まもなく到着します
八月の夜になっても、部屋に籠もった熱は少しも逃げようとしなかった。
窓を開ければ涼しくなるかもしれないと期待したのは最初の数分だけで、網戸の向こうから入り込んでくるのは昼間の続きを引きずったような生ぬるい風ばかりだった。ベランダの室外機は沈黙したまま、壁に掛けられたエアコンも電源を入れるたびにランプを点滅させるだけで冷気を吐かない。
「最悪だな……」
卓也はタンクトップの胸元を摘まんで何度か煽り、ローテーブルに置いてあった団扇を拾った。風呂上がりに着替えた短パンまで肌へ張りついている。冷蔵庫から出した麦茶もすでに半分以上なくなっていた。
修理業者が来るのは明後日だという。電話口では申し訳なさそうに謝られたが、謝罪で室温が下がるわけでもない。
せめて腹くらい満たそうと、1時間ほど前にスマートフォンから夕食を注文した。駅前にあるアジア料理の店で、いつもなら30分もあれば届く距離なのに、予定時刻を20分過ぎてもインターホンは鳴らなかった。
「遅すぎるだろ」
団扇を動かしながらスマートフォンを取ると、注文履歴にはまだ《配達中》と表示されている。小さな地図の上には現在地を示す青い点と配達員の位置があり、その2つを結ぶ線が住宅街を縫っていた。
配達員のアイコンは、5分前から同じ交差点にいる。
「そこで何してんだよ」
画面を指で更新しても位置は変わらない。卓也は舌打ちしてスマートフォンを置き、団扇を大きく動かした。首筋へ汗が流れ、タンクトップの襟へ吸い込まれていく。
テレビでは芸人たちが何かを食べて笑っていた。よりによって料理番組を見ていることに腹が立ち、リモコンへ手を伸ばそうとしたところでスマートフォンが短く鳴った。
『まもなく到着します』
「やっとか」
卓也は団扇をテーブルへ放り、玄関脇に置いた財布を取りに立った。注文時にオンライン決済を済ませていたことを思い出して途中で引き返し、ついでに冷蔵庫から麦茶を取り出す。
コップへ注ぎながらインターホンを待つ。
テレビではまだ芸人が笑っている。
廊下を誰かが歩く音もしない。
麦茶を飲み終えてスマートフォンを見ると、通知から10分が過ぎていた。
「はぁ?……何がまもなくだよ」
地図を開く。
配達員のアイコンは、まだ同じ交差点にいた。
さらに15分待ったところで、卓也は店へ電話をかけた。
注文履歴に記載されている番号を押すと、何度か呼び出し音が続いたあと、男の声が聞こえてきた。
「はい、ありがとうございます」
「あの、さっきそちらで注文した者なんですけど」
「はい、ありがとうございます」
「いや、注文したんですけど。まだ届いてないんですよ」
「はい。ご注文ありがとうございます」
卓也は眉を寄せてスマートフォンを耳から少し離した。聞き間違えたのかと思ったが、通話は繋がったままだ。
「あの、聞こえてます?」
「はい、聞こえております」
「じゃあ確認してもらえます? 予定時間からもう40分くらい過ぎてるんですよ」
「はい。お客様のご注文は出ています」
「出てる?」
「はい。出ています」
「店を?」
数秒、返事がなかった。
「ご注文は出ています」
「だから、それは分かったんですけど。配達員がずっと同じ場所にいるんですよ」
「はい。間もなくお届けします」
「いつですか?」
「お届けします」
「だから、いつ?」
「お客様のところです」
卓也は額の汗を手の甲で拭った。
「場所じゃなくて時間を聞いてるんです」
「時間は大丈夫です」
「何が大丈夫なんですか?」
「間もなくお届けします」
怒鳴りそうになったところで卓也は口を閉じた。外国人の店員なのかもしれない。言葉そのものは流暢なのに、質問と答えが微妙にずれている。閉店間際で疲れている可能性だってある。
そう考えようとしたものの、腹が減っている上に暑い。
「もういいです。とにかく確認してください。注文番号、言いますから」
「番号は分かっています」
「じゃあお願いします」
「はい。お待ちしています」
「いや、待ってるのは俺なんですけど」
通話が切れた。
卓也は耳から離したスマートフォンを見つめ、切断された画面が注文履歴へ戻るのを待ってからソファへ放り投げた。
「なんなんだよ、あの店……」
もう二度と頼まない。
レビューにも書いてやる。
そう決めて団扇を拾ったところで、ソファの上から通知音が鳴った。
『まもなく到着します』
「分かったよ」
返事をしてしまった自分にも腹が立つ。
スマートフォンを取ると、《まもなく到着します》という文字の下で配達員のアイコンが動いていた。
「ほら、動けるじゃねえか」
さっきまで止まっていた交差点を離れ、こちらへ向かっている。
卓也は画面を伏せ、テレビへ目を戻した。
それから20分経っても、料理は届かなかった。
地図上のアイコンはアパートのすぐ近くまで来ているのに、そこから先へ進もうとしない。
「もういい」
空腹より苛立ちの方が勝っていた。
卓也は注文画面からキャンセルを選んだ。配達開始後のためアプリからは処理できず、表示された問い合わせ先へ電話をかける。
今度は呼び出し音が1回鳴っただけで繋がった。
「はい、ありがとうございます」
さっきと同じ男だった。
「さっき電話した者です。もうキャンセルします」
「はい。お届けします」
「いや、いらないです。キャンセルで」
「間もなくお届けします」
「もう1時間以上待ってるんですよ。別のもの食べるんで、キャンセルしてください」
「ご注文は出ています」
「それもさっき聞きました」
「はい」
「だからキャンセルでお願いします」
「お客様がお待ちです」
卓也は団扇を止めた。
「……なんて?」
「お客様がお待ちです」
「俺が待ってるんですよ」
「はい」
「もう待たないって言ってるんです」
「大丈夫です」
「だから何が――」
「間もなくお届けします」
卓也は通話を切った。
今度は向こうが切るのを待たなかった。
「ふざけんなよ」
スマートフォンをテーブルへ置くと、すぐに画面が点灯した。
《ご注文はキャンセルされました》
返金手続きについての案内も表示されている。
「できるじゃねえか」
店との会話は最後まで腹が立ったが、キャンセルできたならもうどうでもいい。時計は22時を回っている。コンビニまで歩くのも面倒で、卓也は別の店を探そうとアプリを閉じた。
そのまま動画を眺めたり、ニュースを読んだりしているうちに、さっきまでのことも少しずつ頭から抜けていった。
冷蔵庫に卵くらいあっただろうか。
最悪、卵かけご飯でもいい。
そう思って立ち上がろうとした時、スマートフォンが鳴った。
『まもなく到着します』
卓也の腰がソファへ戻った。
「……は?」
画面には、さっきキャンセルした注文が表示されていた。
《まもなく到着します》
その下には注文した料理の写真がある。
ただ、こんな写真だっただろうか。
白い皿の上に赤黒いものが盛られている。中央には強いモザイクがかけられ、料理そのものがほとんど見えない。商品名も文字化けしており、四角や記号に混じって読める文字は一つもなかった。
「バグってんのか?」
注文履歴へ戻る。
《キャンセル済み》
確かにそう表示されている。
もう一度通知を開く。
《まもなく到着します》
卓也は眉を寄せたまま通知を消した。
「アプリまでふざけてんのかよ」
スマートフォンをテーブルへ置き、今度こそ冷蔵庫へ向かう。
扉を開けると、卵が3つ残っていた。
「もうこれでいいや」
冷蔵庫を閉めた背後で通知音が鳴る。
振り返る。
テーブルの上でスマートフォンが光っていた。
『まもなく到着します』
卓也はしばらく動かなかった。
冷蔵庫の駆動音が背中で低く続いている。
「……キャンセルしたって」
スマートフォンを取って通知を消す。
画面を閉じるより早く、また音が鳴った。
『まもなく到着します』
「なんだよ」
同じ通知。
同じ文字化けした商品名。
同じモザイクの写真。
卓也はアプリを強制終了した。
画面から消えたことを確かめてテーブルへ置く。
通知音。
『まもなく到着します』
「いい加減にしろよ!」
スマートフォンを掴み、アプリそのものを削除した。
アイコンが消える。
しばらく画面を見つめた。
何も起こらない。
「……なんなんだよ」
息を吐きながらソファへ座る。
テレビではいつの間にか料理番組が終わり、ニュースキャスターが明日の猛暑について話していた。卓也は音量を上げ、団扇を拾った。
通知音は鳴らない。
1分。
2分。
ようやく馬鹿らしくなってきた。
アプリの不具合に本気で苛立っていた自分まで間抜けに思えてくる。
卓也は団扇を動かしながら、テーブルへ置いたスマートフォンを見た。
画面は暗い。
そのままテレビへ視線を戻そうとしたところで、黒い画面が点灯した。
『まもなく到着します』
団扇が止まった。
削除したはずのアプリから通知が来ている。
卓也はスマートフォンを手に取った。
「……なんでだよ」
通知を開く。
文字化けした商品名。
モザイクのかかった赤黒い料理。
さっきと同じに見えた。
だが、写真の隅に何かが写っている。
料理ではない。
背景だ。
灰色の壁と、細い白線。
卓也は指で画像を拡大した。
「これ……」
道路だった。
夜の路地を背景に、赤黒い何かが置かれている。
料理の宣材写真などではない。
卓也は窓へ目を向けた。
カーテンの向こうでは、住宅街を走る車の音が遠ざかっていく。
もう一度画像を見る。
見覚えのある路地だった。
アパートから数百メートル先にある、あの交差点。
配達員のアイコンが長い間止まっていた場所だ。
「……いやいや」
偶然だ。
似たような道路なんていくらでもある。
そう思いながら注文画面へ戻ると、地図から配達員のアイコンが消えていた。
代わりに画面中央へ文字だけが表示されている。
《まもなく到着します》
卓也はスマートフォンを伏せた。
直後に通知音が鳴った。
『まもなく到着します』
「分かったよ」
自分の声が思ったより小さかった。
「分かったから……」
また鳴る。
『まもなく到着します』
卓也は電源ボタンを長押しした。
表示されたメニューから電源を切る。
画面が暗くなった。
手の中で完全に沈黙したスマートフォンを見つめたまま、卓也はソファへ深く腰を下ろした。
テレビの音がやけに大きい。
ニュースキャスターが喋っている。
冷蔵庫が唸っている。
網戸の向こうから車の走行音が聞こえる。
それら全部が鬱陶しくなり、卓也はリモコンを取ってテレビを消した。
静かになった部屋で、冷蔵庫の音だけが残った。
窓も閉める。
鍵を掛ける。
カーテンも閉じた。
玄関へ向かい、ドアの鍵を確かめる。
上。
下。
チェーン。
全部掛かっている。
卓也はようやく息を吐いた。
『まもなく到着します』
背後から声がした。
ゆっくり振り返る。
テーブルの上に置いたスマートフォンは真っ暗だった。
卓也は近づかなかった。
『まもなく到着します』
画面は点かない。
「……電源、切っただろ」
『まもなく到着します』
「やめろ」
『まもなく到着します』
「もういいって」
返事をするたび、声が近く聞こえる。
卓也は両手で耳を塞いだ。
それでも聞こえた。
『まもなく到着します』
「分かった! 俺が悪かったから!」
何に謝っているのか自分でも分からない。
店員に怒ったことか。
キャンセルしたことか。
それとも、注文したことそのものなのか。
「もういい! いらないから!」
スマートフォンの画面が点灯した。
卓也は離れた場所からそれを見た。
新しい画像が表示されている。
モザイクの向こうにある赤黒いものは、もう見なかった。
背景だけを見る。
コンクリートの壁。
集合ポスト。
駐輪場。
見慣れた自動販売機。
自分のアパートだった。
「……嘘だろ」
通知音。
画像が変わる。
今度は階段。
この建物にはエレベーターがない。
卓也の部屋は3階だった。
通知音。
2階の踊り場。
「やめろ……」
通知音。
3階へ続く階段。
「来るな」
卓也は玄関から後ずさった。
『まもなく到着します』
「来るなって言ってんだろ!」
通知音。
画面に映ったのは、3階の廊下だった。
奥に卓也の部屋が見える。
赤黒いものは相変わらず画面の中央にあり、モザイクに隠されている。
だが、最初の写真より明らかに大きくなっていた。
料理が近づいているのではない。
それを撮っている何かが、近づいている。
卓也は玄関を見た。
ドアの向こうから音はしない。
足音もない。
気配もない。
だからこそ動けなかった。
スマートフォンが鳴る。
『まもなく到着します』
「……もう、いい」
喉が乾いていた。
「分かったから……帰ってくれよ」
通知音。
新しい画像。
卓也は見たくないのに画面から目を逸らせなかった。
そこに映っていたのは、自分の部屋のドアだった。
部屋番号まで読める。
その手前に、赤黒いものがある。
モザイクはもう画面の大半を覆っていた。
卓也の手から団扇が落ちた。
床を軽く叩く音が、静まり返った部屋へ響く。
スマートフォンから声が流れた。
『まもなく到着します』
玄関のインターホンが鳴った。
床に落ちた団扇の横で、スマートフォンが転がっていた。
しばらく暗かった画面が点灯する。
《到着しました》




