第九話 前編
輪廻の鎖 改訂版
― 九 前編 ―
「監視者が動いた?」
凍てついた寒空に響いたのは真冬の裏返った声。
声が裏返ってしまった事は少々恥ずかしいが、今はそんな事を気にしていられる状況ではない。どうやら真冬が知り得ない所で状況が大きく変化しているというのだから。今は少しでも情報が欲しい所である。
現在、真冬が立ち尽くしている場所は冬月高校の屋上。他には真冬と同じくフェンスを背に緊張した面持ちで控える春と、そして二人の視線を受け止める雫は屋上へと続く扉に寄りかかり無表情で佇んでいる。
それ以外に人はいない。ホームルーム前だからなのか、それとも朝一番から降り続いている雪のおかげなのか。理由は分からない。だが、三人にとっては気にする事なく非日常の話が出来る事は都合が良かった。
「ええ。危うくフリージアさんの瞳を貫かれる所でした。あえて言っておくとすれば彼女と戦う事はあまりにも危険です。イメージ出来るかどうかは分かりませんが――天使を片手間で倒せるほどです」
雫は表情を変えずに答える。だが、彼女の発した声音は固く、それでいて鋭い。交戦した三人が如何に危険な目に合ったのかは容易に理解する事が出来るだろう。
そして最も決定的だった事は雫が発した後半の内容。
(天使を……片手間で?)
真冬の体が一度震える。寒さのせいではない事は瞬時に理解出来る。昨日は天使を召喚可能なエクソシストに驚いていたのだ。だが、驚愕に値する絶対的な存在でさえ片手間で倒せる。どうやらそんな神のような存在がこの世にはいるらしい。
(でも、彼女なら可能なのか)
夢にすら干渉出来る監視者。今思えば人外を超える絶対的な力を持っていても何ら不思議ではないのである。真冬達はやはり彼女の手の平の上で踊っている、とでも言うのだろうか。彼女が少し本気を出せば真冬達は片手間で消されてしまうのだから。全ては彼女の気分次第で。
監視者は何かしらの目的が合って行動している事は理解している。だが、真冬達も生きているのだ。理由も知らず、まるで駒のように扱われて、そして死ぬわけにはいかないのである。
――真冬が思考の海へと深く、深く沈んでいると。
「そんな相手にどうやって?」
一歩を踏み出すと共に春が次の問いを放つ。
春が発した問いは至極当然のものだった。絶対的な存在に対して、雫達はどのような手段を使って逃げたというのだろうか。敵は天使すら倒せる相手。様子を確認するために赴いた雫が一人加わった所で戦局が劇的に変化するとは思えないのである。
「一刀斎さんの介入のおかげです。何か訳ありのようですが――今は自分の事を気にしろと、軽く流されてしまいました」
問いへと肩をすくめる雫。そんな彼女は「これ以上聞いても何も答えられません」と言外に述べているかのようだった。常に無表情だが、彼女の表情は、そして視線はよく語り掛けてくる。それが一目で理解出来るのはやはり前世からの縁か、雫が分かるようにしているのか。それは真冬には分からなかった。
(それにしても一刀斎さんか……)
藤堂を導き、鍛えた老齢な男性。彼にも何か特別な理由があるとは思っていたが、どうやら監視者絡みのようである。どんな事情を抱えているのか、気にならないと言えば嘘になる。だが、一刀斎が述べたように、今目指すべき事は夢に見た穢れの撃破。
当然、皆が生還しての撃破である。
「現状では三人で戦うしかないのか?」
思考を監視者から、本日の戦いへと切り替えた真冬は必要事項を確認する。
真冬、雫、春。この三人はほぼ確定だろう。
後、力を貸してくれる可能性があるとすればエクソシストの二人、そして藤堂達である。誰が参加して、誰が参加しないのか。これらを確認しておかねば現場は混乱する事だろう。連携するにしても即興など素人集団には無理がある。
「いいえ。今回は藤堂さん、一刀斎さんにも力を貸してもらいます。目的は夢で見た穢れの撃破。そして――監視者の介入を全力で阻止します。次は見逃してはくれないでしょうから」
雫は扉から身を離し、ゆっくりと視線を向ける。彼女が見つめたのは監視者の描いたシナリオに抗った唯一の人物。春である。
「僕は彼女にとっては邪魔なんだよね。そして、シナリオに関係のない二人も当然」
「はい。おそらく全力で排除しようとすると思います」
俯いた春に、雫は容赦ない言葉を浴びせる。
まるで死刑宣告のような言葉。そんな脅すような事を言わなくてもいいのにと内心で思った瞬間。雫の瞳が真冬の瞳と重なる。漆黒の揺らぐ事のない瞳が。
(フォローはこちらでやれ……か?)
真冬は瞳を覗き込んで彼女が伝えたい事を予想する。正解かどうかは分からない。だが、彼女の意思に応えるために真冬は妹の小さな体を後ろから抱きしめる。慈しむように、優しく。そして壊れ物を扱うように丁寧に。
「真冬?」
「絶対に生き残るぞ」
頬を赤らめて問う妹に向けて、真冬は耳元で優しく語り掛ける。
春の心を埋め尽くす不安を消し去るために。恐怖へと立ち向かう心を保つために。真冬が戦う理由はただ一つ。胸に抱く、この温もりを守る事なのだから。
「当然だよ。もっと一緒に居たいからね」
春は真冬の想いに応えるかのように柔らかい声音で返してくれた。
(絶対に失ってたまるか、お前も同じ想いなんだろう?)
真冬は自身が守りたい温もりを強く抱きしめ、心の内に眠る彼へと問う。内に眠る彼を呼び出すために。
それと時を同じにして――
「全く……私がいるんですよ。本当に恥ずかしい」
雫が呆れたように呟く。
時折見せる刺々しさはすでになく、どこか優しい声音で。
だが、声音とは別に雫の表情はどこか物悲しい。原因は彼女の内に眠る魂だろう。雫の魂は、常に春に嫉妬をしているのだ。最初はまるで分からなかったが、ようやく理解出来た真冬である。
(なかなか難しいよな、人って)
会話する事も心へと触れる事も出来る雫すらまだ理解出来ていない。その内に眠る彼女を理解するとなればさらなる時間が掛かってしまうのは当然の事。分かってしまえば単純だが、その過程は長く、それでいて険しいものなのである。
あえて見せつけてしまって悪い気もするが、彼がいるから問題はないだろう。そう思っていると。
『君には俺がいる』
雫に語り掛けるように響いたのは真冬に似た声。前世の彼の声だった。
「何か言いましたか?」
雫は状況が分かっていないらしく小首を傾げる。声が似ているために真冬が声を掛けたのだと思ったのだろう。だが、内容が内容だけに疑っているのかもしれない。ただの空耳ではないのかと。
「耳を澄ませて。あるがままを信じて」
真冬はゆっくりと雫へと語り掛ける。雫は訝しんでいたが言われた通りに瞳を閉じて、周囲の音を聞き漏らさぬように集中していく。
すると。
『俺がいるから。だから落ち込まないで』
優しく語り掛けるような声音が再び響く。
今度ははっきりと音を、声を捉えたのか雫は目を見開く。そして、声を上げた相手を求めて忙しなく周囲を見渡していく。彼女が求める存在を求めて。
彼が溢れる光として存在するのは雫の背後。
「これが……前世の真冬?」
振り向く事でようやく出会えた雫は輝く光へとゆっくりと手を伸ばす。それは彼女の内に眠る魂が求める輝き。もう二度と触れる事は叶わないと思っていた光だった。
『今度こそ……守るから』
光は言葉を最後に雫の体へと溶け込んでいく。
数秒の間。
「彼も、彼女も力を貸してくれる。だから――負けません」
雫はゆっくりと瞳を閉じて呟く。そんな彼女の体からは光の粒子が止めどなく溢れ続ける。それは希望の光だった。運命すら変えてしまう程の溢れる希望だった。
*
「学校休んで……よかったの?」
どこか遠慮がちに問うたのは布団で眠るフリージア。その隣で、胡坐を組んで座るのは当然カインである。
「――」
問いを受け取ったカインは言葉では返さず、無言で一つ頷く。常に不敵に笑い、強気な姿勢を崩さない彼女がここまで弱っているのだ。放っておける訳はない。今は勉学よりも先に人としてするべき事がある、といえば分かりやすいだろうか。
「結構、頑固だからな」
天井を見つめるフリージアは自らに語り掛けるように呟く。
カインが基本的に無口であるので、彼女はよく一人で話す事が多い。第三者から見れば独り言を呟いているように見えるかもしれないが、カインは彼女が発した言葉を無視した事は一度もない。どんな話題でもとりあえずは聞いている。
その事実を知っているからこそフリージアは一人で話し続ける事が出来るのである。お互いに確かめ合った事はない。だが、長年相棒をしていれば分かるというものである。
「でも、今夜は行くんだよね? 私が一緒に行くと言ったら……怒る?」
視線を天井からカインに向けて、彼女は問う。どこか期待した瞳を向けて。
「当たり前だ」
溜息交じりにカインは即座に返す。
足でまといになるからではない。こんな状態で穢れと戦うなど自ら命を差し出すようなものである。それだけは決して許すつもりはないのだ。少しでも体調が回復した、というのであれば考えなくもない。だが、今は日常生活すら怪しい状態なのだから許す事など到底無理な話である。
彼女の意思はできる限り尊重はしたい。だが、それも時と場合によるだろう。
「そっか。なら、約束して」
どうやら今回に限っては、さすがの我がまま娘もカインの意見を聞いてくれるらしい。だが、約束とはなんだというのだろうか。確認するために彼女の瞳に視線を合わせると。
「約束」
彼女の言葉と共に、厚い布団から出たのはフリージアの白い腕。向けられた、いや、正確に言えば立てられたのは折れてしまいそうに細い彼女の小指だった。
(常月に伝わる約束の儀式か)
カインは薄っすらと微笑むと。太く厳つい小指を、彼女の小指に絡める。約束をするために。
「絶対に生きて帰って」
「当然だ」
言葉だけではなく絡めた小指に力を込める。フリージアの指から伝わるのは、まるで氷に触れているかのような冷たさ。もう二度と彼女は人の温かさを取り戻す事は不可能、だとでもいうのだろうか。
(そんな事はない)
カインは浮かんだ不安を必死で打ち消す。必ず救う方法はある。監視者を倒せば、この呪いが解けるというのであればカインは命を掛けてでも実行する事だろう。約束を守る事は出来ないかもしれない。
だが、失う訳にはいかない。前世と同じように自身が倒れ、そして彼女まで倒れる訳にはいかないのである。どうしても倒れなければいけない、というのであればカインだけで十分なのだ。
「カイン?」
約束を終えても、動かない状態のカインを訝しんだのか、フリージアが眉根を寄せる。これ以上いらぬ間を置くとしつこく問われそうなので慌てて口を開く。心配させないために。ゆっくりと休んでもらうために。
「何でもない。もう少し時間はある。今日くらいは側にいよう」
絡めた指を解放したカインは淡々と語る。胸にこみ上げてくる想いを知られたくはなかったから。
「元気になるまでいるくせに」
フリージアはどうやらこちらの事など何でも知っているらしい。ずっと一緒に戦ってきたのだから。当然ではあるのだが。
しかし、今はこの絆が誇らしく、それでいて心地良かった。
「そうだな」
観念したカインはゆっくりと瞳を閉じて、腕を組む。後は佇む山のように動かないつもりである。来るべき時が訪れるまでは。
もしかすれば若い男女が一緒にいれば手を握ったり、髪を撫でたりするのだろう。だが、カインからすればそれは有り得ない事だった。そんな自分はまるで想像出来ないのだから。
「お休み」
フリージアも期待はしていないのか、再び瞳を閉じて眠りにつく様子。
カインは一度薄っすらと瞳を開けて眠る彼女を見つめると。また再び瞳を閉じた。
*
耳へと届くのは学生の掛け声。そして、こちらまで微笑んでしまいそうになりそうな楽しげな笑い声。おそらくグランドで体育の授業でも行っているのだろう。
(ま、関係ないか)
藤堂は心中で呟くと、ゆっくりと教室を見渡す。
今は当然ではあるが授業中。教師が教科書を手に取って熱く教えを説き、生徒達は机に置かれたノートパソコンと睨めっこ。藤堂の机に置かれたノートパソコンは目まぐるしく画面が切り替わり、本日の学ぶべき事柄を表示していく。
昔ながらの黒板を使用しての授業もあれば、最先端を突き進む冬月高校らしくパソコンを利用しての授業もある。現在の授業は後者であり、手抜きが全くない瞬時に移り変わる画面は教師のやる気の高さを感じさせる。学生の中でも「面白い」、「これなら集中できる」と述べる者は多く密かに人気な授業である。藤堂自身も見ているだけで賢くなったと錯覚出来るこの授業は好きだった。
だが、現在は全く頭には入らない。どこか遠い景色でも見ているかのように感じてしまうのだ。だからこそ藤堂は視線を教室へと、クラスメイトへと向けたのである。
(今日死ぬのかな、俺)
藤堂が思い悩むのは自らの生死。監視者は部外者を、イレギュラーな存在を許さない。せっかく作ったシナリオを誰とも知らぬ輩に乱されるのは、誰しも内心穏やかではないだろう。全力で排除にかかるのは理解出来る話である。
だが、藤堂はまだ死にたくはない。そして、可能なら運命に抗う彼らを守ってあげたいのである。
(そうは思っても……今日が最後かもしれない)
どれだけ生きたいと願っても、死ぬ時など一瞬である。だからこそ藤堂はこの景色を瞳に焼き付けたいのだ。今、自らが存在する。この場所を。
まず視線を向けたのは、自身が友だと思っている織部真冬。
彼は表示される画面を必死で追いかけ、定期的にノートに何やらメモをしている。まさに模範的な学生がそこにいた。どうやら藤堂が述べた言葉を真に受けて、日常生活でも後れを取るつもりはないらしい。実際に彼は真面目な人物で、成績はクラスでも二位か三位らしい。藤堂にはまるで届かない領域である。
(どこか真面目で、ほっとけない奴。でも、もう大丈夫かな)
藤堂は友人の努力を瞳に焼き付けてから。一人ずつクラスメイトの顔を見ては考えを巡らせていく。ふと瞳が霞んでいる事に気づいた。
やはり藤堂はまだここに居たいらしい。今まではただ億劫でしかなかったというのに。この高校に足を向けるだけで気分が落ち込んでいたというのに。これが最後だと思うと、やはりどこか悲しい気持ちが溢れてくるのだ。この感情は卒業式で涙が止まらないのと同じなのかもしれない。
だが、卒業式と違っている事と言えば、二度と彼らと会えないという事である。どれだけ会う事を願っても。
(恥ずかしいっての)
授業中にいきなり泣き出すなど恥ずかしい事この上ない。慌てて制服の袖で涙を拭った藤堂は最後の一人へと視線を移す。
長い黒髪が目印で、どこか大人しい雰囲気を醸し出すクラスメイト。それらは表面だけで、実は芯が強くて冷静な頼れる存在である雨月雫へと。
彼女は左頬にかかりそうな長い髪を指で弄びながら授業を聞いていた。藤堂の席からは右に二列隣。じっと見つめているとおそらく気づくだろう。間にもう一人いるので、もしかすればそちらの方が気づくのかもしれないが。
「守れっかなぁ」
小さく独語する。
真冬が春を守るのであれば、藤堂は彼女を守りたいと思う。前世では真冬と恋人だった彼女を。その資格はないのかもしれない。恋心があるという訳でもない。だが、報われない彼女を放ってはおけないのである。
藤堂は自他共に認めるお節介である。それは長所でもあり、そして短所でもある。そのお節介がまさか自身の命を掛ける所まで発展するとは思ってもいなかったが、彼らの危機に黙っているなど藤堂には出来ない相談だった。
(っと。これ以上は変質者か)
あまりにも長く雫を見ていた事に気づいた藤堂は慌てて視線を教師へと移す。右頬へと突き刺さっているのは雫からの不審な視線。やはり実戦を経験した者は勘が鋭いらしい。さすがに何の意図で見つめていたのかは気づかれてはいないだろうが。
(さて、最後かもしれない学生生活をしっかりと満喫するかね)
心中でつぶやいた藤堂は目まぐるしく変化する画面へと再び視線を向けた。




