第一話 前編
― 一 前編 ―
「真冬! 寒いからって二度寝は駄目だよ」
定期的な振動と共に聞こえてくるのは幼さを感じさせる少女の声。
(もう朝か?)
真冬はうっすらと瞳を開ける。
予想通り自らを揺すっていたのは妹の春だった。真冬と同じ艶やかな黒髪をセミロングに伸ばし、一歳しか離れていないのだが、中学生くらいに見えてしまう童顔の少女である。
すでに準備を終えているのか高校指定の濃いグレーのブレザーに、濃淡グレーのチェックスカートを身に纏い、残りの仕事は兄の世話のみと言いたげな顔をしている。
(良かった。生きてた)
妹の姿を瞳に焼き付けた真冬は再び瞳を閉じかけていく。今ならばものの数秒で再び眠りにつけるような気がする。
「もう! 早く起きないと遅刻するよ」
起きない真冬を見て妹が頬を膨らませる。その姿はどこか子供っぽくて自然と頬が緩んでしまう。この可愛さを目の当たりにすれば、眠気などすぐにでも吹き飛んでしまうというものである。
「起きるか」
真冬はようやく自らを包んでいる布団を両手で押しのけて半身を起す。
次の瞬間。
起き上がるのを待っていたと言わんばかりに妹は真冬の腕を掴み全力で引っ張っていく。
「おっと」
「早く起きる!」
春は真冬がバランスを整える間もなく、寝起きで動きが鈍っているという事などお構いなしの様子である。
そんな姿に苦笑した真冬は――
「分かったよ」
つぶやくと共に二段ベッドの一段目から身を乗り出す。
床には防寒用のカーペットが敷かれているが電源がついていないのかさほど温かくはなかった。むしろ早朝の冷えた空気が容赦なく真冬の素足を冷やし、鈍った頭は徐々に覚醒していく。
「早く着替えてね。外で待ってるから」
ようやく目覚めた真冬に妹はうっすらと微笑み部屋の外へと向けてゆっくりと歩を進める。
春はとりあえず朝の役目を終えたと言わんばかりの様子ではあるが、真冬にもやるべき事が一つある。
そのやるべき事を成すために素早く左手を伸ばし、病人のように細い左腕を掴み引き寄せて――
「熱はないのか?」
妹へと問う。
春は幼い頃からよく熱を出し、学校を休む事が多い。体調不良が原因で休む事は構わないと真冬は思っている。問題なのは高熱であっても平静を装って学校に通ってしまう事である。真冬を心配させまいとしての行動なのだろうが、何も知らないという事の方が逆に真冬を不安にさせる。
そのためにしつこいと思われるかもしれないが毎朝、体調を確認しているのである。
「大丈夫だよ。前よりも丈夫になったんだから」
問われた妹はどこかぎこちない笑みを浮かべた。こういう反応を見せる時の春は信用ならない。
(どうして正直に言わないかな)
真冬は心の中でつぶやく。内心では少し怒っている。体調が悪いのであれば頼ってほしいのである。その頻度が明らかに多いのであっても真冬は気にしないのだから。
「確認するぞ」
掴んだ腕をさらに引いて春を引き寄せる。そして、春の細い右肩に自らの右手を置いて抱き寄せ、額を近づけていく。
触れた額が感じたのは確かな熱。微熱といった所だろうか。
「これくらい……何ともないんだよ。真冬は心配し過ぎだって」
春はどこか戸惑っている様子だった。熱のせいでほんのりと赤みを増した頬は、さらに赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。いや、毎日顔を見ている真冬には照れのせいで赤らんでいるのだとはっきりと分かってしまう。
理由は、いつもは額に手を添えるだけだが、今日は額同士を触れさせたためだろう。真冬の突然の奇行に照れ視線を彷徨わせている春。
そんな妹が愛しくて、それでいて心配な真冬は――
「俺はどれだけお前が大きくなっても心配するさ」
優しく語り掛けると共に柔らかい黒髪を撫でていく。
「ありがと」
春はうつむいて大人しく髪を撫でさせてくれた。叶うのであればずっと撫でていたいと思えるサラサラで心地いい髪。真冬の心には至福の想いが溢れていく。
だが。
それと共に感じるのは鋭い痛み。そして、寂しさだった。
至福の想いと、痛み。なぜそのような相反する想いが胸を掠めるのか。その理由を想像する事は容易である。
(妹なんだよな)
真冬は自らに言い聞かせるように心中でつぶやく。そして、痛みから逃れるかのように髪を撫でていた手を引っ込めていく。
「あ……」
その瞬間に春は名残惜しそうな上目遣いの瞳を向けてくる。
(春はどう思っているのかな?)
妹の瞳を受け止めた真冬は一つの疑問が脳裏に浮かぶ。その疑問は決して口にしてはいけない疑問。この疑問を春にぶつけてしまえば二人の関係は崩れてしまうだろうから。
「着替えるよ」
真冬は止まらない想いを抑えるために早口でつぶやき背を向ける。その背に突き刺さったのは寂しげな瞳。振り返らずとも春がどんな表情を浮かべているかははっきりと想像する事が出来る。
きっと泣きそうな顔をしているのだろう。
「うん」
春は一つ頷くと共にか弱い声を掛けるだけだった。
*
春が部屋から出た後。
真冬はすぐさま高校指定の学ランタイプの制服をハンガーから外していく。
(時間を掛け過ぎたな)
真冬は自嘲的な笑みを浮かべ、机の上に置いてある時計を見つめる。
現在の時刻は七時四十分。
二人が生活している学生寮から、冬月高校までは早足で歩いて約五分である。猶予はまだあるがゆっくりしていられる時間はないだろう。
真冬は遅刻をしても構わないが、春まで巻き添えにする訳にはいかないのである。言って聞くタイプではない春は真冬が何を言おうともその場を離れる事はないだろう。結果、春を遅刻させないためには急ぐしか他に道はないのである。
(これでいい。後は歩きながら)
Tシャツの上から制服を羽織り、肩に手提げバッグを引っかけて部屋を飛び出す。
「そう焦らなくても」
六畳部屋の中心にある丸テーブルに突っ伏していた春が顔を上げて苦笑いを浮かべる。真冬も自らの慌てぶりには若干、苦笑してしまう。
だが、冬月高校において遅刻をするという事は致命的なのである。一昔前のように教師に怒られるだけなら聞き流せばいいが、もっと物理的な損失があるのである。
「遅刻すると春のポイントまで下がるからな」
真冬は羽織った制服のボタンを閉じながらつぶやく。
「そんな事、真冬が気にしなくていいのに」
春は一度肩をすくめて立ち上がる。その手に持っているのは一つのカード。
春が持っているカードは冬月高校が生徒を管理するために用意した物である。出席の登録、寮のドアロック、物品の貸し出し等に使用する生活には欠かせない道具である。ポイントが減少すれば各施設の使用制限、反省文の提出、学費の割増、最悪は寮からの強制退去など様々な罰則が与えられ学生の死活問題に直結しているのだ。当然、真冬もカードを持っており、常にポイントを気にしながらの生活である。
「登録っと」
春がつぶやいてドア横にある真四角の認証機へとカードを通していく。
「織部春、七時四十二分に登録。問題なし」
認証機が機械音声を発して部屋のドアロックを解除する。
真冬もそれに倣い認証機へとカードを通す。同じような機械音声が流れるまでは先ほどと同じ。唯一違う所と言えば部屋の照明が自動的に消えた事くらいだろうか。
「こういう所は便利だよね」
春が認証機を優しく撫でる。
全てカードで制御されているために電気の消し忘れという事はなく、そして部屋の住民である二人が外に出れば鍵は自動的にロックされる。ついうっかり鍵を閉め忘れたなどという失敗をする事はないのである。
(管理されているのは不満なんだけどな)
春の言うとおり便利ではある。だが、その反面カードによって管理されている学生達。不満がないと言えば嘘にはなるが、同時に何もいかがわしい事をしていなければ恩恵を受ける事の方が多いのも事実ではある。そのため時折感じる不満を直接口に出す者はいないというのが現状である。
「授業開始まで残り十五分です。授業開始まで――」
機械音声がのんびりとした学生へと最後の押しをかけていく。
催促の音声を聞いた生徒達はどこか慌てた様子で無機質なコンクリートで出来た道を早足で歩む。それが当たり前の日常だと言わんばかりに。その集団と一定の距離を置いて二人は学生の一部として自然に溶け込んでいく。
「寒くないか?」
無事に集団に紛れる事に成功した真冬は安堵の息を吐いて隣にいる妹へと声を掛ける。
「大丈夫だよ。まだ雪月に入ったばかりなんだから」
声を掛けられた春は自らの万全さを示すかのようにクルリと一回転して微笑む。見た所寒くて震えているという事はなさそうである。むしろ元気が有り余っているという様子である。これで熱っぽいというのだから本当に不思議で仕方ない。
「もう雪月なんだよな。まだ対して寒くはないけれど」
春の言葉を聞いて空を見上げる真冬。左右に立ち並ぶ木々はすでに葉を落とし、枯れ果ててはいるが凍てついた寒さは感じない。これからが寒さの本番という事なのだろう。
真冬たちが住んでいる常月という島国は四季がはっきりと分かれている。現在は雪月と呼ばれる季節であり、文字通り雪が舞う季節である。
国名は常月、そして地域と高校の名前は冬月、最終的には季節にも月という漢字を使用するのは過去に月を神聖なものとして崇拝していたためだと聞いている。現在ではその事実は風化してしまい実際の理由はもはや誰も知らないというのが現状である。真冬自身も名前の由来など特に気にする事はないために頭の片隅に置いている程度である。
それよりも大切なのは妹の体調なのである。
「寒ければ言えよ」
真冬は妹の様子を確認しながらつぶやく。ここまでくるとさすがに過保護が過ぎるような気もするが心配だと思う心は止められなかった。その想いに理由を求める事はもはや意味を成さない。仮に毛嫌いされようとも真冬は妹が心配で堪らないのである。
「うん。寒いと思ったらすぐに真冬にくっつくよ。雪月は身を寄せても恥ずかしくないから好きかな」
頬を真っ赤に染めて見つめてくる春。
身を寄せ合っていても「寒いから」と言えば場を流せる季節。だが、恥ずかしくないかと問われれば真冬は恥ずかしい。それでも春の温もりを多く感じられるこの季節は真冬も好きだった。
「寒い時だけだぞ。恥ずかしいんだからな」
真冬は心の内は語らずに、おそらく一般的な兄が言う様な模範解答をつぶやく。一度、針で突かれたように心が痛む。春に隠し事をした後ろめたさだろうか。それかまた別の理由なのかもしれない。もやもやした心境を抱えながらも言葉を掛けた相手へと視線を向ける真冬。
「仕方ないな。でも、真冬は寒いのが苦手だから僕が温めてあげるからね」
春はこちらの心境を理解しているのかは分からないが、まだ諦めた様子はない。今すぐにでも腕を取って歩き出しそうな雰囲気すら感じてしまう。
そんな姿に一度苦笑した真冬は――
「俺が寒いから温めている、という事にしておくか」
春の思うようにさせてあげる事にした。拒む事など真冬には決して出来ないのだから。
「任せてよ」
つぶやいた春の笑顔はまるで花が咲いたように綺麗だった。叶うのであればずっと見ていたと思えるような温かく、それでいて優しい笑顔。
(俺はこの笑顔を守りたいんだ。両親の代わりに)
真冬は胸に浮かんだ想いを心の中で噛みしめる。それと共に何か春に言葉を返そうと思考を走らせていく。
「あ! そういえば昨日は夢を見たの?」
歩道を一分ほど歩いた所で春が思い出したように口を開く。春の質問は「昨日は何か夢を見たの?」というような話題を展開するための興味本位の質問ではない。
真冬はとある夢を頻繁に見るのである。見始めた頃は特に気にもしなかった夢ではあるのだが、その夢がまるで自らが体験をしたように生々しく、それでいてその夢に登場する人物があまりにも真冬自らに似ているために放置出来なくなってしまったのである。
そして、その夢には春に似た少女も登場する事から一度春に確認をしたのをきっかけに、今もこうして問われる事があるのである。
「ああ、見たよ。袴を着た俺が見た事もない化け物と戦う夢をね。特に今回の夢は冗談が過ぎる」
真冬は一度溜息をつく。
それと同時に震えた瞳を春へと向ける。迷いに満ちた真冬の瞳を受け取った春は真摯な瞳を返すと共に一つ頷く。話してほしいという事だろう。
春は自分に似た人物が化け物と戦うなどという突拍子もない話をいつも真剣に聞いてくれる。疑う所か、逆に一字一句聞き漏らさない様に常に真剣に。
だからこそ真冬は話し続ける事が出来た。どんな内容であっても。
「春に似た少女が化け物に殺されそうになる夢だった。それなのに俺に似た少年は無力で助けられなくて……」
真冬は震えながら語る。
実際に体験したのは真冬ではない。夢の中の少年である。だが、この胸に抱く喪失感は本物だった。春には言っていないがこの夢を見て飛び起きたのは午前二時くらいの話である。その後は喪失感に全身を震わせながら夜を過ごし、ようやく眠れたのが午前六時の事だった。
再び瞳を開けて春を見た時の安堵感、そして脱力感は言葉では言い表せないだろう。
「そう。大丈夫だよ……僕は生きてるから。それに死んだりなんかしないよ」
春が心を洗う様な温かな笑みを浮かべたのは一瞬だった。次にはどこか真剣な瞳を前方へと向ける。その視線を追った先にいたのは腰まで伸びた長い黒髪が目印の少女。
真冬と同じクラスの雨月雫だった。雨月神社の一人娘らしくどこか神聖で凛とした印象を受けるが、話してみれば刺々しさは微塵もなく草食動物のように大人しい少女である。
(彼女もまた夢の中の登場人物に似ている)
真冬はクラスメイトの背中を見つめる。彼女によく似た少女がなぜか夢の中に出てくるのである。真冬は雨月雫に何か特別な想いを抱いているのではないか。そう思う時もある。だが、今年に入って初めて顔を合わせた少女であり、そもそも会話した事も数回しかない。この胸の中に特別な感情があるとは到底思えなかった。
そして、真冬は彼女を知る前から夢の中で彼女に似た少女を見ている。その事実が真冬をさらなる恐怖へと叩き落とすのである。答えの分からない未知なる恐怖。ただの夢であればそれでもいい。だが、違うのであれば一体何を示しているのか知りたかった。
「真冬。現実を見て」
恐怖で震える真冬へと妹は手を伸ばす。温かな手が真冬の手を包み込む。
その瞬間に真冬は現実へと引き戻される。
「あれはただの夢なんだよな。あれが現実だったら体を張ってでも春を守る筈だ。あれは俺ではない。違うんだ」
真冬は頭を振って妹の手をしっかりと握り返す。
「僕のせいで真冬が死んだら嫌だよ」
「言っただろう。親の代わりにずっと春を守るって」
うつむく妹へと真冬は遠い日の約束を語る。
それは仕事で家に戻る事がなかった両親の死を知らされたある日の事。泣き続ける春に真冬がした約束だった。今でもなぜ両親が亡くなったのかは知らされていない。話す事が躊躇われるような事に手を染めていたのか、それとも原因不明の事故にでも巻き込まれたのか。
死因を知る事は叶わなかったが、今となっては側にいない両親などは真冬には関係がない。自らが春を守ればいいのだから。この命に掛けて。その決意が揺らぐ事などありはしないと思っている。何があろうとも。
「どこにいるのかも教えずに……挙句には勝手に死んだ両親なんかさっさと忘れろ。親が必要なら……俺が代わりにずっと春を守るから」
春が真冬を見つめてつぶやく。それは幼い日に真冬が春に掛けた言葉だった。一字一句間違ってはいないだろう。それだけ春にとってもこの約束は印象的だったのだろうか。仮にそうであるならば約束した真冬は救われたような気がする。自らの生き方は間違っていなかったのだと強く想う事が出来た瞬間だった。
「全部、覚えていなくても」
真冬はまるで火傷したかのような熱さを頬に感じる。そんな様子が可笑しいのか春は腹を抱えて笑い出す。
(こんな現実は奪わせない。あんな訳の分からない化け物なんかに)
真冬は楽しそうに笑う春を見つめて思う。
もしあの夢が現実に起こる事を予期したものであるならば奪わせる訳にはいかないのである。約束を守るために。そして、溢れる想いを貫くためにも。
「絶対に忘れないよ。だから、ずっと側にいてね」
笑い終えた春がもう一度手を握り返す。春の手から伝わったのは温かい気持ち。
「ああ。ずっとだ」
その気持ちに応えるように真冬は春の髪を優しく撫でた。