候補名簿に載らない侯爵令嬢ですが、三度目の茶会で悪評の伯爵子息から唯一の相手に選ばれました
胸の真ん中が、銀の匙の柄で押されたように痛んだ。
「三度です」
アグロン様は紅茶にも手をつけず、きっぱりおっしゃった。
「三度の茶会でご縁をいただけなければ、領地へ戻ります」
「三度で決まらなければ帰る、なんて。せめて四度にしてくださらないかしら。いえ、候補は三度で見つけますけれど」
何を言っているの、私。
四度へ増やしたいのか三度で決めたいのか、紅茶に角砂糖を入れたあと蜂蜜まで注ぐくらい方針がぶれている。
アグロン様の口元がほんの少し緩んだ。
「ヴィオラナ嬢に四度も骨を折らせるわけにはいきません」
「骨など折りませんわ。招待状を書いて、お席を考えて、お菓子を選ぶだけですもの」
「それを骨折りと言うのです」
伯爵家にまつわる悪評のせいで、アグロン様へ届く招待状は減り続けていた。ご本人は噂の中にいる人物とは思えないほど律儀で、お茶を勧めれば礼を言い、椅子を引けば先に女性を座らせ、焼き菓子を最後の一つまで独占するような非道にも手を染めない。
あれは私がいただく予定だったので、もし奪われていたら縁談どころではなかったけれど。
「冬までに決まらなければ、王都に残る理由がありません」
また痛んだ。
これは焦りだ。善良な方を社交界へ戻せない主催者の焦り。決して、次の社交季にアグロン様がいないことを想像したせいではない。
絶対に違う。たぶん。おそらく。
「承知しました。三度で、必ず」
そう請け負った私の背後で、お母様——テウタ侯爵夫人が扇を閉じた。
「では、ヴィオラナ。名簿を作りましょう」
候補名簿は、主催家の未婚女性を載せない慣例になっている。
私は最上段を空けたまま、その下へ招待する令嬢たちの名を書き始めた。家格、年齢、好み、会話の相性。アグロン様の誠実さをきちんと見てくださる方。噂を鵜呑みにせず、ご自分の目で判断なさる方。
条件を重ねるほど、なぜか書きにくくなる。おかしい。王都には令嬢が星の数ほどいるはずなのに。
「こちらは預かっておくわね」
お母様が席札の束から私の名だけを抜き、手元へ置いた。
「わたくしは候補ではありませんもの。当然ですわ」
「そうね。当然ね」
お母様は柔らかく断定した。
なぜ二度おっしゃったのかは、考えないことにした。
* * *
一度目の茶会には、ブレリナ様をお招きした。
朗らかで率直、噂より目の前の人を信じる方。アグロン様の右隣へ置くには申し分ない。
「わたくし、遠回しな物言いが苦手なのです」
着席してすぐ、ブレリナ様は笑った。
「ですから伺います。アグロン様は甘いものがお好き?」
「嫌いではありません」
アグロン様は礼儀正しく答え、それから向かいに座る私を見た。
私は小さくうなずいた。よろしい、その調子です。焼き菓子の皿もお二人の間、ジャムも右手側。完璧な布陣!
「ヴィオラナ様は、木苺の焼き菓子がお好きですものね」
「ええ。ですから本日は——」
「アグロン様へ伺いましたのよ?」
「あら」
いけない。主催者が候補の返事を奪ってどうするの。
「私は林檎のほうが好みです。ただ、ヴィオラナ嬢が木苺を選ぶなら、その理由を聞いてみたい」
「酸味が紅茶に合うからですわ」
「なるほど」
アグロン様はブレリナ様へ答えるときより長く笑った。
今、私を見て笑われた。つまりブレリナ様との会話は順調。席次、大成功である。
その後もアグロン様は礼を欠かなかった。ブレリナ様が領地の果樹園について尋ねれば丁寧に説明し、音楽について話せば耳を傾ける。ただ、返答の終わりに必ずこちらを見る。
私が場を取り持っているからだろう。私の頬が緩んでいれば、会話が滞っていないと確認できる。主催者の顔は便利な進行表なのだ。
自分で思いついて、なるほどと納得した。私は人の相性を見る目がある。
茶会のあと、ブレリナ様は庭へ続く扉の前で私の腕を取った。
「今回は辞退いたします」
「まあ。何か不行き届きが?」
「いいえ。アグロン様はすてきな方です。お話も楽しかったわ」
「でしたら、もう一度——」
「私のお話をしているのに、あの方はあなたの顔で答えを確かめるのね」
「わたくしが主催者だからですわ」
「そういうことにしておきましょうか」
朗らかな笑いには、たまに扉がついている。今のは閉められた。鍵まで掛けられた気がする。
「でも、ヴィオラナ様とはまたお茶をいただきたいわ。次はアグロン様抜きで」
「ええ、ぜひ」
候補を傷つけず、新しい親交を結べた。これは失敗ではない。アグロン様のお相手が決まらなかった点を除けば、大成功だ。
かなり大きな一点だけれど。
私は待っていたアグロン様へ笑顔を向けた。
「では、次のお席を整えますね」
アグロン様は少しだけ目を伏せた。
「お願いします」
* * *
二度目は、私の席を遠ざけた。
一度目に私が会話を支えすぎたせいだ。アグロン様は私の顔を進行表代わりにしてしまい、ご自分で相手との間合いをつかめなかったに違いない。
だから二度目の私は、長卓の斜め向こう。話へ割って入るには声を張らねばならず、侯爵令嬢としての品位と引き換えになる距離である。
これなら大丈夫。
大丈夫であってほしい。遠い。私が決めたのだけれど、とても遠い。
招待状の順も変えた。茶葉は癖のないものにし、花は香りの弱いものを選び、お二人の間には砂糖壺しか置かなかった。砂糖壺に会話を妨げる能力はないはずだ。
ところが、アグロン様の視線は長卓を横断してきた。
「領地には広い湖がございます。ヴィオラナ嬢は、水辺がお好きでしたね」
「今のお話は、わたくしではなく——」
候補の令嬢が、くすりと笑う。
「ええ、わたくしが湖について伺ったのですけれど、ヴィオラナ様のお好みまで教えていただけて光栄ですわ」
「失礼しました」
アグロン様は詫び、今度こそ彼女へ向き直った。
よし。修正が早い。誠実。
「王都にはいつまでいらっしゃるご予定ですの?」
「冬の前までです」
そこで、また私を見る。
「ヴィオラナ嬢は、冬も王都に?」
「例年どおりですわ」
「そうですか」
なぜ候補の令嬢ではなく、私の滞在予定が必要なのかしら。
きっと次の茶会の日程を気遣ってくださったのだ。さすがアグロン様。二度目の最中から三度目への配慮までなさるなんて、段取りの鬼。主催者として見習いたい。
「領地へ戻ったら、王都へはいらっしゃらないの?」
「用がなければ」
「では、ご友人へ会いに戻ることは?」
候補の令嬢の問いに、アグロン様は少し考えた。
「会いたいと言ってくださるなら」
また、こちら。
私は微笑んでおいた。会話進行、順調。たぶん。
二度目の茶会も、縁談には結びつかなかった。けれど候補の令嬢は、アグロン様の話から領地の産物に興味を持ち、ご自分の親族へ紹介したいと申し出てくださった。
人の縁は結べたのである。男女の縁だけが、どうにも結べない。
私は招待状の控えを抱え、アグロン様へ頭を下げた。
「わたくしが場を支えすぎたのだと思います。次は最後まで口を挟みませんわ」
「あなたが?」
「その驚きは失礼ではなくて?」
「可能なのかと」
「できます」
「木苺の焼き菓子を取られても?」
「……できます」
たぶん。
アグロン様は笑った。あら、最近よく笑われる。悪評で塞いでいたお心が、茶会によってほぐれてきたのだろう。
すばらしい成果だ。
胸の奥が妙に忙しいのも、主催者冥利に尽きるから。もちろん。
「では、次のお席を整えますね」
「ヴィオラナ嬢」
「はい」
何かおっしゃりかけた唇が閉じる。
「いえ。三度目をお願いします」
* * *
三度目の朝、候補名簿の最上段はまだ空いていた。
私はその白さを見ないように、シュプレサ様の名へ細い線を引いた。最有力。家格もお人柄も申し分なく、持参金の額を数えれば私など途中で飽きてお茶を淹れ始めるほどだ。
「その線、もう三度目よ」
お母様の指摘は柔らかいが、逃げ道がない。
「大切なお名前ですから」
「紙が破れそうね」
「破れません」
「そう」
お母様は机の端に置かれた私の席札を拾った。三度とも、私の札だけはお母様が最後まで手元に残している。
「今日はどちらに置くの?」
「窓際の端です。お二人からもっとも遠い席へ」
「そう」
本日二度目の「そう」は、一度目より少し冷たかった。
シュプレサ様は、淡い色のドレスで時間どおりに現れた。
「お招きありがとうございます。アグロン様のお噂については存じておりますが、今日はご本人とお話しするために参りました」
歯切れがよくて頼もしい。噂を話題にするにも、陰でこそこそなさらず本人の前。私は心の中で百点を差し上げた。なお私の採点に婚約を成立させる権限はない。
「ありがとうございます」
アグロン様も真っ直ぐ礼を返した。
よし。
私は遠くの席で背筋を伸ばす。口は挟まない。笑顔も控えめ。進行表にもならない。今日は壁紙。上品な壁紙に徹する。
「領地へ戻られるなら、王都のお屋敷は閉めるご予定ですか」
シュプレサ様が尋ねた。
「ええ。最低限の者だけ残します」
「奥方が王都での暮らしを望んでも?」
「望む相手の意見を聞きます」
「では、結婚相手に望むことは?」
来た。
三度の茶会を通じ、ついに核心へ到達した。私は膝の上で拳を握った。がんばって、シュプレサ様。そこです。逃がしてはなりません!
「私だけを見てくださることです」
アグロン様の目がこちらを向いた。
私は背後を確かめた。
壁しかない。
壁を見たのね。年代物の織物だから、気になるのも無理はない。少し端がほつれているし。あとで直させよう。
シュプレサ様が茶器を置いた。
「それだけ?」
「難しい条件です」
「そうかもしれませんわね」
視線が私のところで交差した気がした。錯覚だ。私は壁紙。壁紙に視線は集まらない。
「ヴィオラナ嬢」
名指しされた。
壁紙、本日をもって廃業。
「はい。お茶のお代わりでしょうか」
「あなたは、どのような結婚を望んでいるのですか」
室内が広くなった。
「いまはシュプレサ様へのご質問の時間ですわ」
「彼女への質問には答えました」
「まだお尋ねしたいことがおありでしょう。音楽ですとか、舞踏ですとか、領地での暮らしですとか」
「あなたは?」
「わたくし?」
「音楽は何がお好きですか」
「存じていらっしゃるでしょう」
「ええ。二度目の茶会で、候補の方へ私が話しましたから」
さらりと言われた。そこを覚えていたの。
「舞踏は?」
「それもご存じですわ」
「あなたが右足を痛めていた夜、踊りを断る口実を一緒に考えました」
「領地での暮らしでしたら、経験がございません」
「水辺がお好きだ」
「それは二度目におっしゃっていましたわね」
「覚えていてくださった」
アグロン様が笑う。
しまった。なぜ私は得点を与えた気分になっているの。これはシュプレサ様の茶会。私は主催者。壁紙は廃業しても、せめてカーテンくらいには戻らねば。
「ヴィオラナ様」
シュプレサ様が助け船を出してくださった。
ありがたい。乗ります。全力で。
「アグロン様がお尋ねなのは、音楽や舞踏のお好みではないと思います」
船だと思ったら、向こう岸へ戻してくれない種類だった。
「どのような方と、どのような暮らしを望むのか。そういうお話でしょう」
「わたくしは主催者ですから」
答えになっていない。
自分でもわかるのに、口はそれしか言わない。こういうときだけ私の口は慣例に忠実だ。日頃、焼き菓子をもう一つだけと言いながら三つ取る自由闊達さはどこへ行ったの。
アグロン様は追及しなかった。
その代わり、ティーカップの取っ手から指を離した。
「私が明日、領地へ帰っても平気ですか」
心臓を、今度は匙どころか砂糖挟みでつかまれた。
「明日?」
「三度目で決まらなければ、王都を去ると申し上げました」
「ですが、明日は急ですわ。荷造りもございますし、お屋敷の戸締まりも、使用人へのお話も」
「済ませています」
何という段取りの鬼。今そこは感心する場面ではない。
「王都へ戻る予定は?」
「ありません」
「一度も?」
「用がなければ」
「お手紙は」
私の声が、勝手に問いを重ねた。
「くださるのですか」
「もちろんですわ。お茶会の結果も、王都での評判も、今後の招待状についてもお知らせしなければ」
「そのためだけに?」
「ほかに何が?」
アグロン様は答えなかった。
候補の方と話しているときは、返答のたびに私を見ていた。私の席が遠くなるほど、その返事は短くなった。三度目の今、私はいちばん遠く、アグロン様の答えはとうとう消えた。
それでもまだ、私は席次のせいにしたかった。
「シュプレサ様」
アグロン様が向き直る。
「失礼をいたしました。あなたが条件の不足した方だからではありません。私の選び方が、最初から礼を欠いていたのです」
「いいえ」
シュプレサ様は、ご自分の席札へ指を置いた。
「はっきりさせてくださって助かりました。わたくしも、こちらの名簿へ名を連ねたのは、噂ではなくご本人を見たかったからです」
席札が、ことりと伏せられる。
「ここから先は、候補ではなく友人として拝見します」
そう言って、シュプレサ様は席を立ち、一歩退いた。
空いた隣席が、ひどく目についた。
三度目も整わなかった。
アグロン様は明日、王都を去る。
私は立った。口元は笑える。侯爵令嬢というものは便利で、胸の中で食器棚が倒れていても、お客様には欠けていないカップだけをお見せできる。
「シュプレサ様、本日はありがとうございました。アグロン様も、三度のお茶会へお付き合いくださいまして——」
「ヴィオラナ嬢」
「領地までの道中が穏やかでありますよう、心より——」
「こちらを」
候補名簿が差し出された。
受け取ろうとすると、アグロン様は手を離さなかった。紙の両端を二人で持つ。おかしな渡し方だ。
「これが、何か」
「三度の候補が記されています」
「ええ」
「ですが、三度とも私が見ていた人は記されていない」
指先が、空いた最上段を示した。
紙の白さが眩しい。
「私が三度見ていたのは、ここに名のない人だけです」
軽口が、出てこなかった。
「そこは主催家の娘を書かない欄です」
「知っています。だから、あなたに書いてほしい」
「慣例ですわ」
「慣例を破れとは言っていません。あなたは候補として招待されていない。私は候補の中から選ばなかった」
「でしたら、この名簿へ書く理由がございません」
「私に選ばれるためではなく、あなたが選ぶためです」
手の中で紙が震えた。アグロン様の手は動かない。逃げようと思えば離せるほどの力なのに、私は離せなかった。
「わたくしは、皆様のお席を整えただけです」
「一度目、私はブレリナ嬢に好みを聞かれたのに、あなたが木苺を選ぶ理由を尋ねました」
「お菓子のお話でしょう」
「あなたのことを知りたかった」
「主催者の反応を確かめていたのでは?」
「二度目、候補の方に王都へ戻るかと聞かれたとき、私はあなたを見ました」
「次の茶会の日程を確かめていたのでしょう」
「あなたが会いたいと言ってくれるなら、戻るつもりでした」
「……お茶会を進めるためです」
「三度目の今、茶会が終わっても話したい」
もう言葉の盾がない。
慣例、主催者、一般論。ずいぶん立派に並べたつもりなのに、アグロン様は一枚ずつ丁寧に外してしまった。乱暴に壊してくだされば怒れたのに。なんて手強い方。
「最初から、あなた以外を選ぶつもりはありませんでした」
アグロン様の声が、少しだけ掠れた。
「あなたが用意した席で、あなた以外へ誠実であろうとはしました。それが三度の礼儀だと思った。ですが、期待を持たせる前に断るべきでした。申し訳ない」
「では、なぜ三度も」
「あなたに会えたからです」
息を吸うだけで、胸が痛い。
三度で決まらなければ帰る。その言葉で痛んだ理由を、もう社交界のためにはできなかった。
「ずるいですわ」
「はい」
「最初におっしゃれば、一度で済みました」
「あなたは最上段を空けたまま、私のために別の名を書いたでしょう」
書いた。喜々として。人の相性を見る目があるなどと胸まで張った。
穴があったら入りたい。ただし今は、穴へ入ったらアグロン様の顔が見えないので困る。
シュプレサ様が小さく咳払いした。
「ヴィオラナ様。ご自分へ向けられたものだけ、ずいぶん厳しく不採用になさいますのね」
「わたくしは、公平でありたいのです」
「ご自分を最初から除外することは、公平とは申しませんわ」
正論が歯切れよく刺さる。候補ではなく友人として拝見するとおっしゃった直後から、友人の仕事が早い。
「お母様も、何かおっしゃってくださいませ」
「そうね」
お母様は扇を口元へ寄せた。
「娘が三度も同じ殿方を見つめておきながら、席次の確認だと言い張る家では、母親にできることなどなくてよ」
母親らしい毒を、そこで落とす必要はなかったのでは。
「わたくしは見つめてなど」
「ヴィオラナ嬢」
アグロン様が私の前へペンを置いた。
「書くかどうかは、あなたが決めてください」
「書かなければ?」
「明日、発ちます」
「書けば?」
「帰りません」
明快だった。
名を書けば、この方は残る。
いいえ、それだけではない。残ってほしいと、私が言うことになる。主催者だからでも、悪評を払いたいからでも、社交界の損失だからでもない。
私が。
アグロン様は手を差し出した。まだ取れとは言わない。ただそこにある。掌を上にして、私の返事が届く場所に。
私はペンを取った。
最上段へ置いた先が、紙に触れる。
ヴィ。
一文字書くと、もう戻せない。
オ。
書き慣れたはずの自分の名が、今日はひどく長い。
ラナ。
最後の線を引く。紙の上でずっと空いていた場所が、私の名で埋まった。
やってしまった。
主催者が自分を選んだ。慣例は破っていない。候補として招待されたわけでもない。ただ私が、私の望む場所へ名を書いただけ。
なんという抜け道。見つけたアグロン様はお見事だし、通った私はもっとお見事である。今だけはそういうことにしておきたい。そうでなければ顔が熱すぎて倒れる。
「次のお席を整えますね」
ようやく言うと、アグロン様が首を横に振った。
「次の席はいりません。あなたの隣がいい」
お母様の手元から、私の席札を受け取る。
三度とも遠ざけた札。
私は空いたままのアグロン様の隣へ、それを置いた。指先が札から離れるまで、誰も何も言わなかった。
それから、差し出された手を取った。
* * *
席札を一枚動かしただけなのに、お母様はなぜ扇の陰で目元を押さえ、シュプレサ様はなぜ立ったまま拍手をなさるの。
扉まで開いて、別室で待っていたブレリナ様たちまで入ってきた。
聞いていない。
「お母様」
「三度目までかかったのね」
お母様のその一言に、ブレリナ様が笑った。
「わたくし、一度目で申し上げましたわ」
「候補本人から言われても、主催者の顔で受け流す娘ですもの。三度は必要よ」
「皆様、どこまでご存じだったのですか」
「少なくとも、アグロン様が木苺の焼き菓子ではなくヴィオラナ様をご覧になっていたことは」
「焼き菓子は重要ですわ」
口から出た反論がそれだった。
違う。そこではない。
アグロン様——いいえ。
私が書いた名と、動かした席札と、つないだ手。その三つを見てから、彼は私の正面へ立った。
「ヴィオラナ嬢」
満座の視線が集まる。
逃げ道は、私が自分で隣へ動かしてしまった。
「悪評のある私には、あなたへ差し出せるものが少ない。王都での立場も、この三度であなたから借りたものばかりです」
「アグロン様ご自身が返してくださったものですわ。皆様へ、誠実に」
「それでも、あなたの隣に立つ資格は、これから得なければならない」
彼はつないだ手へ力を込めた。
「次の社交季も、その次も、私と同じ席にいてください。私と結婚していただけますか」
今度こそ、誰かのための返事ではない。
「わたくしは——」
声が一度、遅れた。
けれど手は離さない。
「わたくしは、あなたが領地へ帰っても平気ではありません。お手紙だけでも足りません。次の社交季も、その次も、あなたの隣がいい」
アグロンが息を止めた。
承諾したので、もう様はつけない。心の中でくらい先走っても許されるはずだ。名簿の最上段へ自分の名を書いた女に、今さら慎み深さを求めないでいただきたい。
「ですから、はい。喜んでお受けいたします、アグロン」
拍手が重なった。
ブレリナ様は私の肩を抱き、シュプレサ様は伏せていたご自分の席札を持ち上げる。
「これは記念にいただいても?」
「そのようなものでよろしければ」
「三度目の茶会で、候補ではなく友人になった証ですもの」
「でしたら、わたくしの一度目の招待状も残しておりますわ」
ブレリナ様が得意そうに言った。
「次はお二人で招いてくださいませ」
「もちろんです」
アグロンより先に答えてしまった。
また会話を奪ったけれど、今度は笑われるだけで済んだ。隣にいる人の返事を先に言うのは、これから少しずつ直せばよい。直らなくても、アグロンなら私の顔で答えを確かめてくれるだろう。
次の社交季、最初の茶会の招待状には、主催者として二人の名を並べた。
ヴィオラナ。
アグロン。
席札も同じ卓の隣同士。
私は封をする前に、二つの名をもう一度眺めた。
「近すぎませんか」
肩越しにのぞき込んだアグロンが言う。
「お嫌?」
「まさか。もっと寄せてもいい」
「招待状の文字ですわよ」
「ええ」
たぶん、わかって言っている。
私は二つの名の間を、ほんの少しだけ狭めた。




