第八話 前編
輪廻の鎖 改訂版
― 八 前編 ―
(見えなくなっちゃうんだ)
もはや言葉すら発する気力のないフリージアは心中でつぶやく。
迫るのは槍のように鋭い氷の刃。あと数秒で自身の左目は光を失う事だろう。
片目の喪失。
日常生活では不便な思いをするだろうが支障はない。だが、戦いとなれば致命的だと言わざるを得ない。予想出来る不利な要素と言えば死角の増加、そして距離感の喪失だろう。今までのように正確に光の矢で狙い撃つ事はおそらく不可能。もしかすれば接近する相手から身を守る事すら満足に出来ない可能性もあるのでる。今後は確実にカインの足でまといとなる。彼の重荷となってしまうのだ。
監視者に対して「さっさと殺せばいいわ」と虚勢を張ったフリージアではあるが、まだ生きていたい。そして、叶うのならばカインと対等の立場で歩んでいきたいのだ。相棒として。カインがどう思っているのかフリージアは知らないが。
(もう無理か)
迫り来る、見惚れてしまうくらいに綺麗な刃を視界に収めてからフリージアはゆっくりと瞳を閉じる。来るべき痛みと、絶望へと備えて。
刃が瞳を貫く直前。
「させません!」
声が響く。それは聞き慣れない凛とした叫び声だった。
その瞬間、閃光が溢れる。容赦ない閃光にフリージアはさらにきつく瞳を閉じると。
「雨月雫……だと?」
カインの訝しんだ声が届く。声に導かれるように瞳を開けると、目の前に立っていたのは艶やかな黒髪を腰まで伸ばした巫女が立っていた。彼女が展開した障壁によって助かったというのだろうか。
「少し我慢して下さい」
雫と呼ばれた巫女は右手で障壁を展開し、左手をフリージアへと向ける。左手から溢れたのは神力の輝き。腹部を貫通し、自らを地へと標本のように縫い付けていた刃はまるで溶ける様に形を失っていく。彼女を縛る物は、まるでなかったかのように消失したのである。突然の来訪者によって。
(動ける?)
全身は焼けるように痛み、それでいて一歩踏み出そうとするだけで強烈な眩暈と吐き気を催すが動けるというのであればどんな状態でも構わない。
とるべき選択肢は一つ。この空間から一秒でも早く逃げ出す事である。負傷したフリージアが退かねば二人はいつまで経っても退けないのだから。自らを貫いた監視者に一発お見舞いしたいとも思うが、それは次回でいい。
「いつまでも防げると思うな!」
響き渡る怒声に一度身震いしたフリージアはすかさず背を向けて足を動かす。おそらく走れていない。一度、二度、バランスを崩しながらもフリージアはただ足を動かして光を目指す。
フリージアが、カインが戻るべき日常へと向かって。
(失ってたまるか!)
心中で気合を入れる。その気合を両足へと伝え、フリージアは走り続けた。
*
「絶対に――通さない!」
溢れる閃光の先に見える、真紅の瞳を睨みつけて雫は叫ぶ。銃弾さえ弾き返す絶対の防御力を誇る障壁に全ての神力を注ぎ込んで。凌げる自信がある訳ではない。
だが、引けない理由があるのならやり通すだけである。共に歩みたいと願う者のためにも。どれだけ恐くても、この身が引き裂かれる事があろうとも。
「調子に乗るなよ。巫女風情が!」
怒気を含んだ鋭利な叫び。
張り詰めた空気を、立ち向かう意志を揺する監視者の叫び声。彼女の怒りを受け取った純白の花は目にも止まらぬ速度で舞い、障壁を粉々に破砕していく。
だが、雫は退かない。再度、障壁を展開し挑み続ける。たった一度の好機を掴み取るために。
(諦めない)
心中でつぶやき一度息を吐く。
そして、肺へと再び空気を取り込むと共に――
「私は諦めない!」
雫は叫ぶ。絶対の恐怖で心を縛り付ける者へと抗うために。
鳴り響いたのはガラスが割れたかのような破砕音。自身を守る盾を失った雫は退かずに一歩を踏み込む。無数の花が体を切り裂いても、なお前へ。それが自らが進むべき道だと示すかのように。
「何っ――!」
まさか前進してくるとは思わなかったのか監視者が瞳を見開く。
その瞬間。駆け抜けたのは二本の針。雫が左手を用いて下投げに投擲した鋭利な針だった。
もちろん当てるつもりなどはない。
狙いは監視者に防御の態勢を取らせる事。もし監視者が捨て身で攻撃をしてくるような事があれば雫が助かる道はない。だが、絶対の自信と余裕がある相手が捨て身の攻撃などする訳はないのだ。
彼女は身を守る。
選択肢を一つへと絞った雫は全ての力を後方への跳躍のために足に溜める。そして、無限にも感じる数瞬を待ち続ける。
一度舌打ちの音が漏れる。監視者が選んだ行動は予想通りに防御。
意思を持ったかのように舞う白き花は監視者を守るように包み込む。舞う花は雫が投擲した針を数瞬の内に破砕せしめ、周囲へと霧散させていく。
今が絶対の好機。
「雨月雫、右に飛べ!」
雫が距離を取ろうとしたまさに瞬間に、低い男性の声が届く。カインが援護のために何かしらの行動を起こすのだろう。
(信じるしかありませんね、彼を)
雫は背を向くことなく右へと跳躍する。せっかくの好機を潰す事になる可能性も捨てきれない。だが、信頼しなければこの先進む事は出来ない。それを示すために、伝えるために雫は彼を信じたのだ。
(大剣?)
視界を掠めたのは金色の大剣。おそらく防御の態勢を維持させるための一撃なのだろう。巫女の障壁でさえ、まるで紙でも切るかのように切り刻んだ花に、あの程度の攻撃が通るとはとてもではないが思えない。
だが、数瞬でも時間を稼ぐには十分だった。
「退くぞ」
カインは自身が投擲した刃を見る事なく監視者に背を向け駆ける。彼が駆ける度に、体からは鮮血が舞う。それを気にもせず彼は走り続ける。二人で生き残るために。
「はい」
雫は一度頷くと共にその背を追った。
*
視界を埋めるのは、まるで天へと向けて突き進んでいるかのように伸びる無数の木々。その木々の間を縫うように駆け抜けるのは一刀斎である。
右に左へと木々を避けながらの前進。通常であれば進路を変えるだけで減速が必要であろう状況ではあるが一刀斎の足は止まる事はない。むしろさらに加速しているようにも見えるだろうか。まるで百メートル走を走る陸上選手さながらに、地へと落ちた折れた枝を、乾いた土を舞い散らせながら駆け抜けていく。
まさに超人の域に達している彼の動きには衰えという言葉がまるで当てはまらない。いや、むしろ若い真冬、藤堂よりも明らかに軽々しく、それでいて鋭いだろう。
(止めねばならん)
一刀斎が急ぐ理由はただ一つ。雫達を助けるという目的もあるが、それ以上に大きな理由が一つあるのだ。
それは彼女を止める事。彼女を運命の、いや監視者という鎖から解き放つためである。溯れば数百年も前の話になる。一刀斎自身にはまるで身に覚えがない話ではある。
(じゃが、ワシの魂には関係のある話)
幾重にも渡り転生を繰り返してきたと言っても、その当時から存在する魂は変わらない。
前世の彼は、自分であり。そして自分は彼なのだ。当時の罪は消える事はなく、そして今も彼女が苦しんでいるというのなら止めなければいけないのである。
彼女の痛み、苦しみは身に眠る魂が痛いくらいに教えてくれる。
彼女の望みは安らぎ。穢れも、人もすでにどうでもいいのだ。ただ調和を保ち、静かに一人で限られた空間で過ごせればそれでいい、そう願う彼女。本当は老いて死に、もう一度この世界で歩みたいと望みながらも。漆黒の空間で「寂しい」と何度も嘆きながらも、ずっと一人で存在し続けた彼女。
そんな彼女を一刀斎は放っておく事は出来なかった。真冬を、藤堂を助けたいというのは建前に過ぎない。自身の望みはただ彼女を眠らせる事だけ。
そして、叶うのであればお互いに転生し、この腕で抱きしめる事。それが身に眠る魂の願いなのだから。
「この手で止める。例え刺し違えてでも」
一刀斎は腰に差している鞘から、刀を抜き放つ。
その瞬間。
木々の枝によって遮られていた月明かりが一斉に一刀斎を照らす。開けた景色の先にあったものは目指すべき場所。今は使われなくなった廃工場が散在する寂しげな場所だった。




