄くなっているような気がしてならない。
(あの中に混じって――笑い合う事は、もう無理ですね)
当然の事を心中で呟く。
だが。
当たり前だと思っていた事実も心へと沁みると、どこか悲しい感情が湧いてくる。どこかで望んでいるとでも言うのだろうか。普通の学生でいられる事を。
ふと視線を窓から、教室に向けると。
じゃれ合うような笑い声が響く。だが、声はどこか遠かった。
それは感覚的なもので、一歩を踏み出せば、すぐそこにあるという事は分かっている。一声掛ければ、輪の中に入れるという事も。だが、まるで見えない壁が立ち塞がっているかのように、遠い気がするのである。
雫が処理しきれない感情を心へと浮かべていると。
「そうだな。だが、あの場に戻る前にやる事がある」
沈黙を保つかと思われた彼が口を開いた。
窓ガラスに右手を触れて、グラウンドを見つめているカインである。何を思って発した言葉なのか気になった雫は、視線を教室から、彼へと移す。
彼の表情は相変わらず固かった。感情の薄い雫とは違い、彼の表情はただただ真剣なのである。何事に置いても。
確かな意志を感じる横顔を見つめて、視線を向ける場に困った雫は瞳を泳がせる。
沈黙が続いたのは、ほんの数秒。おそらく二秒か三秒か。
ちょうど一人の学生が蹴ったボールがゴールネットを揺すったのと同時。沈黙を破ったのは、カインだった。
「夢を見た」
届いた言葉は、内容はどこか久しぶりな気がした。数日前では当たり前だったというのに。そもそも雫達は、強制的に見せられる夢に振り回される日々を過ごしていたのだから。前世の自分達が決死の覚悟で挑んでも敵わない穢れと対峙し、生きるために抗う日々を。それが雫達の生活だったのだ。
それを一時でも忘れてしまったのは、やはり春の存在だろう。彼女を取り戻す事のみを考えていたからに他ならない。
乱れた心を整理していると。
「夢の中心は一体の穢れ。周囲には数百の穢れがいた。おそらく一度も見た事はない――夢だろうな」
窓から手を離して腕組みをするカイン。
会話の内容は特殊ではあるが、雫達の背後を通り過ぎる学生は「アニメの話かな?」と呟く程度で気にした様子はない。その様子に一度安堵の息を吐いた雫は自らが見た夢の内容を思い出そうとする。
だが、自身が倒れる夢を最後に、続きを知らないのである。知識として持っているのは、雫の次に倒れる者がカインであるという事くらいだろうか。
「その一体に見覚えは?」
雫は情報を得るために問う。
今の状況であれば隠す事はないだろう。エクソシストとの対立も裏ではあるが、自らが死ぬかもしれない事態で隠し事をするとは思えない。それも、ある程度は協力体制を構築している相手に。
「あるな。お前達に会う以前から――以前の監視者に強制的に見せられていたからな」
無表情を歪ませて言葉を紡いでいくカイン。
彼の夢を目にした事はないが、おそらくは思い出したくないような悪夢であろう事は容易に想像が出来る。雫自身も、春と、そして自らが倒れる夢を見た事があるのだから。思い出すだけで、恐怖が心を埋め尽くし、全身を震わせる悪夢。叶うのであれば綺麗さっぱりと忘れたい、そう今でも強く思うのだから。
続きを聞くために口を閉ざし、雫は彼に視線だけを向け続ける。
すると――
「あの穢れは一言で言うなれば――悪魔。常月に住む者には馴染みはないかもしれないが、フェレアスでは子供でも知っているような存在だな。全身を包帯で巻いた人型の悪魔で、包帯の中身は肉を持たぬ骨のみ。聖者、または生ける者を包帯で巻き取り、死者の世界に……つまりは自身と同じ姿に変える悪しき存在だ」
カインは向けられた視線に答えるように、丁寧に、詳細に語ってくれた。知る者が聞けば、脳裏に鮮明な姿が浮かぶ事だろう。
だが、雫の脳裏には詳細な姿は浮かばない。むしろその悪魔の名前すら知らないのだから当然である。フェレアスでは子供でも知っているというのに。これが対立した国との、エクソシストとの距離だというのだろうか。
(分かり合えない訳ですね)
心を掠めたのは、どこか悲しい気持ち。協力体制を構築出来た事で、二つの勢力の懸け橋になれるかもしれないと思ったが、どうやらそれは甘い考えであったらしい。
だが、それと同時に。
それは雫達が成すべき事ではないのかもしれないとも思う。他の誰かが、もしかすれば、もう一度転生した後世の自分達が成すべき事なのかもしれない、とも思えるのだ。雫達が一つの事を成すように。
「この際は悪魔の名は言わん。そもそも悪魔の姿を借りているに過ぎんからな。フェレアスでは人を恐怖させるために、頻繁に穢れは悪魔の姿となって顕現する。その悪魔を滅すからこそ、我らはエクソシストと呼ばれているのだからな」
カインは一つ息を吐いて語る。
どこか冷たい印象を感じる男ではあるが、説明は丁寧、それでいて時折補足の情報をくれる所は素直に好感が持てる。あのフリージアという少女が、転生してまで惹かれる理由が少しだけ理解出来た雫は、自らの頬が自然と緩んでいく事を感じる。
「その悪魔、任せてもいいですか? 私達は――」
「皆まで言うな。心得ている。お前達は、お前達の戦いをすればいい」
仲間としての笑顔を向けて語る雫の言葉を遮って、カインは断言する。
強い意志を感じさせる、どこまでも澄んだ青い瞳を向けて。
「ありがとうございます」
そんな彼に雫は最大限の感謝を伝えるために、深く腰を折って頭を下げた。




