第十話 前編
輪廻の鎖 改訂版
― 十 前編 ―
響き渡るのは耳を塞ぎたくなるような剛音。
音の発生源はカインが振り下ろした大剣である。金色の大剣に纏わりつくのは色鮮やかな赤い霧。
(問題は……ないわね)
聖書を右手で強く掴み、相棒の動きを確認したフリージアは安堵の息を吐く。
監視者が姿を消してからすでに一週間。穢れは以頻繁に姿を現すが、夢で見たような、命懸けで倒さねばならないような相手は現れない。
そして、次の夢。カインが倒れる夢を皆は見ていない。そして、もう一つ変化した事を挙げるとすれば、それは。星のように瞬く光が、あの心を奪うかのような青銀の輝きが見当たらない事である。同然、水晶色の木も姿を見せない。
まるで監視者など、この世界にいなかったかのように。この空間にはもとから何もなかったというかのように、この場はただ暗かった。前方を目を凝らして見なければならないほどに。
「こいつで――ラスト!」
どこか活発そうな声が暗がりから響く。声を発したのはカインの右隣で槍を振るう、藤堂という名の護士である。「ラスト」という彼の言葉通り、残る穢れは一体。
護士が繰り出す高速の槍を目で追うと。槍は漆黒の空間を切り裂き、狼に似た穢れの頭部を容赦なく貫く。
舞い散ったのは血を思わせる、穢れの証。
「ふぅ……」
フリージアは勝利を確信して再度息を吐く。カインと藤堂、前衛だけで戦いは楽に終わる。最近は数こそは多いが、フリージアや雫など後衛を務める者が手を出す事は稀である。
前衛を務める彼らの動きが、徐々に息が合ってきたというのもあるのだが。
「どう見る? この状況」
右隣にいる、同じく安堵の息を吐いた巫女へとフリージアは問う。これだけ楽に勝てていいのか。そう思えて仕方がないのである。油断し、調子に乗れば、すぐにでも危機に晒されるのではないか。そう思えて仕方がないのである。
「どう、とは?」
問われた雨月雫は無表情のまま問い返してきた。感情というものを消し去ったかのような人形のような表情。カインも無表情な事は多いが、この雫という名の少女はそれ以上である。
(何を考えてるか。さっぱり分かんない)
心の中で呟き、苦笑いを浮かべたフリージアは言葉を探していく。さすがに「どう?」だけでは分からないのも確かだろうから。
「えっと。けが――」
「穢れの強さについてですか? そうですねぇ。今までのような大物は出ていないと思います。ですが問題なのは同じ姿形をしていますが、以前よりも強くなっているような気がするんですよね。気のせいであればいいのですが。この場、冬月が世界の中心であるので、強力な穢れが出るのは周知の事実ですけど。次第に強くなる、というのはあまり聞きませんね」
フリージアが言い直そうとすると。雫はすらすらと、まるで自らに言い聞かせるように淡々と述べていく。
(聞きたい事――分かってるんじゃない!)
なぜ問い直した、とご立腹のフリージア。だが、当然表情には出さない。心の中は沸騰したお湯のようにぐつぐつと煮えたぎっているが、自身の感情一つで何とか構築した関係を崩したくはないのである。
「その意見には同意する。あの狼だが――昨日よりも動きがいい。連戦での疲労も考えられるだろう。だが、昨日戦った相手だ。そうそう動きを見間違える事はなかろう」
雫の言葉に返したのは、手にした刃を再び光へと変えたカインである。
(カインが言うなら正確かしらね)
フリージアは顎に手を置いて思考する。
同じエクソシストの言葉を信じる、という意味合いもある。だが彼の戦闘経験の多さはこの中では群を抜いている。その彼が言うのだから間違いはないだろう。
「動きもなんだけど――」
言いかけて口を閉じたのは、遠慮がちにフリージア達に視線を向けた護士である。彼が遠慮するのは、そもそも彼は部外者であるという事、そしてエクソシストである二人とは面識がほとんどないからである。
隣で無表情を貫く少女はどこか特殊な部類だろう。肝が据わっているのか、それとも心底性格が悪いかのどちらかだとフリージアは思っている。
「何かあるのか? 遠慮なく言ってくれ。参考になる」
遠慮する彼に向けて、促したのはカインである。
「ああ。少し奴らが固くなっていないか? ほら」
同じ男性に声を掛けられて安心したのか、藤堂は言葉を続けると共に手にした槍を掲げる。
穢れとの戦いで傷ついた刃は、彼の言葉を証明するには十分だった。
「槍の先端が欠けている? それほどの強度を、あの程度の穢れが?」
フリージアは槍の先端を見つめながら呆然とつぶやく。
返ってきたのは無言。
皆、今の状況が分からないのだろう。全ての答えを知る者はすでにいないのだから。だが、彼らの戦いはまだ終わっていない。今もこうして穢れと戦い続けているのだから。
皆の脳裏に駆け巡ったものは、このまま穢れが強くなれば対応出来るのかという事である。しかもたったの三人で。フリージアは、今回は参加したが体調が優れない時は身を引いている。実質の戦力は、藤堂、雫、そしてカインである。
「この件は教会へと報告しておく。応援が得られれば、対応策を考えるだけの時間は得られるだろう」
長い沈黙を破ったのは腕組みをしたカイン。
皆は一度逡巡したが、一斉に頷く。他に手の打ちようがないのも確かなのだ、頷く他にはないだろう。今は少しでも時間が欲しいのである。
「それでは戻りましょうか」
涼やかな声で、そう述べて元来た道を戻ろうとするのは雫である。横顔を覗き込むと、「もう他にここで話す事はない」と言いたげだった。
穢れについては不確定要素も多いため話す事はない。だが、まだ一つ聞きたい事がある。
「あの護士は? 片腕を失っているのだから……無理して戦えとは言わない。でも――」
「あいつはずっと寮にいる。外に出る気はないらしい」
言葉を遮ったのは雫の背を追い掛けるように歩く藤堂。彼の表情は苦痛で歪んでいる。苦痛の原因は爪が食い込んでいるのではないか、と思える程に強く握り締めた拳だろう。
(それでもいいの?)
フリージアは逃げるように進む二人へと心中で問う。
大切な人を失えば、壊れたように泣くか、それか我を忘れて怒り狂うかのどちらかだろう。織部真冬は前者なのだろうか。今も部屋へと引きこもり、戦う事も、高校という日常へと出る事もないというのだろうか。
監視者と共に消えた少女、織部春。彼女がいたから彼は戦えたのだろう。守るべき人を失った彼に再び立ち上がる力はない。もう声を掛けても無駄。そう諦める事も出来る。
だが、それでいいのだろうか。
そうは思えない。命を掛けた少女の願いはただ一つ。織部真冬の幸せだと思うから。
「待って」
フリージアは前を向いたまま去り行く二人へと声を掛ける。背に突き刺さるのは二人の視線。今から何を言うのか大体の予想がついているのだろう。だが、二人から言葉は返ってこない。
フリージアは一度深呼吸をする事で、自らを落ち着かせて。
「このままでいいとは思えない」
短い言葉。だが、これだけで十分だろう。これで伝わらないというのであればそれまで。
そして、これ以上は赤の他人が踏み込んでいい問題ではない。後は真に彼を心配する者が考え、動くべき事だと思うから。それに、一声掛けるだけでもフリージアとしてはお節介だと思えて仕方がないから。
「分かってるよ。んなの、分かってる!」
叫び返したのは藤堂。先ほどまでの遠慮は、すでになく突き刺さるような叫び。彼がいかに真剣なのかは声だけで分かる。
「なら。いいんじゃない。私達はこれ以上、干渉しない。でも、あまりにも無様な姿を晒すなら、蹴り飛ばすわよ」
薄っすらと微笑んだフリージアは言葉を返すと共に振り向く。藤堂の鋭い視線を正面から受け止めても怯まず、彼の横を何事もなかったかのように平然と通り過ぎる。その背に続いたのはカイン。
二人はもう言葉を返す事はなかった。呆気に取られたのか、言葉を探していたのかは分からない。だが、他にしてやれる事がないフリージアは、この場を去る他に成すべき事を見つける事は出来なかった。
*
耳へと届くのは小鳥の囀り《さえずり》。
普段であれば耳に心地良い音色ではあるが、今の真冬は何も感じはしなかった。電気すらつけていない寮の一室で二段ベッドの下段、つまりは真冬が就寝するためのスペースに腰を降ろし虚ろな瞳を手元に向けているだけである。
あれから何日経ったのか、今が何時であるのか。日常を生きていれば鈍る事はない感覚すら、生きる屍となりつつある真冬には判別出来てはいない。
そんな真冬が見つめている物は一枚の写真。
(春)
真冬は写真に写る最愛の人の名を心中で呼ぶ。見つめると言っても視線は霞み、よくは見えないのだが。だが、他にするべき事もない。いや、何かしようとは思えないのである。動く事も、生きる事も、今の真冬は拒否しているのだから。
(お前を追い込んだ相手を消せばいいのか?)
妹を死へと追いやった穢れという存在の殲滅。
沈んだ心の奥底にある、怒りの感情を晴らすにはいいのかもしれない。だが、それに何の意味があるのか。真冬という器を内側から破壊するには十分な負の感情の全てをぶつけたとしても、春は返ってこないのだから。
一つ熱い雫が写真に落ちる。どこか恥ずかしそうに笑う春の頬へと。
この写真は春の入学式の写真。冬月高校の正門を背後にし、初めて見せる制服姿に恥じらい、それでいてどこか嬉しそうな笑顔を浮かべる春の写真である。当然、撮ったのは真冬である。
春の周囲へと散っているのは、桜の花びら。現在の季節である雪月の次の季節である桜月に舞う花びらだった。真冬に与える神力の結晶である刀の鞘に描かれた春に似合う花びらだった。
「次の桜月は――苦しいだけかもな」
真冬は一週間ぶりに言葉を発する。少しでも内なる心を変化させるために。
独語した事が功を成したのか真冬の腕は力を取り戻していく。たが力を取り戻しても、やはり自らが動くのは春のためだった。
そっと膝へと写真を置いた真冬は、右手の人差し指で丁寧に、優しく自らの涙を拭う。春の柔らかい頬に触れるように。
だが、伝わる感触はどこか冷たくて、滑るような感覚。あの温もり、心地良さは感じられない。
二度と。どれだけ望んでも。
どれだけ手を伸ばしても。
決して届かない。春はもうこの世にはいないのだから。
その事実が真冬の心を蝕む。深い絶望へと落としていく。真冬にとって春を失う事は、世界の終わりそのものなのだから。
「――くっそ。俺は。俺はどうすればいい」
頬へと伝うのは、まるで決壊したダムのように、止めどなく流れる涙だった。溢れる水滴を止める方法は、当然今の真冬には分からない。
そんな自分はどこまで情けなく、それでいて醜いだろうか。
「どうしたらお前に会える?」
問いを発した瞬間。
真冬の脳裏に一つの考えが浮かぶ。それは春に会うための一つの答え。
答えを得た体は今まで固まっていた事が信じられないくらいにすんなりと動いてくれた。
一歩、二歩、三歩。
ベッドから見て左端にある机の目前まで歩を進めた真冬は、おぼろげな記憶で机の左に配置している引き出しに手をかける。一段目、二段目と開けていくと、視界に収まった物は目的の物。
真冬の頭を埋め尽くすのは愚かな考えだった。
生まれ変われば、もう一度会えるのではないかと。もう一度抱きしめる事が出来るのではないのかと。あの温もりを抱きしめる事が出来るのではないかと。これは前世の彼ら、そして一緒に戦ってくれた全ての者に対する裏切り行為なのかもしれない。
それでも真冬は会いたかった。愛しい人に。
ゆっくりとカッターナイフを掴み取り、刃を数センチ出す。後は首にある頸動脈でも切り裂けばそれで終わりだ。生きる屍は本物の屍になるのである。
真冬が決意したのは数瞬。
明かりのない部屋で輝いた物は、薄っすらと差し込む朝日を受けて輝くカッターナイフの刃。
致命傷となる部位、頸動脈を切り裂く、刹那の直前。
脳裏に浮かんだのは最愛の人の笑顔。春の幸せそうな笑顔だった。
「違う!」
真冬は叫ぶと共に慌てて握ったナイフを投げ捨てる。真冬の首に感じるのはほのかな熱。おそらく薄っすらと切れているだろう。
だが、真冬はまだ生きている。まだ、考える事も、生きる事も出来る。
「違う。春はこんな事を望まない!」
真冬は膝から崩れて、壊れたように呟く。
春の幸せを望む真冬。春の笑顔だけを望む自分がこんな事をしていいのだろうか。真冬が死ぬ事で一番に涙を流すのは春なのだ。
もうこの世には存在しない事は分かっている。でも、仮にどこかで見ているのだとしたら春はあの滑らかな頬を涙で濡らす事だろう。
(何を考えているんだ、俺は)
もはや考えが整理出来ていない。普段であれば霊や、死後の世界など、鼻で笑っていたかもしれない。そんな不可解な事を考え出すほどに真冬は混乱しているとでもいうのだろうか。
だが、前世の彼らに触れている手前、有り得ないとは言い切れないのだが。
定まらない思考の中で真冬は答えを探す。逃げようとする自分に必死に抗う。定められた運命に抗ったように。
今、真冬がこの世を去った春に何をしてあげられるのかを。真冬自身は何が出来るのかを必死に。
醜い姿を晒してでも。ぐちゃぐちゃに乱れる思考に吐き気を覚えながらも。
どれだけそうしていただろうか。
首から薄っすらと流れる血を手で押さえ、思考に耽っていると。
突如、呼び鈴が鳴り響く。
(――あの二人か?)
真冬は一度深呼吸をして息を殺すと共にドアへと向き直る。いつもであれば十分ほど放っておけば諦めてくれる。今は会いたくはない真冬はその時をゆっくりと待つ。
「真冬! 出てこい!」
鳴り響いたのは扉を叩く音。おそらく外から蹴りつけているのだろう。だが、その程度ではこの寮のドアは壊れない。学生寮という事で万が一の事態に備え、窓のガラス、ドアは防犯仕様になっているのである。おそらく車が衝突でもしない限り破壊される事はないだろう。
引きこもりにとっては何とも頼もしい壁だろうか。
「出てこないのであれば破壊します。もう我慢の限界ですから」
涼やかではあるが、どこか怒りを含ませた声。これは雫だろう。
彼女の声は真剣そのもの。
(もしかして、護士の力を?)
真冬はとある可能性に気が付く。一般人には無理でも護士の力を使用すれば、もしかしたら破壊出来るかもしれない。だが、藤堂ならいざ知らず、あの草食動物のように大人しい雨月雫が。
そう思っていると。
――轟音が鳴り響く。
轟音の正体は金属製のドア。目に見えて内側にへこんでいる。どうやら言葉通りに本気で破壊するらしい。
「待って――」
真冬の言葉は、一度、二度と鳴り響く轟音にかき消される。どうやら話を聞く気はないらしい。数日間も無視を決め込んだ事で、あの二人は我慢の限界を超えてしまったらしい。だが、これは明らかに常識の範疇を超えてはいないだろうか。
――三度目の轟音。
引きこもり最後の砦を破壊せしめたのは細い脚。ドアなど蹴りつければ折れるのではないかと不安になりそうな雫の脚、正確に言えば蹴りである。
破壊した当人が握っているのは神力により形成された鉄扇だった。予想通り護士の力を使ったらしい。
雫により破壊されたドアは役目を失い、六畳の部屋へと吹き飛ぶように倒れ込む。
「待ってと言ったのに」
真冬は引きつった笑みを浮かべる。
どうやらまだ人としての感情を、物事に反応出来る心は消えてはいないらしい。それにしても、まさかここまでするとは思わなかった。以前の真冬ならいざ知らず、ただ心の折れた引きこもりのために。歩む道を失った情けない人間のために。
「行くぞ」
いつもの陽気な笑顔を浮かべ、手招きするのは藤堂。雫はただ無言で睨むのみ。
だが、真冬は彼らから視線を外す。もう彼らとは住む世界は違うのだから。ふっと湧いた人間らしい感情はすでに消え去り、心が折れた人形と化した真冬は、まるで機械のように語り出す。
「俺はもう無理だ。いないんだ、ここには。春はいない。俺が進む道は――もうない」
真冬は視線を地に落ちた凶器へと向ける。自身がすがってしまった物へと。
届いたのは短い悲鳴と、舌打ち。
もう関わらないで欲しい。自身を終わらす事は出来なかったが、道が分からなければ同じ事なのだから。
「お前が死ぬ事を――歩みを止める事を、春ちゃんが望むのか?」
低い声。向けられるのは鋭い怒り、いや殺気だった。本気で怒ってくれている事は分かる。だが、どうしろうというのだろうか。今さら、春のいないこの世界で。
「分からない。春は俺の幸せを望むかもしれない。でも、俺はこの世界で……どう生きたらいいのか分からないんだ」
真冬は自嘲の笑みを浮かべる。春が全てなど、依存も良い所だ。そんな自分に、この世界を歩む資格はない。
「だったら教えてやる」
荒々しい足音と共に土足で部屋へと踏み込む藤堂。彼へと視線を向けると。
「生きろ。そんなに好きなら、想っているなら――生き続けてずっと想い続けろ!」
胸ぐらを掴み、強引に真冬を引き上げ感情のみをぶつける藤堂。
締め上げられた真冬は言葉を発する所か、呼吸すらまともにする事が出来なかった。
(生きて想い続ける。それが出来るのは――?)
真冬は藤堂の言葉を心へと沁みさせていく。そして、考える。考え続ける。薄れていく意識の中で。答えを求めて。
「まだ分かんねぇなら――俺が絞殺してやる。それがいやなら、抗え! 俺に!」
藤堂は叫び、さらに締め上げる。
ずっと春を想って、そして春を想い続けていられるのは――
「俺……だけ……だ」
真冬は答えを呟く。
その瞬間。
まるで薄暗い部屋に光を燈したかのように、真冬の視界は開けていく。
「はな……せ……。はな……せ」
締め上げる彼の腹部へと、一度、二度、拳を突き出す。呼吸困難な真冬の力では身長で勝っている彼を吹き飛ばす事は叶わない。それは分かっている。だが、答えを見つけた以上、諦める訳にはいかないのである。
「何だって?」
締め上げる腕の力を緩めて藤堂が問う。
「春を想い続ける事が出来るのは――」
体へと酸素を取り入れて言葉を発する。二人は言葉を待ってくれた。
時間を十分に使い、落ち着いた真冬は言葉を続ける。
「俺だけだ」
真冬はもう一度、今度はしっかりと藤堂の瞳を見て呟く。
刹那、まるで歯車が回り始めたように心が動き出す。今まで止まっていた事が信じられないくらいに。心が、感情が湧き上がってくる。
浮かんだのは春の笑顔。まるで花が咲いたような清々しい笑顔だった。真冬の心は締め付けられるように痛む。だが、逃げてはいけないのだ。
もし春がどこかで見ているというのなら、こんな姿を見ればボロボロと泣き出す事だろう。それだけは許してはいけない。春に浮かべていて欲しいのは笑顔のみ。
そして、その笑顔を守るのは真冬の務め。それが、真冬が生きてきた道。その延長で穢れと戦っていただけなのだ。全ては春のため。それが織部真冬という、存在の全てである。
「俺は春の笑顔を守る。どこかで見ているかもしれない、春の」
真冬は俯いて語る。これが答えなのかは分からない。だが、もう止まれない。答えを掴み取るまでは。泣きたい時は泣けばいい。苦しい時はもがけばいい。
だが、春に貰った命を、ただ春のために使おうと思ったのである。これが答えなら、真冬はもう一度進める。歩んでいけるのである。人として、織部真冬として。
「それでいい」
ニヤリと藤堂は笑う。
その瞬間、ふと軽い衝撃が体を襲う。慌ててバランスを整えると。
「良かった……です」
雫の泣きそうな声が届く。その声があまりにも近くて、頬に彼女の吐息が触れた事に驚いた真冬は目を見開く。
「おっと。大胆だねぇ」
藤堂も彼女の行動に戸惑いながら苦笑いを浮かべていた。
雫は藤堂を、そして真冬を両手で抱きしめたのである。伝わってくるのは優しい温もり。春から感じる心を弾ませ、そして癒す温もりではない。どこか全身を優しく包み込んでくれるような慈愛に満ちた温もりだった。
「俺は進む。でも、その前にやる事がある」
真冬は二人へとどこか遠慮がちに言葉を掛ける。もうこの二人には一生、頭が上がる事はないだろう。少し悔しい気もするが、それも仕方がないような気がする。真冬はもう一度歩めるのだから。
「何をするんだ?」
問うたのは藤堂。雫も意図が分からないのか首を傾げている。
「春に送る物がある。揺らがない想いを証明する。ただ一つの物を」
真冬は微笑んで答える。
答えた真冬の頬は徐々に赤らんでいる事は、自分でも分かる。火傷しそうな熱さを感じるから。溢れる想いは一週間ぶりの至福の想い。春への溢れる想いだった。
「そいつは喜ぶかもな。止めねえよ」
「素敵です」
真冬の赤らんでいく頬を笑う事なく、彼らはお互いの顔を見合わせてから一つ頷く。
「行って下さい。あなたの道を示すために」
雫は真冬の傷を癒すと共に抱擁から解き放つ。自由を得た真冬は二人に微笑んでから一度頷いた。




