第十一話 前編
輪廻の鎖 改訂版
― 十一 前編 ―
淡い輝きを放つ街灯に照らされて、輝いているのは色鮮やかな金髪。腰まで伸びたその髪は男性、女性問わず注視してしまう程に美しい。
だが、人を惹きつけて離さないのは髪だけではない。女性でありながら身長百七十センチを超えた長身と、身に纏う動きやすそうな漆黒のウェアを内側から膨らませる豊かな胸、そして腰はどこかのモデルと見間違えるほどに細く妖艶だった。
この世に存在していいのか。
そう疑問に思う程の美女の名は、セシリア・ディオールという。
「異国って不便ね」
セシリアは携帯端末を操作しながら、ぼやく。自国であるフェレアスならいざ知らず、さすがに外国ともなれば迷うのは当然の事である。ワンタッチで現地の地図を表示出来る便利な道具を持っていたとしても。
一度溜息をついたセシリアは、周囲をゆっくりと見回していく。
携帯端末が示す通りにここは冬月の住宅街。その中でもアパート群、とでも呼ぶのが適しているかのような場所である。周囲は六階建て、または十階建てのアパートが左右に所狭しと並んでいるのだから。
この内のどれかが、今から会いに行く者が住んでいるアパートなのである。
「ギブして電話しようかしら」
肩を竦めて独語するセシリア。先ほどから、ぽつり、ぽつりと独語しているのは、夜道を一人で歩いているのが、どこか寂しいからである。折れそうになる心を保っていると言っても過言ではないだろう。
そして、今にも諦めてしまいそうになる理由は。
極寒の地であるフェレアスと比べれば、この地は温度が五度くらいは高い。そのため寒さに慣れたセシリアの体は震える事はない。だが、さすがに雪が舞う季節に長時間うろつきたいとは誰も思わない事だろう。よほどの変わり者でない限りは。
「フリージアちゃんに会いたいよぅ」
空へと両腕を伸ばして、どこか我がままを言う子供のように天へと向けて呟く。だが、当然答えは返ってはこない。
妖艶で大人っぽい雰囲気を漂わせているが、どこか残念な彼女。セシリア・ディオール。
そんな彼女が、なぜ異国の地に足を運んだのか。
そして、なぜ目的の人物が住むアパートを目指しているのか。
理由は二つ。
一つは監視者を織部春という少女が相討ち、という形で倒したという事。そしてもう一つは妹のように可愛がっているフリージアの体調が思わしくないという事である。
重要なのは後者。前者などセシリアにとってはどうでもいい事だった。監視者が倒れてフリージアが自由になるというのであれが拍手して喜ぶ。だが、そう上手くはいかない事はセシリアも分かっているからである。
こうもあっさりと解放されるのならば、幾重にも転生する事もなくすでに自由になっていただろうから。そして、あっさりといかない、というのであれば強引にでも運命を捻じ曲げるしかないのである。絶対的な力によって。
数日前にカインから報告を受けたセシリアは、すぐさま強行手段を取った。
――強行手段。
言葉はどこか立派。だが、実際の所は自らが所属する教会の大司祭を、天使の軍団で脅しただけである。至極、簡単で分かりやすい方法を取ったに過ぎないのである。
完全な独断先行。
だが、後にカインより正式な応援要請もあり、晴れて正式な派遣となったという訳である。
そんな勝手が許されるのはセシリアが、最強のエクソシスト。いや、人類最強と断定出来るからだろう。
断定出来るのは彼女の能力の高さ故である。
神力を用いた奇跡の行使。その中でも天使の召喚が出来る者は稀である。現在ではフリージアとセシリアしか行使は出来ない程に珍しい力だ。その中でフリージアは一体の天使を行使し、自らの力とする事が出来る。
だが、彼女は違う。複数の天使、数にして百の天使を呼べるのである。
天使の軍団と名付けられた、この力に対抗出来るものはこの世界に存在しない。それゆえに最強と言われているのである。実際はこの力を監視者に向けて使用した事はないため、セシリア自身はこの力が最強だと断定する事は間違っていると思っている。
人類の中では最強だが、穢れ、そして監視者の世界まで行けばどこまで通じるのか。それは試した事がないセシリアには分からない。
思考を走らせながら、目的の人物であるカインを求めて歩くと。
「――私ったら運までいいのねぇ」
セシリアは笑顔で、軽快にスキップでもするかのような弾んだ声音で呟く。
ついに見つけたのである。目的地である安アパートを。送られてきた写真の通りの建物を。
目的地を見つけたセシリアの動きは、まさに神速だった。
*
夜風が頬を、全身を冷やしていく。耳へと届くのは、風に揺れる、どこか心地良い大木の葉の音色。風に揺られた不定期な音色だった。
(――冷たい。でも、今はこれくらいがいいですね)
震えそうになる全身を感じながら、雫は心中で呟く。
――春の死。
その事実で沈んでいるのは真冬だけではないのである。雫も少なからず沈み、今もこうして夜風に当たる事で頭を冷やしているのである。常に冷静でいるために。お気に入りの場所である、境内にある大木に背を預けて。闇を照らす三日月、正確に言えば有明月を見上げて。
月の輝きは綺麗、だと雫は思う。輝きを失いつつある雫達とは雲泥の差だと思ってしまうほどに。
春とは、そう長い付き合いがある訳ではない。だが、一人になった途端にここまで沈んでしまうという事は。
「真冬は――どうしているのでしょうか?」
雫はぽつりと夜空に問う。彼は大丈夫なのかと。春を想って、駆けだした彼は自らを取り戻したのだろうか。
前世では恋人だった、織部真冬。少なからず雫とは縁があり、結ばれる可能性があった彼。
だが、彼が選んだのはやはり最愛の妹だった。今はいない彼女に指輪まで送った、そんな彼の想いに偽りはなく、そして揺らぐ事はないのだろう。どんな事があっても。
では、私はどうすればいいのだろうかと、雫は思う。今までのように心がざわつかない自分は。内なる前世の彼女はもういない。彼と一緒に解放されたのだから。
つまり、すでに雫を縛るものは存在しない。そして、それは春へと想いを伝えた真冬も同様だろう。
(自由。魅惑的ではありますが――困るものですね)
誰を好きになるのも、どう生きるのも自由。もう監視者はいないのだから。そして、自らの意思に干渉する者もすでにいない。
巫女としての使命を全うする。それもいいのかもしれない。だが、それだけでいいのだろうか。そう雫は思えてならない。どこか監視者が消える事で、輪廻の鎖から解き放たれた事で、心にぽっかりと穴が開いたような気がするのである。
「一歩が踏み出せない」
雫はあえて独語する。言葉を体へ、心へと沁みさせるために。心が再び前へと、目指すべき道を形作る事を祈って。
――一度、強い風が吹く。
容赦ない風に全身を震わせる雫。どうやら思考に耽り過ぎてしまったらしい。この場に来ると頻繁に同じミスを犯してしまう。それだけこの場が雫にとって重要な場所であるという事だ。
雫は冷えた体を温めるために、叔父と一緒に暮らす雨月神社へと一歩、二歩、進むと。
背後に何かが、いや誰かが立っているような違和感を覚える。違和感を確かめるために、ゆっくりと振り向く。
雫の背後。
大木から三歩ほど離れた、神社へと上る階段の前に立っていたのは漆黒のローブを纏ったほっそりとした体躯の人物。フードを被っているために顔は見えないが、その雰囲気は彼女に似ていた。雫達を苦しめた彼女に。もう二度と会いたくはない、一刀斎を、春を殺したと言っても過言ではない人物に。
「――監視者」
雫は自らの直感を信じて言葉を発する。
すると。
漆黒のローブを纏った人物はゆっくりと正体を隠すフードを取り払う。
「――!」
雫は言葉を発する事が出来なかった。
もう彼女はいない筈なのだから。そして、彼女はあんなおぞましい瞳の色ではない。何色にも染まらぬ漆黒の瞳であった筈だ。
「違う!」
雫は怯えながら、表情を蒼白にして叫ぶ。
彼女が監視者な訳はないのだから。大切な仲間だったのだ。これは穢れが、雫達を惑わすための仮の姿なのだと、即座に結論付ける。そうであって欲しいと心の中で強く、強く願って。
「違わない。僕だよ」
だが、目の前に立つ人物は肯定した。首を左右にゆっくりと振って。
言葉が、声が彼女であると確かに伝える。
――震えは止まらない。心が騒いで止まらない。
気が狂いそうな自らを感じつつ雫は――
「春だと言うのですか? どうして?」
荒い呼吸を整えて問う。
乱れる心が心拍数を上げ、そして呼吸の回数をぐっと引き上げる。問いはしたが、心の中では今でも信じてはいない雫である。いや、信じたくはないというのが正解だ。
「監視者を殺した者が――次の監視者になるの。そして、世界を管理する。彼を、世界の中心である、冬月の地に出さないためにも」
春は淡々とした口調で、どこか事務的に語っていく。
言葉は、拒む雫の脳裏に確実に刻まれていく。聞きたくはないが、知りたいと願う自分がいるからである。
(彼? 世界の管理?)
真実を求める雫が心の中で問う。
「彼というのは、この世界を満たす負の感情の集合体。そして、監視者は彼がこの地に出ないよう管理する存在。穢れと人を監視して」
春は雫に分かるように言い直してくれた。
この優しく丁寧な所は、やはり春だった。雫がよく知っている春だったのである。
「どうするの……ですか?」
雫は俯いて問う。それが精一杯だった。
おそらく彼女は何かを伝えに来たのだろう。雫を選んだのは、彼を、真冬を苦しませないためなのだろう。
「前の監視者が描いたシナリオの最終段階を実行するよ。この地に穢れを出す。罪深き人を更生するために。そして、彼を再び封印する。僕の力で」
春は迷わず言い切った。
言葉を受けて、俯いた顔を上げると。彼女の表情はどこか固くて、そして握った拳は震えていた。
(無理をしているのですね、春も。世界のために)
雫は春の、新しい監視者の胸中を予想して心中で呟く。
言葉をぶつければ止められる。まだ間に合う。
そう確信した雫は――
「抗うと言ったら?」
彼女の鮮やかな真紅の瞳をしっかりと捉えて問う。確かな意志を伝えるために。彼女の心を揺らすために。そして、取り戻すためにだ。
「雫さんを殺します、全力で」
涙でくしゃくしゃになった顔で言い切る春。
どうしてそこまでして進むのか。どうして一人で抱え込もうとするのだろうか。雫に分からない。理解は出来なかった。
どうして頼ってくれないのか。それがただただ悔しかった。だから伝える。言葉を、想いを。
「ならば、私は全力で抗います。そして――」
雫は一度、言葉を切る。
春は何も言わず、言葉を待ってくれた。重なった瞳を決して逸らさずに、雫を見続けてくれたのである。優しさが、温かさが伝わってくる。それは以前の彼女から感じた、織部真冬が望んで離さない温もり。
雫の心に優しさが広がる。心地良さすら感じる程に。
そんな心優しい彼女に微笑んだ雫は――
「あなたを取り戻す。全力で。こちらには切り札がありますから」
言い切る。
優しさを、彼女に返すために。心のざわつきは、乱れはすでにない。
彼女を奪還するための切り札は、今は全開。特に春に関わる事ならば、彼は走り続ける事だろう。その想いは絶対に伝わる。そう信じる事が出来る。だから、揺れない。乱れないのである。
「ごめんなさい。でも――僕が、僕がやらないと世界は滅んでしまう。だから真冬も消さないといけない! 消した後の生まれ変わった時は、雫さんが――」
「お断りします。あなたの代わりに真冬を幸せにして欲しい? 私を馬鹿にするのもいい加減にして下さい。私にも選ぶ権利があります。妹が好きで……好きで堪らない。あんな苦労する人なんて知りません! あなたが幸せにして下さい」
雫は言葉を遮って、思うままを口にする。頬を涙で濡らし、呆気に取られる彼女へと。
半分は春のため。そして、残り半分は雫自身のために。
少しは惹かれる所はある。だが、それは前世の想いを引きずっているだけの話。生まれ変わってまで幸せにする、などどは思ってはいない。そう思うだけ、彼とは深く関わってはいないのである。
だから。
来世は来世の生きたいように生きればいい。惹かれた相手を好きになればいい。それが真冬であるのなら、それはそれでいい。別の人になるのであれば、またそれもいいのである。
そして、今の雫も誰を好きになろうと、こちらの勝手なのだ。
「雫さんは厳しいな。でもね――僕は止まらないよ。守りたいんだ、この世界を。ううん、真冬の魂を。どうか生まれ変わった皆が――」
春は胸の前で両手を組み、紡ぐ。
「幸せになりますように」
祈りの言葉を。全てを、世界を包み込む優しい言葉を。
どこまでも優しいというのに、雫の心は締め付けられる。まるで心を強く掴まれたかのように。理由はすぐに分かった。幸せにならなければならない者が一人足りないからだ。
「――少しは自分の幸せを願って下さい」
雫はその言葉を最後に、背を向ける。もう見ていられなかったから。どうして、そこまで自分を犠牲に出来るだろうか。春も、そしてあの藤堂というお節介な男も。
自身など二の次。まずは隣にいる人の幸せを、笑顔を守ろうとする。例え自らの命が消えてしまうとしても。
(分からない)
雫は春には見えないように右手の拳を胸の前で強く握る。痛みは雫を冷静にしていく。吐き出しそうになる、無駄な言葉を飲み込む。これ以上不要な言葉を吐いて、春の意志を固めてはいけないのだ。届かない言葉を吐いてはいけないのだ。
彼女を説得出来る存在は彼しかいないのだから。唯一の肉親であり、春が心を寄せる相手。それは真冬だけなのだから。そんな彼が進む限り、諦めない限り雫は進める。
例え相手が、春であっても、全ての負の感情の集合体であってもだ。
「戦いの日は――三十日月の日。もっとも穢れが強さを発揮出来る時」
春はどう言葉を返していいのか分からなかったのか、必要な事だけを述べる。
一拍を置いて振り向くと。そこにはもう誰もいなかった。まるで今までが幻だったというかのように。
(――三十日月ですか)
今が有明月という事は決戦の日は、二日後の月が世界を照らさない日。
常月、冬月、雪月、桜月。
月という言葉が多く付けられたこの国。どうやら穢れの強さが関係していたらしい。漆黒の世界の住民は、闇を退ける月の光が苦手だとでも言うのだろうか。
数百年前の世界。一刀斎と、以前の監視者が戦っていた時代には、おそらく月の光は祝福の光だったのだろう。穢れの力を奪い、そして力を与えてくれる救いの光であったのだろうか。今となっては確認する方法はないのだが。
そして、これらはただの雫の想像でしかない。実際の所は謎である。答えを持っている春はすでにいない。そして、知った所で今後の活動に支障はない。
だから雫は「関係ない」と断定して、思考を斬り捨てる。
(止める。絶対に)
そして心中で呟き、固く、固く決意するのだった。




