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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と沈黙の迷子―』  作者: 長月有希


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第六話『因果』(前)

 大型連休を目前に控えた下町の路地裏には、色鮮やかな新緑の香りを孕んだ初夏の風が吹き抜け始めていた。


 つい先日まで人々の肩先を彩っていた薄手のカーディガンやスプリングコートはすっかり姿を消し、通りを行き交う人々の服装は軽やかなシャツやブラウスへと変わっている。軒先に並ぶ鉢植えの緑は太陽の光をいっぱいに浴びて青々と輝き、どこかの家の台所からは初鰹を炙る香ばしい匂いと、大根をおろす小気味よい音がほのかに聞こえてくる。季節は春のうららかな陽気から、確実に初夏の眩しい生命力へと力強い歩みを進めていた。


 そんな活気に満ちた下町の空気から一枚のガラス戸で隔てられた古物商『時洲堂(ときすどう)』の店内は、外の喧騒が嘘のように穏やかで、深く澄み切った時間が流れていた。


 店主の時洲(ときす)美波(みなみ)は、店の奥のカウンターに座り、古い銀製の懐中時計を専用のクロスで丁寧に磨き上げていた。


 天窓から差し込む初夏の強い陽射しが、彼女の透き通るような白い肌を真珠のように照らし出している。肩口で綺麗に切り揃えられた艶やかな黒髪は、風が吹き込むたびに柔らかく靡いた。常にかけている大きな黒縁の丸眼鏡の奥で、琥珀色の瞳はビー玉のように澄み切っており、どこかあどけなさを残した可憐な顔立ちは息を呑むほどに美しい。初夏らしい涼しげなネイビーの半袖ワンピースに身を包んだその清楚な佇まいは、古いモノたちに囲まれた薄暗い店内で、まるで一輪の白い百合の花が咲いているかのような華やかさを放っていた。


 ふと、美波は磨き終えた懐中時計を木箱に収めると、カウンターの端に無造作に置かれた筆立てに手を伸ばした。


 それは一見すると、薄汚れてくすんだ古い茶器だった。黒褐色の釉薬が不規則にかかったその茶器は縁がわずかに歪んでおり、素人目には見栄えのしない品に見える。事実、美波の祖父である時洲仙次郎《せんじろう》が遺した数多の骨董品の中でも、これは特に価値のわからない代物として店の隅で埃を被っていたのだ。底にヒビが入っており、お茶を注いでもすぐに漏れ出してしまうため、美波はそれに古い万年筆やルーペ、金属のハサミなどを無造作に突っ込んで筆立てとして愛用していた。


(今日もいいお天気)


 美波は茶器の中の万年筆を抜き取りながら、窓から空を見つめて小さく微笑んだ。


 ふと、入り口の飴色に変色した古いガラス戸が、驚くほど滑らかに、かつ密やかに開いた。先日、金物屋の幸一(こういち)が寸分違わぬ鉋掛けで見事に立て付けを直してくれたおかげで、開閉の際の不快な引っ掛かりは一切なくなっていた。


 吹き込んできた風に揺れる真鍮のベルの音を見上げると、そこには洗いざらしの作務衣を着た初老の男性が立っていた。近所で古書店を営んでいる常連客の笠原(かさはら)だった。


「笠原さん。おはようございます。今日は早いですね」


 美波が明るく声をかけると、笠原は白髪混じりの頭を掻きながら、店内の掛け軸のコーナーへと真っ直ぐ歩いてきた。


「ああ。美波ちゃん、今日も暇そうだな。先日入ったと言っていた江戸後期の掛け軸、まだ売れ残っているか。少し見せてもらいに来たんだ」

「はい、ありますよ。でも笠原さん、この前も同じことを言って一時間も眺めただけで帰ったではないですか。奥様に無駄遣いをするなと怒られているのでしょう」

「うるさいな。骨董というのは、買うまでの時間こそが一番楽しいんだ。それに俺は冷やかしじゃない。真剣な眼力修行だ」


 笠原が憎まれ口を叩きながら掛け軸を覗き込んでいると、再び入り口のガラス戸が開いた。


 今度は先ほどのような開き方ではなかった。あまりにも滑らかに動くガラス戸の勢いを制御できず、けたたましい音を立てて戸袋に激突したのだ。


「いやあ、素晴らしい。外観のレトロな雰囲気も最高だけど、店内のこのアンティークな空気感、画角に見事に合致しますよ。ここが時洲堂さんで間違いないですね」


 遠慮なく店内に踏み込んできたのは、派手なピンク色のシャツに白いジャケットを羽織り、色付きのサングラスを頭に乗せた三十代半ばの男だった。右手には高級そうな革のセカンドバッグを提げている。

 そのあからさまに場違いで騒々しい風体に、笠原は嫌そうに顔をしかめた。美波も驚いて目を丸くし、カウンターの前に進み出た。


「いらっしゃいませ。あの、どのようなご用件でしょうか」


 美波が丁寧に尋ねると、男は美波の顔を見た途端、大げさに両手を叩いて感嘆の声を上げた。


「これはすごい。事前のリサーチ写真で見るより、実物の方がずっと美しいではないですか。最高のビジュアルだ。申し遅れました。私、日東テレビでバラエティ番組のプロデューサーをしております、恩田(おんだ)と申します」


 恩田と名乗った男は、美波の前に大げさな身振りで名刺を差し出した。テレビ局のプロデューサー。全く縁のない肩書きに、美波は戸惑いながらも名刺を受け取る。


「テレビ局の方が、うちの店に何か」

「単刀直入に言いましょう。時洲さん。今度うちの日東テレビでゴールデンタイムに放送する特番、開運お宝鑑定ミステリーに、凄腕の若手美人鑑定士としてご出演いただきたいのです。若くて美しい古物商がいるという噂を聞きつけましてね。これぞ視聴率の取れる目玉企画ですよ。密着取材も兼ねて、スタジオで鑑定を披露していただきたい」


 恩田は自信満々な笑みを浮かべ、捲し立てるように言葉を重ねた。しかし美波は困惑したように眉を下げ、名刺をそっとカウンターに置いた。


「せっかくのお話ですが、お断りします。私はテレビに出るような大層な鑑定士ではありませんし、このお店の日常を壊したくありませんから」

「おいおい、テレビ局の人間。店主が嫌がっているじゃないか」


 美波が断りを入れた直後、横から笠原が口を挟んだ。


「ここはな、歴史と向き合う場所だ。テレビの安っぽい見世物にするような店じゃない。用が済んだなら帰ってくれ」


 笠原のチクリと刺すような皮肉に、恩田はわずかに顔を引き攣らせた。しかし業界の荒波に揉まれてきたプロデューサーの執念は、町のお爺さんの小言程度で引き下がるものではなかった。恩田は咳払いをして立ち直ると、最後の切り札を出すようにセカンドバッグから一枚の企画書を取り出した。


「お待ちください。出演料なら弾みます。それに、この番組のメインコメンテーターを務めるのは、あの鑑定界の重鎮ですよ。時洲さんも同業者なら、一度はスタジオでお会いしてみたいはずだ」

「誰がいらっしゃろうと同じです。お帰りください」

「神谷(かみや)宗珠(そうじゅ)先生です。あの神の眼を持つと呼ばれる、神谷先生ですよ」


 その名前が発せられた途端、時洲堂の空気が、凍りついたように止まった。

 美波の大きな琥珀色の瞳が見開かれ、呼吸を忘れたように立ち尽くしている。


 神谷宗珠。日本の古美術界、鑑定界において、その名を知らぬ者はいない。絶対的な審美眼と膨大な知識を持ち、国宝級の文化財の鑑定を次々と歴任してきた生きる伝説だ。美波にとって、祖父の遺した書物の中でしか触れることのできなかった、文字通り雲の上の存在。神に等しい憧れの巨匠だった。


「か、神谷先生。神谷宗珠先生が、その番組にいらっしゃるのですか」


 美波の声が上ずり、手元が微かに震えていた。恩田は口角を上げ、見事に釣れた大物を逃さぬよう一気に畳み掛けた。


「ええ、もちろんです。神谷先生はこの特番のメインですからね。時洲さんには、スタジオで神谷先生の隣の席に座っていただきます。ご一緒にお宝を鑑定し、直接言葉を交わすことができるんですよ」

「神谷先生と、隣の席で」


 美波の脳内で、先ほどまでの固い決意が音を立てて崩れ去っていくのがわかった。冷静な店主の顔はどこへやら、彼女の瞳には今、憧れの人に会えるという期待に胸を膨らませる純粋な少女のような光が宿っていた。


「出ます。出させてください」


 美波は身を乗り出し、カウンターに両手をついて即答した。


「おいおい、美波ちゃん。本気か」


 笠原が信じられないという顔で目を丸くしたが、美波はすでに周りの声など耳に入っていなかった。


「出演料など一円もいりません。神谷先生にお会いできるだけで、私にとっては人生最大の報酬ですから。よろしくお願いします。何でもします」

「素晴らしい。それでこそ若手のホープだ。話が早くて助かりますよ。ではスケジュールは後日調整するとして、まずは今週末にでも、神谷先生をお連れして簡単な下見と顔合わせに伺いますね。よろしく頼みますよ、時洲先生」


 恩田は満足げに手を打ち鳴らし、大げさに一礼すると足早に店を去っていった。

 嵐が去った後の店内で、笠原は深く長息を吐いた。


「テレビの連中の口車に乗せられて、どうなっても知らないぞ」


 笠原の呆れ混じりの忠告など、今の美波には全く聞こえていなかった。彼女は両手で熱くなった頬を押さえ、カウンターの奥で一人舞い上がっていた。


 ***


 数日後の、よく晴れた午後。


 時洲堂の店内は、かつてないほどの異様な緊張感に包まれていた。笠原のような常連客の姿はなく、店は貸切状態となっている。

 美波は朝から店内の埃を隅々まで払い、飾り棚のガラスを磨き上げ、自身も少しだけ背伸びをした落ち着いたベージュの衣服に身を包んで待機していた。


 予定の時刻。入り口のガラス戸が開き、恩田に先導される形で一人の初老の男性が店内に足を踏み入れた。店内は、たちまち重苦しい威圧感に支配された。


 男性は上質な大島紬《おおしまつむぎ》の和装を隙なく着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。白髪を綺麗に撫で付けた頭部、深く刻まれた眉間の皺、そして何より、鷹のように鋭くすべてを見透かすような冷徹な眼光。鑑定界の重鎮、神谷宗珠その人だった。


「神谷先生。本日は遠いところ、わざわざ足をお運びいただきありがとうございます。店主の時洲美波と申します。先生の御著書はすべて拝読しております。お会いできて光栄です」


 美波は緊張で声を震わせながら、深くお辞儀をした。しかし神谷は美波の挨拶に答えることもなく、厳しい目で店内をぐるりと一瞥しただけだった。


「恩田君。君は私に、こんな埃っぽいガラクタ屋の小娘の顔合わせに付き合えと言ったのかね」


 神谷の声は低く、地を這うような威厳と圧倒的な誇りに満ちていた。恩田は右脇にセカンドバッグを抱え込んだまま慌ててすり寄り、揉み手で愛想笑いを浮かべる。


「そうおっしゃらずに先生。彼女は今、ネットでも話題の若手美人鑑定士なんですよ。番組の絵面としても、先生の隣に華やかな若い女性がいた方が視聴者の受けが絶対に良いんです。台本通りにこなしてくれれば問題ありませんから」

「くだらん」


 神谷は吐き捨てるように言い放った。


「テレビ局が数字欲しさに作る粗製濫造のアイドル鑑定士など、私の隣に座る資格はない。モノの真髄も知らぬ素人が知ったような口を利くのは、歴史に対する冒涜だ。私はこの話を降りさせてもらう」


 圧倒的な拒絶。その冷酷な言葉に、美波は顔からすっと血の気が引くのを感じた。憧れの巨匠からの明確な否定は、彼女の心に鋭い刃のように突き刺さった。恩田は顔面蒼白になり、先生それだけはご勘弁をと必死に縋り付いている。


 神谷は恩田を無視し、踵を返そうとした。


 しかしその矢先のことである。神谷の視線が、ふとカウンターの隅に置かれたあるモノに吸い寄せられ、ぴたりと動きを止めた。それは、美波がハサミやルーペを突っ込んでペン立てとして使っている、あの薄汚れた不格好な古い茶器だった。


 表面の黒褐色の釉薬。縁のわずかな歪み。高台の土の焼け具合。神谷の鋭い眼光がそれらをなぞった直後、彼の顔色に明らかな驚愕と、そして激しい憤怒の色が走ったのを、美波は見逃さなかった。

 何か信じられないもの、あるいは見てはならない代物でも目撃したかのような眼差し。そして、その視線は茶器の中に無造作に放り込まれている金属製のハサミの先端に注がれていた。


 神谷はゆっくりと美波の前に向き直った。


「時洲君と言ったな。君は、自分の店に置いているモノの価値を、すべて正しく理解しているつもりかね」


 神谷の突然の問いかけに、美波は戸惑いながらも頷いた。


「はい。まだまだ勉強中ですが、この店にあるモノはすべて大切にしています」

「大切にしている、か。脆く柔らかい低火度焼成の器の肌に、あろうことか金属のハサミを無造作に投げ込み、素地を物理的に削りながら、よくもそんな口が叩けたものだ。笑わせるな」


 神谷は冷酷に鼻で笑い、恩田に向き直った。


「恩田君。君は先ほど、進行台本と企画書を持ってきたと言っていたな。それを見せたまえ。この小娘が私の隣に座るに値するかどうか、私が直接試してやろう」

「試す、ですか。もちろんです。先生がそうおっしゃるなら。ええと、企画書は」


 恩田は安堵の表情を浮かべ、抱えていたセカンドバッグのファスナーを開けた。

 だが、恩田の表情が強張った。彼はバッグの中を何度も掻き回し、中身をカウンターの上に出し始めた。財布、スマートフォン、名刺入れ、手帳。だが一番重要な分厚い企画書が挟まれたクリアファイルが、どこにもなかったのだ。


「おかしいな。さっき店に入る前まで、絶対に持っていたのに。ない。どこにもないぞ」


 恩田は顔面から汗を吹き出し、混乱して店内を見回し始めた。つい数分前まで確実に存在していたはずの書類が、この狭い時洲堂の中で、煙のように消え失せてしまったのだ。


「おやおや。プロデューサー自ら、大切な企画書を紛失するとは。ずさんにも程があるな」


 神谷が冷ややかに言い放った。その口元には、決定的な冷酷な笑みが浮かんでいた。


「企画書すらないずさんな番組には出られない。この話は白紙だ。帰るぞ」


 神谷は言い捨て、再び入り口に向かって歩き出した。


「お待ちください先生。探します、すぐに探しますから」


 恩田が泣き叫ぶようにすがりつく。神谷は足を止め、振り返らずに告げた。


「もっとも。そこの鑑定士の娘が、私が店を出るまでにその企画書を見つけ出せたなら、番組出演を考えてやってもいいがね。自分の店にある古いモノたちの理を正しく見抜ける、本物の眼を持っていればの話だがな」


 それは、圧倒的な権威を持つ巨匠からの過酷な挑戦状だった。


 恩田は絶望したように膝から崩れ落ちた。こんな狭い店の中とはいえ、神谷が歩き去るまでのわずかな時間で見つけ出すなど不可能だ。


 時洲堂の空気を切り裂くように、美波の澱みない声が響いた。


「わかりました。その挑戦、お受けします」


 神谷が振り返る。そこには、先ほどまでの怯えた小娘の姿はなかった。

 美波は、大きな黒縁の丸眼鏡のブリッジを指先で静かに押し上げる。


「神谷先生。あなたが隠した企画書は、すでに私の頭の中で見つかっています」


 初夏の陽射しが差し込む古物商の店内で。若き古物商と巨匠の、息を呑むような熱い戦いが、今まさに幕を開けようとしていた。

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