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第九話 後編

― 九 後編 ―


(この人は何者なの?)

 額に浮かぶ汗を拭いながら、心中で問うたのは春。

 彼女が疑問に思う人物はただ一人。春が形成した刀を扱い監視者と対峙する一刀斎である。

「援護、干渉は一切不要じゃ」

 言葉こそは柔らかく、それでいて春へと振り向いた表情は柔和だった。だが、春が肌で感じたのは背に氷でも貼り付けられたかのような寒気。

 寒気の正体が鋭利な殺気である事は確認するまでもないだろう。一刀斎はどんな手段を使ってでも、この場で監視者を倒すつもりなのだろう。そのためには未熟な援護は不要だと言いたいのだろう。

(でも……援護しない訳にはいかないよね)

 春は乾いた喉を潤すために生唾を飲み込む。そして一つ深呼吸すると、荒波のように騒がしかった心は徐々に落ち着きを取り戻し、身へと沁みていくのは自らの体に宿りし力。

「僕は――足でまといではないから!」

 叫び、確かな意志を宙に浮く式神に込めた春は鋭い視線を二人へと向ける。

 ――鳴り響くのは幾重にも渡る剣響。

 まるで意思を持っているかのように舞う白き花びらが、青銀の輝きを浴びて光輝く刀と重なった瞬間に響いた音だった。

 舞う花びらの数は数百を超え、しかもその一枚一枚が独自に動いているという事だけでも驚愕に値する。だが、それよりも春の瞳を見開かせたのは一刀斎の技量だった。

 人外の力を持っている護士ではあるが、彼の技量はその範疇を超えている。彼はまるで未来が見えているかのように花びら一枚一枚に反応し、両断しているのだ。

 神業。

 この光景を見て、脳裏にその言葉が浮かぶのはおそらく春だけではないだろう。完全に援護のタイミングを逃してしまった春は慎重に式神を一刀斎の周囲へと、細心の注意を払って配置する。この行動自体が彼の危機になってしまうのではないかという危惧があるからである。

 そう思うだけ二人の戦いは次元が違っていたのである。

 その証拠に。

「邪魔だ」

 鋭利な声が響くと、数瞬の間もなく式神は細断される。まるでシュレッダーに入れたかのように。すでに障壁を展開していたにも関わらず。

 援護も干渉も不要。そう述べた一刀斎の考えをようやく春は理解する。春程度の力では彼女には通用しないのである。悔しいとは思うが、これが春の、巫女の限界なのである。

 だが、まだ負けた訳ではない。巫女の絶対の刃は護士なのだから。

「老いたな。歴代最強の護士も、その程度か?」

 どこかつまらなそうな監視者の言葉。その声音には若干の落胆が混じっているような気がするのは間違いではないだろう。

「まだまだ現役じゃが?」

 対する一刀斎は先ほどと変わらないどこか柔らかい声音で返す。だが、彼に余裕がない事は遠目からでもはっきりと感じ取る事が出来る。戦いも、そして内なる心も。

「無理は良くないな。いいだろう、私が眠らせてやる」

 監視者はゆっくりと両手を胸の高さまで掲げる。

 刹那。無数の白き花が舞う。白を赤へと変えるために。

 ――防ぐ事が出来たのは数瞬のみ。

 春は全身を火傷したかのような熱を感じて、呻く。腕を、足を、頬を、体中の全てに痛みが走る。声を発する所か、咄嗟に閉じた瞳すら開く事が出来なかった。

 これが監視者。神の代わりに世界を管理する絶対者の力だとでもいうのだろうか。

(勝てない)

 春の心に絶望が舞い降りる。こんな力に勝てる訳はない。あの一刀斎ですら叶わなかったのだから。例え全員で畳み掛けても結果は同じなのだ。

 そう思った瞬間。

「諦めるな。お前の兄は――まだ諦めていないぞ」

 低く重い声が響く。

 声と共に巻き起こったのは、全てを吹き飛ばすかのような剣風。

 吹き飛ばされそうになる体を何とか留まらせた春が薄っすらと瞳を開けると。

(痛くない?)

 全身に走る痛みはすでになかった。訝しんで視線を監視者へと向けると。

 監視者を包み込んでいるのは白き花。まるで繭のように集まる白き花だった。そして、繭へと突き刺さり、式神同様に細断された物は金色に輝く大剣である。

「やはり通用せんか」

 背後で舌打ちをした者は、確認せずともエクソシストの彼だと分かる。春は一度も顔を合わせた事はないのだが。この段階でこの場に来る者など、夢に関わる者しかいないだろうから。

「今のうちに下がって!」

 春は全身の痛みを堪えて一刀斎へと叫ぶ。

 一刀斎は刀を支えに何とか立っていられる状態。すでに戦闘は不可能だろう。こうなれば真冬達の戦いが終わるまで耐え、逃げるしか他に道はないように思える。

 絶対者である彼女が、二度も逃がしてくれるとはとてもではないが考えられないのだが。

「ワシは下がらん。いや――」

 春の叫びを受け取った一刀斎は両足に力を込めて立ち上がる。その瞬間に春はとある可能性に思い至る。下がらないというのであれば彼がとるべき道は一つ。

 戦いにおいて勝てないならば退き、次の戦いに備えるのが常套手段。だが、時折戦いの中で信じられない行動に出る者もいる。春には一刀斎が後者ではないかと思うのである。

「ワシが決着をつける! 退く事など出来る訳はないのじゃ!」

 一刀斎は叫ぶと共に駆ける。全てを切り裂く花の繭に向けて。

「退く事は不可能。ならば倒すのみか」

 一刀斎に影響されたのか、エクソシストの彼が両手に大剣を形成して駆ける。

 突撃といえば聞こえはいい。だが、これはただの無駄死なのではなかろうか。

「――止めて」

 春は震える両肩を抱く。一人でも立ち向かう者が増えれば成功の確率が上昇するのかもしれない。

 しかし、これはあまりにも分が悪い。

 だが、春は一つの叫び声を耳にする事によって、立ち向かう事を決意する。

 響いた声は真冬と雫の声。

 導かれるように視線を向けた先には。無数の剣に串刺しにされた、愛する者の姿だった。最も見たくはない光景。そして、こんな光景をまた再び見なければいけないというのなら。

(僕は行かないと)

 春は震える心を、馬鹿な事をしていると嘲笑する自分を追い出して。

 地面を蹴った。



 雫の全身を包み込むものは青く輝く霧。夢で見た巫女殺しの霧だった。

(赤が体を作り、青が蝕むのですね)

 雫は監視者の扱う水晶色の氷刃を思い浮かべ、一つの仮説を立てる。フリージアを襲う寒気、そして雫を縛るように苦しめる青い霧。二つは共通のものか、または近しいものに思えるのである。

 効果が違うため断言は出来ないのだが。

「つぅ――!」

 思考を痛みが強制的に遮断する。

 真冬が受けた傷は全身を剣で貫かれるという重傷。護士であればまだ動く事は可能だが、生身である雫は膝を地へと付いたまま動く事が出来ない。癒しの術式を組んで傷口を塞ごうとしても、纏わりつく霧が邪魔をして効果は目に見えて低い。

 当然、真冬達に与えている力も微々たるもの。苦戦しているのは遠目でもはっきりと分かる。

(どうにかしないと――!)

 焦る心が、さらに力を乱していく。

 結果はさらなる危機。

「動けねぇ!」

 耳へと届いたのは藤堂の叫び声。慌てて視線を走らせると。

 藤堂の槍は明らかに遅く、鈍い。おそらく彼本来の力のみで動いているのだろう。

(届いて――ないのですか?)

 雫は慌てて内に眠る神力を外へと向けて解き放つ。すると違和感が全身を襲う。力を発動させた感覚がないのである。まるで力を失ったかのように。

 雫を襲ったのは深い絶望と、気が狂いそうな焦り。一秒でも早く力を伝えなくては彼らが戦う事は出来ないのだから。

「俺が止める! 離れろ!」

 藤堂を救ったのは袴を鮮血で染めた真冬。

 握った刀を投げ捨てた彼が取った行動は目を疑うような行動。穢れの右脇から左肩にかけてを、唯一動く右腕を回しての固定だった。生身の体では数秒しか耐えられないというのに。

 むしろ再度刃で貫かれれば死ぬかもしれないというのに。

 真冬の絶叫が響く。

 穢れの背から再び刃が飛び出したのだ。だが、真冬は腕を離さない。口から血を流しても、藤堂を、雫を見つめ続ける。彼の瞳はまだ諦めてはいなかった。

(負けられないのです!)

 雫は痛みを堪えながら必死で思考を走らせる。現状では藤堂に止めを刺してもらうしかない。ならば一度だけ彼へと力を伝えればいいのである。背後は真冬がしっかりと固めている。もうあの不気味な瞳に逃げ場はない。

 即座に側面に逃げようとも、彼なら正確に貫けるだろう。

 ただ一度。だが、その方法が思いつかない。

 すると――

『諦めるな。俺達がいるから』

 包むような優しい声が響く。それは前世の真冬の声。雫を、内に眠る魂を愛してくれる人の声だった。

『私が全力で霧を抑えます。一度だけです、いいですね?』

 これは前世の自分の声。ずっと耳にした自らの声に似た声だ。間違える訳がない。

 どうせ機会は一度だけ。ならば全てを彼の放つ一撃に賭けてみるのも悪くはないだろう。

「行きますよ!」

 雫の瞳に光が宿る。それと同時に身に纏う青い霧を吹き飛ばしたのは、溢れる輝き。前世の雫が解放した神力だった。

「貫いて!」

 雫は叫ぶ。全ての神力を藤堂へと届けるために。

「了解っ!」

 力を取り戻した藤堂は即座に地面を蹴る。正面か、右か、左か。失敗は許されない重圧にも彼は怯まなかった。

 藤堂が放ったのは穢れの左脇腹。その場に見開かれていたのは当然、真紅の瞳である。

 刹那。真冬を、藤堂を包んだのは鮮血に似た赤い霧。

「よかった。生き……る」

 霞む視界の中で雫が見つめたのは血まみれの真冬。苦しそうに表情を歪ませているが、彼はまだ生きていた。その事実に安心した雫の意識は一瞬で途絶えた。



 荒い息を吐きながら固い地面を駆け抜けるのは春。一刀斎の傷を引き受けた体は、まるで全身に岩を括りつけられたかのように重い。

(遠い)

 春は霞む視界で監視者を見つめて心中でつぶやく。距離にすれば残り十歩くらいだろうか。

 だが、圧倒的な威圧感を放ち、それでいて迫る物全てを切り裂く純白の花びらを舞い散らす監視者を視界に収めると体が竦んでしまい、遥か彼方に向かっているように思えてしまうのだ。

 正直な事を言えば恐くて仕方がない。叶うのなら逃げ出したい。だが、春は立ち向かわなければならない。監視者を倒さねば、いずれ春へと向けられた刃は真冬へと向けられるのだから。

 一人、また一人と倒れ、最後に残るのはおそらく真冬。もっとも多くの悲しみと、苦痛をその身に刻み込まれて倒れる運命。

(そんな事はさせない!)

 心中で叫んだ春は重い一歩を踏み出す。

 ――残りは五歩。

 睨むような視線を前方に向けると。

 舞い散るのは鮮血。そして身に感じるのは、まるで左腕が引き千切られるかのような痛みだった。おそらく神経はズタズタに引き裂かれ、すでに動く事はないだろう。今も動かぬ真冬の左腕のように。

 痛みの原因はもちろん力を与えた一刀斎だろう。彼は鋭い一閃の元に切り開いた僅かな隙間に体を捻じ込ませたのである。左腕半分を犠牲にしてまで。

 彼が視界に収めているのは監視者のみ。そうまでして想う理由は分からない。だが、春達はついに辿り着いたのだ。絶対者が立つ場所に。

「ようやく辿り着いたようじゃな。この場所に」

 言葉を発したのは一刀斎。その声音はどこまでも優しかった。まるで全てを包み込むかのように。

「目の前に来た程度で!」

 監視者は包み込むような優しさに抗うかのように叫ぶ。叫びは意志となり、彼女を包む繭が解き放たれる。一刀斎を取り囲んだのは無数の花びら。

 もうどこにも逃げ場はない。そして、全身を貫かれる痛みを引き受けたのであれば、おそらく春の命も尽きる事だろう。

 カイン、春、監視者。この場にいる者全てが注視する中で。

「約束を守ろう。ワシの命を掛けて」

 一刀斎が選んだ行動は、監視者をその身で抱きしめる事。愛しい人をただ抱きしめる事だった。

「――朽ち果てろ!」

 監視者は真紅の瞳を涙で濡らして。一斉に純白の花へと指示を飛ばす。目の前に立つ異物を消し去るために。それが自らの進むべき道だと示すかのように。

「――一緒に」

 それが一刀斎の最後の言葉。神力にて形成された刃は、注視する春の瞳を焼くかのように光輝く。

 堪えず瞳をきつく閉じた春は――

「――何をしたの?」

 咄嗟に答えを求めて問う。

 護士はその身に神力を宿さない。そして、特別な力を使えないと雫から聞いている。雫自身も全てを知っている訳ではないらしい。だとすれば例外もあるだろうとは思っていた。その一つが今目の前で起こっている事なのだろうか。

「自爆技か。その心意気――見事」

 薄っすらと春が瞳を開けると、前方に立ち尽くすのは大剣の柄を握り直したエクソシスト。

(自爆技? まさか――)

 言葉が脳を駆け巡り、意味が心へと沁みた瞬間。春の全身は震えていた。そして、込み上げてくるのは強烈な吐き気だった。今まで生きてきた中で目の前で人が死んだのだ。しかも自らの意志で。駆け巡る想いは、春の心を握りつぶすかのように締め付けていく。平静でいられる訳はなく、心が形を変えていく様を春ははっきりと感じる。もう春の心は壊れてしまった事だろう。

 もう甘ったるい現実で生きていく事は叶わないだろう。

「次はお前か」

 響いたのは感情を感じさせない監視者の言葉。身に纏った漆黒のローブはまるでボロ雑巾のように破れ、真っ白な肌は幾重にも切れて赤く染め上がっていた。

 その場に立っている者は彼女ただ一人。本来いるべきもう一人はすでに存在しない。まるでその場になかったかのように。

「その体では動けまい!」

 エクソシストは震える体を叱咤するかのように叫び、血に塗れた少女へと両手の大剣を振り下ろす。彼の死を無駄にしないために。そして、監視者を眠らせたいという彼の想いを叶えるために。

 鳴り響いたのは甲高い金属音。

 カインが、春が望んだ肉を切り裂く音は鳴らない。

「もう――止めて!」

 春は頭が理解する前に走っていた。手に握り締めるのは自らの神力で形成した薙刀。

(もう嫌だ)

 そう春は思った。もう誰かが倒れるのも、死んでしまうのも嫌なのだ。

 耳へと届いたのは短い苦渋の声。そして、エクソシストの彼が地へと転がる音。

「お前で終わりだ。織部春」

 涼やかな監視者の声。だが、彼女が浮かべる表情には、いつもの不敵な笑みはない。

(今なら――倒せる)

 確信した春は身に降りかかる恐怖を跳ね除けて駆ける。全てを終わらせるために。真冬がこの世界で生きていける事を願って。

 ――全ての想いを、意志を込めた投擲。

 地面に平行に突き進む薙刀が狙うのは監視者の心臓。人と同じ姿形をしているというのであれば弱点は同じ、そう判断しての一撃だった。

「……」

 監視者はすでに余裕がないのか、無言で右手を振り上げる。

 刹那。

 舞う白き花びらが薙刀を空中で切断し、その形を数ミリ単位へと変貌させる。ここまではおそらく誰しもが予測出来る範囲。

(結局、これしかないんだ)

 自嘲の笑みを浮かべて春は心中でつぶやく。あれだけ分が悪いだのなんだのと思っていたが、結局自分が選んだのも突撃だった。そして、成すべき事は自らの命を犠牲にした彼と同じ。

 だが、無残に倒される前に、この方法を知る事が出来た事は春にとっては幸福だったのかもしれない。

「まさか。お前もか!」

 どこか焦りの混じった監視者の声。まさか立て続けに自らの命を犠牲にする愚か者が現れるとは思ってもいなかったのだろう。

 だが、気づかれてしまった時点で実現の可能性は限りなくゼロに等しい。その証拠に一度舌打ちをした監視者は後方へと跳躍するために力を溜めているかのようにも見える。

(間に合わない!)

 春は今まさに遠ざかろうとする監視者を見つめて、駆ける。少しでも距離を詰めるために。

「織部春! 今だ!」

 突如、声を張り上げたのは監視者に敗れたエクソシスト。地へと伏していた彼は素早く手を差し伸べてして勝利の可能性を掴み取る。

「お前はそれでいいのか、織部春!」

 足を掴まれた監視者が叫ぶ。

 今の日常を、真冬との生活を捨ててもいいのかと彼女は言いたいのだろう。それは何があっても失いたくはないもの。

(僕の全て)

 春は熱くなる胸を、高まる鼓動を全身で感じ取る。失いたくなどはない。だが、それでも春は真冬が苦しむ様など見たくはないのだ。

 だがら話さなかった。だから巻き込まなかった。気づかずに終わらせるために。

「いいよ」

 答えた春は右腕で監視者を抱きしめる。そして、二人を包み込んだ物は宙へと浮いた式神。

 抱きしめた監視者から伝わってきたものは、疑問。

 なぜ、なのかと。なぜ失ってもいいのかと。純粋なる疑問だった。

「僕は真冬が大好きだから」

 だから春は答える。満面の笑顔を浮かべて。ただ兄がこの世界で生きていける事だけを願って。

(雫さん……後はお願い)

 春は瞳を閉じる。一拍を置いてエクソシストの彼が離れるのを待ち。

 刹那、溢れる神力が空間を埋め尽くした。



「勝ったのか……?」

 血を吐きながら問うたのは真冬。

 全身はもはやどこが痛いのかすら分からなかった。だが、雫が気絶している現状では耐えるしかないだろう。

 一つ溜息をついた真冬はこの場にいる仲間の無事を確認するために視線を走らせる。まだ監視者という強大な敵が残っているのだから油断は出来ないのである。

 その瞬間。

 閃光が空間全体を照らす。

 慌てて真冬は瞳をきつく閉じて――

「なんだ?」

 堪えきれずに問う。可能性があるのだとすれば春達が何かを行ったのだろう。

「おい。どうなった? 師匠は? 春ちゃんは?」

 薄っすらと瞳を開けた瞬間。届いたのは藤堂の問い。彼の言葉は戸惑っているようにも、恐怖しているようにも聞こえる。真冬の脳裏に最悪の光景が浮かぶ。

「春? 春がどうしたんだ!」

 視界が回復しない事に苛立ちを覚えながら真冬は瞳を凝らす。

 だが、そこには誰もいなかった。いや、エクソシストの彼が一人倒れているだけである。藤堂が言うように一刀斎も、そして春の姿もどこにもない。

「嘘だろ?」

 真冬は何も存在しない空間へと問う。

 その場に漂うのは神力の輝きと、そして鮮血のように赤い霧。

「春?」

 真冬は痛む体を無視して走る。血が流れようが構ってはいられなかった。だが、限界を超えた体が進めたのはたったの二歩。

 すぐにバランスを崩した真冬は固い地面へと体を打ち付けられる。伝わるのは寒気を感じそうな冷たさ。そして、心を埋めるのは絶望。

「春は?」

 脳裏に浮かぶのは真冬を至福で満たしてくれる笑顔。恥ずかしそうに赤らめる頬。柔らかい黒髪。そして、全身で感じた温もり。真冬にとっては必要不可欠な掛け替えのないもの。決して離したくはない、守りたいと願った愛しい人への想いだった。

「もう触れられないのか?」

 問うた瞬間。

 響き渡ったのはガラスが割れる音。それは真冬の心が壊れた音。もうその場にはいない監視者が待ち望んだ心が折れた瞬間の音だった。

 輝きを失った漆黒の空間に鳴り響いたのは止む事がない、悲しみの叫びだった。


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