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第八話 後編

― 八 後編 ―


 固いコンクリートの道を危なげな足取りで駆けるフリージアは迷っていた。このままただ距離を稼ぐ事が正解なのか、立ち止まるべきなのか判断が出来ないのである。

 周囲に存在するのは、三メートルはあろう塀と、その塀に囲まれた廃工場のみ。他に目立ったものは見当たらず、当然助けを乞う事も出来ない状況。

 そんな中で監視者に追いつかれれば何をされるか分かったものではない。抗う手段を持ちえないフリージア達は出来る限り離れた方がいいのである。

 だが、そうする事が出来ない理由が一つあった。フリージアの体は以前とは違うのである。

(――寒い)

 身を襲うのは異常な寒気。普段であればこれだけ走れば雪月の季節、いや極寒の地であるフェレアスであっても汗ばむくらいに体が熱くなるはずである。だというのに身に感じるのは凍死してしまうのではないかと不安に思う程の寒気。

 原因として思い当たる事と言えば監視者が放った氷刃である。ただ傷つけるだけではなくて、仮に生き残ったとしても害があるという事なのだろう。まるで呪いのように。如何にもあの性悪な彼女が好みそうな武器だとフリージアは思えてならない。

(――苦しい)

 フリージアは荒い息を整えて重い一歩を進ませていく。進むか、止まるか。どちらを選べばいいのか分からない。だとすれば進む方がいいような気がするのだ。内心では止まった方がいいと助言する自分もいるのだが。

(苦しいよ……助けてよ、カイン)

 ほどなくすると視線が霞んでいる事に気づく。フリージアは死の恐怖で震えていた。今会いたいのは前世から結ばれる運命にある相手。そう決めた相手だった。

 霞んだ視界ではもう前は見えない。見えないのであれば見る必要はなく、フリージアは瞳をきつく閉じて走り続ける。すでにどこを走っているのか、自らが何をしているのかも判断出来なくなった、その瞬間。

 アサルトブーツが何か固い物を捉える。実戦用の特注品である軍用ブーツのおかげで触れた右足が痛む事はなかったが、瞳を閉じていたフリージアがバランスを取れる訳はなく。

 全身に焼けるような痛みが走る。コンクリートに散らばる小石が、砂がフリージアの体を容赦なく傷つけたのだろう。

「もう動けないや」

 フリージアはぽつりと独語する。

 もはや思考する事すら放棄して、思うままを口にする。傍目から見れば「ついに壊れたか」と思われるかもしれないが、もはや細かい事など構っている余裕などはなかった。

 ゆっくりと瞳を閉じて、全身で固いコンクリートの感触を感じ取ろうとする。

 普段であれば震え上がるように冷たいコンクリート。

 だが、今のフリージアはその冷たさすら感じる事は出来なかった。それだけ自身の体が冷え切っているのだろう。

 どれだけそうしていたのか。意識が徐々に遠のいていく中で。

 絶望の淵から呼び覚ましてくれたのは聞き慣れた声だった。待ち望んだ声だった。

「フリージア!」

 少し焦ったような、安心したような叫び声。倒れている事に驚き、そしてまだ息がある事に安堵したのだろう。抱き起してくれた事は包むような温もりを全身で感じてようやく分かった。

「カイン……ごめんね」

「謝るな。生きているならいい」

 一言謝ると、カインは逞しい両腕で即座にフリージアを抱きかかえて持ち上げてくれた。その瞬間に広がったのは安堵の気持ち。今までの恐怖も不安もすでになかった。

「足でまといになるけど……いい?」

 フリージアは溢れる想いを言葉へと変える。本来ではあれば使い物にならない自分など置いていったほうがいいのだ。だが、生きたい。彼と共に歩んでいきたいと思う気持ちの方が勝ってしまったのである。

「無論だ」

 カインは無表情で一度頷く。甘い雰囲気など微塵も感じさせないいつも通りの彼がそこにいた。

(そっか。これが恋か)

 フリージアは心中でつぶやいて瞳を閉じる。今、この瞬間に心に広がる想いが恋愛感情と言うものなのだろう。前世の想いとは違う。フリージア自身の想い。理屈も、理由などはなくて、ただ一緒にいたいと思える気持ち。それが俗に言う恋なのだろう。そうフリージアは勝手に自身を納得させる。

(一緒に居たいんだから仕方ないよね)

 自然と頬は緩み、夢心地の気分を味わいながら夜の道を、想いが芽生えた相手に全てを委ねて進んでいく。すると。

 全てを台無しにする声が響いた。

「逃げても無駄だ」

 それは冷徹な声。どうやら追いつかれてしまったらしい。ゆっくりと視線を向けると、あろう事か監視者はフリージア達が、今まさに進もうとする道を塞ぐように立ち尽くしていた。

 どうやら彼女から離れるという事は無意味なようである。今思えばどこにでも好きなように現れる監視者から逃げる事など不可能なのである。

「無事ですか!」

 遅れて聞こえたのは介入した巫女の声。次の瞬間に耳に入ったのは息を呑むような音。ようやく撒いたと思っていた相手が目の前にいるのだ、当然だろう。

「さて、覚悟してもらおうか。まあ、このまま放置しても……もう戦えないかもしれないがな」

 監視者は薄い笑みを浮かべる。

 確かに彼女の言うとおりである。この寒気と戦いながらの戦闘は絶望的だと言わざるを得ない。聖書を形成出来たとしても集中力を持続する事は不可能なのだから。

「この身が朽ちようとも――守ってみせる」

 カインは両腕で、まるで「安心しろ」とでも言うかのように想いを伝えてくる。その想いにフリージアはすがり信じて瞳をきつく閉じる。もう何が起きても恐くはなかった。

「さあ、絶望しろ。二度と私のシナリオに抗う気など起きぬくらいに……深い闇へと叩き落としてやる!」

 声が響いた瞬間。フリージアを抱く腕が震える。傷つくのはフリージアだというのに。カインはフリージアが傷つく事を、失う事を恐れてくれている。それがただ嬉しかった。

「それはちとやり過ぎではないかのう」

 迫り来る痛みに閉じた瞳を震わせていると。耳へと届いたのは聞いた事もない老人の声。

「あなたは!」

 巫女はどうやら彼を知っているらしく驚いた声を発する。音だけでは状況がまるで分からないフリージアが瞳を開けると。

 目の前に立ち尽くしていたのは袴を着た老齢な男性だった。どうやら彼が迫る氷刃を破壊してくれたのだろう。それもあろう事か神力で形成された武器ではなく、ただの刀で。

 あの監視者が放った氷刃をである。

「お前は……まさか!」

 さすがの監視者も目を見開き、余裕の表情を崩していた。その様子から察するに彼女でさえこの状況を予想出来てはいなかったらしい。

「――刀を。この場はワシに任せなさい」

 老齢な男性は刃こぼれした刀を投げ捨て、右手を開く。

 開かれた右手に握られたのは一振りの刀。巫女が形成した刃だった。

「私に刃を向けるのか? お前まで私の道を否定するのか? どれだけ私が……」

 監視者はどこか辛そうに表情を歪ませる。まるで戦う事を、いや刃すら向ける事を躊躇うような素振りを見せているのは気のせいだろうか。あの傲慢で神を気取った絶対者が。

「ああ。今は敵同士じゃ」

 老齢な男性はゆっくりと刀を監視者へと向ける。刀から放たれるのは確かな殺気。フリージアに向けられているものではないが、それでなくても全身を震わせる鋭く、それでいて冷えた殺気だった。

「お前が加わり……他に二人か」

 監視者が選んだのは、まさかの後退。

 異物を嫌い、今すぐにでも消去する事を選ぶかと思っていたフリージアには意外に思える行動だった。それはカインや救援に現れた巫女も同じようで訝しんだ視線を二人へと注いでいる。一体彼らの間に何があるというのだろうか。

「次の戦いにも介入する。ワシがこの手で……お前を眠らせよう。この身に眠る魂の代わりにな」

 老齢な男性な刀を降ろして静かに言葉を紡ぐ。発した言葉とは裏腹にこの老齢な男性もどこか監視者と戦いたくはないように思える。確かな証拠はないため、気のせいだと言われればそれまでなのだが。

「それはごめんだな。お前は……いや、貴様は私にとってはイレギュラー。次で消させてもらおう。それまでは生き長らえた人生を全うするがいい」

 言葉を最後に監視者の姿は光となって消えていく。

 残されたのはこの状況を知り得る一人と、戸惑う三人だけだった。



 戦いから遠い離れた場所で真冬は夢を見ていた。自身に、雨月雫へと振りかかる災厄の夢を。

「この夢には春はいない」

 真冬は漆黒の空間に一人立ち尽くしてぽつりとつぶやく。言葉は自身の耳へと入り、心へと伝わる。そっと胸へと手を当てると心が騒いでいる事はすぐに分かった。

 真冬達は春を守り切る事が出来た。だが、次も守れるかどうかは分からない。次の穢れの狙いは雫。一番に気にするべきは雫でなければいけないだろう。

 だが、それでも真冬は自身が守りたいと願う少女が気になって仕方がなかった。雫を意識するあまりに、その結果、春が倒れてしまったら意味がないのだから。

(望むのは皆での――生還)

 真冬は胸へと触れている拳を強く、強く握り締める。想いを心へと沁みこませるために。

 想いが心へと広がった事を感じた真冬は視線を前方へと向ける。

 これは前世の彼らの敗北の夢。抗う術を失い、ただもがき続ける夢。監視者が望むように。

(一方的だな)

 心中でつぶやいた通り視界に収めた光景は瞳を逸らしたくなるほどに一方的だった。

 一撃を受けた護士は巫女の微かな力だけを頼りに、青く輝く霧を纏いし剣に必死に抗い続ける。これ以上刃を受ける訳にはいかないのだから。剣をその身で受ける事、それはすなわち巫女へとさらなる負担を強いる事になるのだから。

 そして、巫女は身に纏う青き霧を身に宿る神力で押し返している様子。だが、その抵抗も虚しく見るからに疲弊している事は遠めだがはっきりと分かってしまた。

(どうすればいい?)

 真冬は穢れを睨み心中で問う。だが、答えは当然返ってこない。真冬達も同じように死の恐怖に怯えるしかないと言うのだろうか。それが運命だとでもいうのだろうか。

「違う」

 真冬は浮かんだ想いを打ち消すために言葉を発する。言葉は意志となり、もう一度真冬を前へと向かせる。真冬達は不可能だと思えた運命にも抗ったのだ。春にはそれが出来た。

 ならば真冬にも、そして雫にも可能なはずなのだ。

 爪が食い込むほどに拳を握りしめて、彼らを見つめる。ほんの少しでも彼らの心へと近づくために。

「その必要はない」

 夢へと、前世の記憶へと意識を再び向けようとした瞬間。

 聞き慣れた声と共に視界を閃光が埋める。届いた声は真冬の声、いや、正確に言えば真冬の声に似た声だった。確認せずとも前世の彼が話し掛けて来たのだろう。

 春から聞いた話では夢の最後に語り掛けてきたと言っていた。おそらくそれだろう。まだ夢は終わっていないが、今は彼と話が出来る事の方が大切だった。

「どうしてだ?」

「俺達はこれから……ただ逃げるだけ。エクソシストの力を借りてようやく倒せたというのだから我ながら恥ずかしいよ」

 問うと、前世の彼は自嘲の笑みを張りつかせて微笑む。負け続けた人生、失い続けた人生を送れば真冬もこうなってしまうのだろうか。仮に春を失った時を想像すれば頷ける話だった。

「必死だったんだろう? 卑下する必要はない」

「かもしれないね。でも、俺達は負けた……その事実は変わらない」

 必死に語り掛けても彼は俯くばかり。そんな彼は痛々しく同情の想いも膨らんでくる。だが、同時に感じたのは怒りだった。

(なぜ今も諦めているんだ!)

 真冬は鋭い瞳を彼へと向ける。確かな怒りを伝えるために。俺達は今も生きているのだと、抗っているのだと伝えるために。

 殺気すら込められていそうな瞳を真っ直ぐに受け止めた彼は、驚くと同時に困った表情を浮かべる。おそらくどうしていいのか分からないのだろう。

 そんな彼にさらなる怒りを感じた真冬は――

「力を貸してくれ」

 単刀直入に告げる。

 もう細かい事は述べる必要はないと思うから。彼は自分であり、自分は彼なのだ。言葉を交わせば理解し合える。心の奥底にある根は同じなのだから。

「俺に神力はない。知っているだろう?」

 彼は戸惑いつつ告げる。前世の春のように神力へと変わり、力を貸す事は出来ない事くらいは知っている。護士は巫女の刃でしかないのだから。

 だが、彼にはやってほしい事がある。それは彼にしか出来ない事だから。

「それは知っている。やってほしい事はただ一つ。雨月雫を……いや、彼女の内にある魂を支えてあげて欲しいんだ」

 真冬は一歩進み彼へと言葉を、願いを託す。彼女を支える事は真冬には出来ない。演技で心へと近寄ったとしてもおそらく彼女は応えてはくれない。むしろ逆効果となるのは火を見るより明らかである。彼女に必要なのは彼。真冬ではないのだ。

「俺が……彼女を」

 言葉を受け取った彼は一度瞳を閉じる。おそらくどうするべきか考えているのだろう。答えなどすでに出ているはずなのに。

 そんな彼へと真冬は――

「好きなんだろう、今も。俺が春を想うように」

 握った拳を開き自身の胸へと触れさせると同時に語り掛ける。

 この胸にあるのは春への、愛する人へと捧げる想いのみ。そして、彼の胸の内にある想いは雫の内に眠る彼女へと捧げる想いのみだろう。方向は違うが内にある想いは同じ。

 ならば言葉は通じる筈なのだ。

「そうだな。分かった……俺は俺の思うように。大切な人を守る。今度こそ」

 彼はその言葉を最後に光となって消え去る。去り際の彼はどこか救われたように微笑んでいた。

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