第十一 後編
― 十一 後編 ―
「どうぞ」
どこか緊張した声音で、食事用の丸テーブルに湯呑を置いたのは真冬である。なぜこんな事態になっているのか、まるで状況を理解出来てはいない。
現在学生寮の、真冬に与えられた部屋にいるのはカインである。丸テーブルの前で胡坐をかいて座り、固い表情を貫き通している。
「すまない」
カインは短く答えて湯呑に口をつける。
その様子を視界に収めた真冬はとりあえず彼の正面に自らも座る。真冬の部屋と言っても過言ではない六畳間。だが、今はあまりにも珍しい客人のために、どこか落ち着かない。
部屋のドアはいつの間にか修繕されていた。おそらく藤堂辺りが手配してくれたのだろう。こういう時は頼りになる友人に感謝しながらも目前に座る彼が口を開くのをただ待つ。そろそろ来訪の理由を知りたい所である。
「あまり物を置かんのだな」
ようやく口を開いたかと思えば、どうやらカインは同年代の部屋が気になるようだった。
「ああ。そうかもな」
言われた真冬は改めて部屋を見渡す。
六畳間の中央には丸テーブル、他には主に教科書などを詰め込む本棚くらいだろう。お互いの趣味の物は隣の部屋にある自らの机に置くという決まりがあり、この部屋にはほぼ物がない。
玄関隣の台所にも生活に必要な食器が置かれている程度。改めて言われると確かに物が少ないのかもしれない。二人で生活するだけなので、あまり物がいらないというのが正直な所ではあるのだが。
そして、お互いに時間があれば二人でくつろぐ、というのが織部兄妹の日課。娯楽のための物がなくとも退屈はしていなかったと断言出来るだろう。あんなに愛らしい存在がいるのだ。終始笑顔であった事は言うまでもない。
だが、それもあの日で失ってしまった。
楽しい日常と、喪失の悲しみ。今の真冬は一体どんな表情を浮かべているのだろうか。それは真冬自身では分からなかった。鏡でも見れば、すぐに分かる。だが、事実を確かめる事はあまりにも恐ろしい。今の真冬には到底不可能だろう。
「――吹っ切れたか?」
「いいや」
カインの問いに真冬はすぐに頭を振る。
――死者に指輪を送る。
真冬自身、思い切った事をしたとは思う。だが、心の整理がついたとは思えないのである。油断すれば、おそらくすぐに泣き出してしまうだろう。自らの心の弱さには、ほとほと呆れているくらいである。
もしかすれば目の前にいる、この頑強そうな男であれば迷わず突き進んでいけるのだろうか。それとも真冬と同じように沈んだりもするのだろうか。その答えは知りたいような気もするが、さすがに問う事は出来ない真冬である。
「そうか。こんな時に――すまんな」
「いいけど。何でこんな所に? こんな言い方していいのか分からないけれど……そこまで親しくないというのか。知人というのにも無理がある間柄なんだけど」
一言謝罪するカインに、真冬は核心に迫る。
正直な話、気になって仕方がないのである。彼の来訪の理由、目的を。
「ふ……ふむ」
問いを受けたカインはどこか居心地が悪そうだった。視線を逸らして、湯呑を置いて。だが、まだ話さない。
(何があったんだ?)
真冬は目の前にいる男を注視して心中で問う。
付き合いは短いが、この男の心が揺れる、などという事は全く想像出来ないのである。だが、実際は違うというのだろうか。
思考を走らせていると。
「俺の、というのかフリージアと一緒に住んでいるアパートに……な。少し苦手な人が訪ねてきたんだ」
カインは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
この様子から察するに、よほど苦手な人なのだろう。真冬には部屋から逃げ出すほどに苦手な人は存在しない。そのため、少々理解には苦しむが話だけは聞こうと、いや、聞くべきだと思った。
「どんな人なんだ?」
まずは当たり障りのない所からと真冬。
「表向きは明るい人だ。無口な俺とは真逆だな」
すると、問いに即答するカイン。
ここまでは何の問題もない。だが、何か裏のある人なのだろうか。
言葉を待つと。
「だが、時折見せる表情にはぞっとする。弟であっても、あの恐怖には慣れん」
そう語るカインの表情はどこか青ざめていた。
腕は丸太のように太く、鍛え抜かれた胸板は分厚い屈強な戦士のイメージのあるカイン。その彼をも恐怖させる存在とは一体何者なのだろうか。
だが、それよりも。どうしても気になる単語があった真冬は問いを放つ。
「弟?」
「ああ。逃げてきた対象は俺の姉だ。名をセシリアという。まだそちらには伝えていないが……今後の戦いには参加してくれるだろう」
カインは一息吐く事で、落ち着いたらしく答えてくれた。こちらとしてはありがたい、補足情報とセットで。
(期待して、いいのだろうか?)
カインですら恐怖するエクソシストの参戦。それは今後の戦いが楽になる、と断定してもいいのだろうか。真冬の心にさらなる希望が湧く。
もう穢れとの戦いも、失う事もうんざりなのである。叶うのであればさっと倒して終わらせたい。そう真冬は願っている。それがエクソシストでも、護士でも、他の何の力であっても、真冬には関係はない。ただ圧倒的な力で、誰も失わずに、勝てれば、それでいいのだ。
「戦力とだけ見れば期待して、いいだろう。だがな」
それだけを述べてカインは溜息をつく。
まだ何かあるのだろうか。そう言えば表情が何だとか言っていたと思い出し、かける言葉を探していると。
振動音が鳴り響く。
音の発生源は、丸テーブルに置かれた真冬の認証カードである。そして、表示された名前は、見知った人物。
「雫?」
どうやら電話らしい。首を傾げつつも通話が可能なモードへと変更した真冬は、カードを耳に当てる。
『今、大丈夫ですか? 緊急事態です』
伝わる雫の声はどこか固い。表情までは見えないために、感覚的なものなのだが。
「ああ。今はカインといる。何だ?」
一度、カインに視線を向ける。カインは一度頷いて、表情を固くする。
『私の目の前に――春が現れました』
雫の言葉が鼓膜を震わせる。
「――」
真冬は言葉を返せなかった。言葉の意味が理解出来ない。春はもういないのだから。
だが、雫は言葉を返さない真冬に、自らが体験した事を。余す事なく、容赦なく伝えていった。
*
フリージアの目の前に広がるのはまるで夢の世界だった。二人用とは思えない広いテーブル、そして小皿に小分けされた十種類以上の料理の数々。パスタにピザに、サラダ、そしてフリージアの拳よりも太い体をした海老まである。一体幾らするのか、想像するのも恐ろしい料理であった。
ふと視線を頭上に向ければ、幾重にも輝くシャンデリヤ。左右に視線を走らせれば、スーツを着込んだ熟年の夫婦達。おそらくかなりの金持ちなのだろう。身に纏うオーラが明らかに一般市民であるフリージアとは違って見えるのだから。
フェレアスで主流とされている食材を用いた、最高級のレストランだった。
(なんなの、ここは!)
心中は焦りに焦っていた。
白いセーターに、ロングスカートという私服姿は明らかに浮いているのは言うまでもなく、そもそもこんな所にいてもいいのだろうか。
「感動的な姉弟の再開だったのにぃ」
頬を膨らませて、文句を言うのはこの席に招待したセシリアである。彼女はフリージアに合わせて私服姿。動きやすい漆黒のウェアを私服と呼んでいいのかは分からないのだが。
しかし、テレビに出るような俳優を軽く凌駕しているように思う彼女は、どんな服を着ていても美しいのは変わらないとフリージアは思う。自らの私服とは雲泥の差があるのである。同じ女性としては、とてつもなく悔しい。
だが、彼女とて完璧では決してない。それを示すかのように彼女は、フリージアの言葉が返ってこない事に、子供のようにさらに頬を膨らませているのだから。その姿は本当に残念で仕方がない。素でいれば美人だと言うのに。
これ以上、放っておくとさらに残念な様子を晒してしまうので――
「苦手みたいだよ、セシリア姉さんの事」
苦笑いを浮かべてフリージアは言葉を返す。
実際にカインの口から聞いた話であるので、確かだろう。あれは照れからきた言葉ではない事は長い付き合いの中で分かっている。フリージアの口から伝えるのも、どうかとは思うのだが。
「――今度会ったら、絞めてあげるわ」
表情を引き締め、低く呻くように呟くセシリア。
先ほどまでの子供のような表情は、まるで幻であったかのように消え去り、浮かべる表情は真剣そのもの。冗談ではない事は誰でも分かってしまうのではないだろうか。
フリージアの背に寒気が、いや、悪寒が駆け抜ける。
心とは別に体は正直。それを証明するかのように、フリージアの肩は小刻みに震えていた。わざわざ確認せずともはっきりと分かる。フリージアは睨まれた小動物のように恐怖しているのだと。
「あら。フリージアちゃんには、なーんにもしないわよ」
先ほどまでの殺気を消し去り、にんまりという単語が似合う様な笑顔を向けるセシリア。だが、それだけで恐怖が消え去る訳はない。いや、むしろ恐怖はより強く心へと刻まれていく。
天使を呼べるフリージアではある。だが、目の前の女性を天使の軍団を呼べる人類最強の存在。カインの言うように彼女は片手間で人を消せるのだ。笑いながらでも。
「よしよし。私が悪かったわ」
怯えるフリージアを、腰掛ける椅子から立ち上がり撫でるセシリア。
伝わったのは温もり。優しい姉の、いや母親を思わせる温もりだった。溢れる慈愛に触れたフリージアは一度安堵の息を吐く。カインが苦手だと言うのが少しだけ分かった瞬間だった。
温かさと恐怖。二つの感情を同時に与えられれば、対応出来る訳はないのだ。彼女と対等であるためには、それ相応の力が、能力が必要な気がしてならないフリージアである。
「冷めてしまうわ。食べましょう」
そう呟いて、こちらの心境などお構いなしの様子で、ピザへと手を伸ばすセシリア。そんな彼女に倣いフリージアも手を伸ばす。せっかくの食事を無駄にはしたくはないのである。
時に談笑し、時に寒気を感じながら食事を進めていると。
「体調はどう?」
急にセシリアが問う。
どうやらフリージアの体調を確認するためにここまで来たらしい。電話とメールですでに体調の事は報告している。それでも心配で、自らの目で確認するためにここまで来てくれたとでもいうのだろうか。
(だったら嬉しいな)
心中で呟き、頬を緩めたフリージアは言葉を探していく。
真実を伝えるか、それとも隠すべきなのか。
正直な所を言えばフリージアはすでに限界である。日常生活すら送れないのではないかと不安に思うほどに。時折襲う寒気は強さを増し、立っている事すらもままならない時もあるのだ。そんな時は蹲り、両肩を抱いて寒さに耐える他に道はない。その間は何も出来ないのである。
ただ震えを耐えるのみ。あれほど惨めな一時はない事だろう。
今のままでは確実に足でまといになる。
それは嫌だと、フリージアは思う。それは今も変わらない。だが、もう一つ想いが浮かぶ。
(知らない所で――二人が苦しむのも、死ぬのも、嫌)
フリージアは心の中で答えるべき言葉を懸命に考える。身内同然の、義理の姉が満足する答えを。悩んだ末に浮かんだ言葉は、至極平凡なものだった。限られた時しかなかったとはいえ、ありきたりな言葉しか出てこない事はどこか残念で仕方がない。
「大丈夫だよ。監視者が消えてからずいぶん体調がいいんだ」
精一杯の作った笑顔を向けて、フリージアは何事もない風を装い呟く。隠し通せる事を祈って。薄々無理だとは分かっているのだが。
「それは良かったわ。健康なのね」
フリージアと全く同じ、作った笑顔を向けて返すセシリア。
その瞬間。
言い用のない感触が全身を走る。まるで心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖、いや、そんな生温いものでは決してない。これはただ純粋なる恐怖だ。人が、動物が、生命が感じる絶対者に対する恐怖だった。彼女は笑っているというのに。
「もう一度、聞くわ。体調は大丈夫?」
どうやらこれが最後の質問らしい。徐々に彼女の瞳が鋭くなっていく。
(分かってるんじゃない)
義理の姉はフリージアの体調を分かっている。だが、確証が欲しくて問うていたのだ。
こんな事を以前に経験した事がある。
そう。
雨月雫が、こちらの言いたい事を知っていて問うた時だ。
(雫が可愛く見えてきた)
涙を薄っすらと浮かべたフリージアは崖っぷちで答えを探す。どう答えれば自らの望みが叶えられるのか。望みが砕かれれば、戦いがある度にアパートで待つ、という事になるだろう。それは耐えられない。待つよりも、駆け抜けるのがフリージアなのだから。
だが、言葉は見つからない。
ゆっくりと、手にしたナイフとフォークを置いたフリージアは――
「日常生活にも支障が出てる。でも、戦いたい。一人で待つなんて、嫌」
俯いて正直に答える。素直な気持ちを伝えるために。
「分かった。本当に可愛いんだから」
滑らかな手が頬へと触れる。まるで壊れ物を扱うような優しい手。
「え?」
彼女は何を言ったのか。すぐには理解出来なかったフリージアが顔を上げると。目前に迫ったのは、女性であるフリージアでも、ドキリとしてしまう端正な顔だった。
「んっ――!」
刹那の瞬間で唇を塞がれる。訳も分からず目を見開いていると、それはすぐに終わった。
「これで良し。どう?」
いきなり唇を強襲したセシリアは首を傾げて問う。
何が「どう?」なのだろうか。
だが、自らがされた事は薄々分かる。これは恋人同士がする、「キス」というものである。
意味を理解した瞬間。フリージアの頬は徐々に赤らみ、心臓は早鐘のように鳴り響く。
「えっと……こういう事はよくない。女性同士だし、それに私にはカインがいるし」
しどろもどろに言葉を紡いでいくフリージア。
対するセシリアはきょとんとしていた。目を丸くして、ぱちくりとさせていた。
(何? 何か間違えた?)
心中で呟くと。
「ぷっ――」
なぜかセシリアは噴出した。どうやら、笑いのツボに入ったらしく場を気にせずに大笑いの様子である。
もう意味が分からない。何だと言うのだろうか。
「何なのよ!」
ついに素が出てしまったフリージア。両手を上げて挑みかかるように叫ぶ。その姿は以前の自分、不敵に笑い、それでいて強気な姿勢を崩さなかった自分だった。
「それだけ動ければ、大丈夫ね。確かにこれはきついわね」
散々、笑った後にセシリアは呟く。
(きつい? 何が? それに、何? 体が軽い?)
フリージアは上げた両手を下げて、手を握る。両手には確かな力が宿っている。これは久しぶりの感触。全開だったフリージアの力である。
「悪いのは全部もらったから。この程度なら支障はないし」
片目を瞑り、人差し指を向けるセシリア。
「全部? もしかして――さっきのキスで? そんな事が出来るの?」
意味を理解したフリージアは全身の血の気が引いていく。自らの未熟さのせいで、姉と慕う女性を危機に晒してしまったというのだろうか。無敵と言っても過言ではない絶対者を。
「私を誰だと思っているの? なーんでも出来てしまうんだから。忘れないで、奇跡を行使出来るのがエクソシストよ」
戸惑うフリージアを包む、優しい声。
「うん」
フリージアは一度頷く事しか出来なかった。返せる言葉が見つからなかったから。
ほどなく泣いて、食事という日常に戻ろうとした瞬間。スカートのポケットに収まっている物が振動する。それは連絡用の情報端末。
「カイン?」
取り出して通話モードに切り替え耳に当てると。
『戦いの日が決まった』
鼓膜を震わせたのは、非日常へと誘う言葉だった。




