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1.

 午前十時、ちょうど。


「如月綾乃。貴様との婚約を、この場で破棄する」


 王城・大広間。


 王太子ユリウスの声が、天井の高い空間に反響した。


 居並ぶ貴族たちが、いっせいにざわめく。


 壇上のユリウスは金髪を払い、勝ち誇った顔で綾乃を見下ろしていた。


 その隣には、若草色のドレスをまとった男爵令嬢が寄り添っている。


 綾乃は、扇を握る指に力を込めた。


(……そこまでは、想定内)


 王太子の心変わり。


 新しい寵姫。


 社交界では、何ヶ月も前から囁かれていた話だ。


 だから綾乃は、眉ひとつ動かさなかった。


 問題は、次の一言だった。


「そして――国王陛下弑逆の罪により、貴様をこの場で告発する」


 ざわめきが、悲鳴に変わった。


(……は?)


 国王オーガストが崩御したのは、七日前。


 病死と、発表されたはずだ。


 綾乃は一歩前へ出た。


「恐れながら殿下。仰る意味が、わかりかねます」


「白々しい」


 ユリウスが指を鳴らす。


 衛兵が布の掛かった台車を押し出し、広間の中央で布を剥いだ。


 小さな硝子の瓶。


 封蝋には、如月侯爵家の紋章。


「貴様の私室の隠し棚から発見された毒瓶だ。中身は猛毒『ラフレア』。父上の遺体からは、同じ毒が検出された」


 続けて、文官が羊皮紙を掲げる。


「毒物商に宛てた発注書もある。署名は、如月綾乃。日付は先月の九日」


 広間中の視線が、綾乃へ突き刺さった。


 綾乃は、ゆっくりと息を吸う。


(落ち着きなさい。穴だらけよ、こんなもの)


「三点、申し上げます」


 凛とした声が、ざわめきを切り裂いた。


「第一に。『ラフレア』は即効性の毒です。摂取から死亡まで、長くて十数秒。ですが陛下は、三日間の闘病の末に亡くなられたと公表されています。毒が一致するなら、症状が一致しません」


 文官の顔が強張る。


「第二に。先月の九日、私は王都東の修道院を慰問しておりました。同行者は侍女八名、修道女は百名以上。発注書に署名する暇など、物理的に存在しません」


 ユリウスの笑みが、薄れていく。


「第三に。如月家の封蝋印は二ヶ月前に盗難に遭い、騎士団へ届け出済みです。受理番号は三〇二一。照会なされば、一分で確認できます」


 広間が、しんと静まり返った。


 誰も反論しない。


 できないのだ。


 綾乃は胸を張った。


(論理では、私の勝ち)


 だが。


「――以上の言い逃れは、記録しなくていい」


 ユリウスは、あくびを噛み殺しながら言った。


(は?)


「証拠は揃っている。審理は結審だ」


「殿下! 今のをお聞きになって――」


「如月綾乃」


 玉座の隣に立つ宰相が、巻物を広げる。


「爵位剥奪。婚約破棄。ならびに――国外追放とする」


「処刑ではないことを、父上のご遺徳と私の慈悲に感謝するがいい」


 ユリウスが手を振った。


 まるで、虫でも払うように。


「連れて行け」


 衛兵たちが綾乃の両腕を掴む。


 引きずられながら、綾乃は壇上を睨みつけた。


 勝ち誇る王太子。


 俯いて笑いを堪える男爵令嬢。


 そして、その後方。


 柱の陰に並ぶ数人の高位貴族たちが――乾杯するように、グラスを掲げていた。


(……覚えたわ)


 綾乃は、その顔ぶれを記憶に焼き付ける。


(一人残らず、覚えた)


     *


 午後六時。


 雨。


 綾乃は、王都の外門から放り出された。


 ドレスは没収され、支給されたのは麻の外套一枚と、旅行鞄一つ。


 門の上から、衛兵が事務的に告げる。


「追放者は今後、城壁内への立ち入りを禁ずる。違反すれば即時処刑。以上」


 ガコン、と門が閉まった。


 それきりだった。


 二十二年間の人生が、音を立てて閉じた。


 雨が、容赦なく髪を濡らしていく。


 城壁の外――通称〈外環〉。


 追放者、流れ者、身分なき人間たちが暮らす、王国の掃き溜め。


 行く当てなど、あるはずもない。


(……泣かないわよ)


 綾乃は唇を噛み、顔を上げた。


(泣くもんですか。私は無実で、あいつらは犯罪者。なら、やるべきことは一つ――)


「――嬢ちゃん、腹減ってないか」


 声がした。


 振り返る。


 門の脇。崩れかけた庇の下に、一人の男が立っていた。


 太っている。


 かなり、太っている。


 よれた灰色の外套のボタンは、腹の上で今にも弾け飛びそうだ。無精髭。眠たげな目。年の頃は、四十絡み。


 男は片手に紙袋を提げ、もう片方の手で、たい焼きを咥えていた。


「……どなたです?」


「まあ食え。話はそれからだ」


 男は紙袋からたい焼きを一つ取り出し、放って寄越した。


 綾乃は反射的に受け取ってしまう。


 まだ、温かい。


「『毒でも入っているとお思いですか』と聞き返すところですが」


 綾乃は目を細めた。


「あいにく今朝から、毒の話は聞き飽きています」


「ふ」


 男の口の端が、わずかに動いた。


「傍聴席で見てたぜ。今日の茶番」


「……茶番、と」


「ああ。ありゃひどい。ひどすぎて、逆に見事だった」


 男はたい焼きを尻尾まで齧り、指を三本立てた。


「症状の矛盾。不在証明。盗難届。三点全部、正しい。裁判記録から抹消されたのが惜しいくらいだ」


 綾乃の心臓が、跳ねた。


 初めてだ。


 今日一日で、初めて――誰かが、私の言葉を聞いていた。


「ただ、嬢ちゃん。四点目を見落としてる」


「……四点目?」


「あの毒瓶の硝子だ。あの色、あの厚み。王室御用達の硝子工房『ヴェルナー』の特注品だ。あそこの品は、城の備品部を通さなきゃ一本も出回らない」


 男は指についた餡を舐めた。


「つまり毒瓶を用意したのは、城の中の人間。嬢ちゃんを嵌めた犯人は、今も城で温かい飯を食ってるってわけだ」


 綾乃は、絶句した。


 この男、何者?


「……なぜ、城の備品事情にそこまでお詳しいんです」


「昔ちょっとな」


 男はそれきり、口を閉じた。


「……あなた、何者ですか」


「雨宮明人。探偵だ」


 男――雨宮は、顎で雨の向こうを示した。


 外環の街並み。傾いた煙突。滲んだ灯り。


「事務所はすぐそこだ。飯と屋根と、それから――仕事がある」


「仕事?」


「歩きながら話す。……ああ、面倒くせえ。俺は雨の日が嫌いなんだ」


 雨宮はさっさと歩き出した。


 濡れるのが嫌なのか、太った体のわりに、妙に早足だった。


 綾乃は数秒迷い――


 手の中のたい焼きを見下ろした。


 温かい。


(……信用したわけじゃ、ないけれど)


 鞄を持ち直し、その背中を追いかけた。


     *


〈雨宮探偵社〉


 看板は、左に十五度ほど傾いていた。


 煉瓦造りの三階建て。窓から漏れる灯りは、なぜか緑色に明滅している。


 雨宮が扉を開けた瞬間、鼻を突く薬品臭が溢れ出した。


「所長! お帰りなさい! 聞いてください、例の繊維、燃焼実験で――うわっ!?」


 白衣の少年が、階段から転がるように降りてきた。


 十代後半。丸眼鏡。額には奇妙なゴーグル。白衣のポケットから、試験管が三本覗いている。


 少年は綾乃を見て、固まった。


「……しょ、所長。その方、まさか」


「ああ。今日の裁判の」


「本物だ! 本物の如月綾乃だ! 王都中の号外に載ってますよ、『稀代の毒婦』って!」


「悪かったですね、毒婦で」


「あっ、いえ、違くて! 僕、傍聴席にいたんです! あなたの第二反証、不在証明の論理構成、完璧でした! 鳥肌が――」


「蒼真。茶」


「はいっ!」


 少年――桐原蒼真は白衣を翻し、奥へ吹っ飛んでいった。


 ……騒がしい子。


 でも、悪い気はしなかった。


 雨宮は応接室のソファへ、どすんと腰を沈める。


 ソファが、悲鳴のような音を立てた。


「立って話すのは疲れる。座れ。仕事の話だ」


 雨宮は机の上の書類の山から、一枚の紙を引き抜いた。


「うちは調査専門の探偵社だ。外環で起きる事件を調べて、証拠を集める。窃盗、詐欺、殺し。仕事には困らん」


「はあ」


「だが、一つだけ困ってることがある」


 雨宮は紙を、綾乃の前へ滑らせた。


 敗訴通知。


 その下にもう一枚。敗訴通知。


 さらにもう一枚。敗訴通知。


「……全敗、ですか」


「証拠は完璧なんだがな。外環の裁判所で戦う『訴追人』ってのが、どいつもこいつも使い物にならん。買収されるか、口下手か、その両方だ」


 雨宮は、綾乃を真っ直ぐに見た。


 眠たげだった目が、初めて鋭く光る。


「嬢ちゃん。今日、中央の連中はあんたの論理に反論できなかった。だから『記録するな』と言った。ありゃ、敗北宣言だ」


「……」


「うちの訴追人になれ。俺と蒼真が証拠を集める。あんたが法廷で立証する。給料は出来高。住み込み可。飯は俺が作る。うまいぞ」


 綾乃は、敗訴通知の束を見つめた。


 訴追人。


 罪を、告発する側。


 今朝まで、告発される側だった私が。


(……ああ、なるほど)


 悪くない。


 悪くないどころか。


「一つ、伺います」


「なんだ」


「なぜ私を拾ったんです。追放されたばかりの重罪人を。同情ですか」


「まさか」


 雨宮は紙袋から最後のたい焼きを取り出し、齧った。


「依頼だからだ」


「……依頼?」


「国王殺しの真犯人を突き止めろ、って依頼を受けてる。あんたはその最重要参考人で、最大の被害者で――ついでに、最高の戦力だ」


 綾乃の呼吸が、止まった。


「依頼人は、どなたです」


「それは契約後の話だ」


 雨宮は引き出しを開け、一枚の紙を机に置いた。


「その前に、事務的な問題を片付ける。訴追人の資格には、外環の市民権が要る。追放者には取れん。だが――『市民の配偶者』なら、話は別だ」


 綾乃は紙を見下ろした。


 ――婚姻届。


 記入欄の片側には、すでに癖のある字で署名が済んでいる。


 雨宮明人、と。


「…………は?」


「書類上の話だ。指一本触れんし、寝室は三階、俺は一階からほぼ動かん。離婚届も同じ引き出しに入ってる。真犯人を挙げたら、好きなタイミングで出せ」


 雨宮は、たい焼きの尻尾を口へ放り込んだ。


「さあ、どうする。如月綾乃」


 綾乃は婚姻届を手に取り、しばらく眺め――


 ふ、と笑った。


 今日初めての、本物の笑みだった。


「……条件があります」


「言ってみろ」


「国王殺しの真犯人は、必ず私の手で法廷に引きずり出すこと。それから――依頼人の名前を、今ここで教えること」


 雨宮は数秒、綾乃を眺めた。


 やがて肩をすくめ、机の上の分厚い依頼書を、無言でこちらへ向ける。


 表紙に記された、依頼人の署名。


 それを読んだ瞬間――


 綾乃の手から、ペンが滑り落ちた。


「……嘘、でしょう」

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