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救世主、現る

人類には、数多の敵がいた。


飢餓

戦争

貧困

差別

災害

そして、月曜日。


だが、それらはまだ、話し合いの余地があった。


飢餓には食糧を

病には薬を

貧困には制度を

戦争には交渉を

月曜日には、せめて有給を。


しかし


奴らだけは違った。


奴らは、交渉しない。

奴らは、反省しない。

奴らは、条約に署名しない。


奴らは、夜中の三時に耳元で囁く。


――ぷぅぅぅぅぅん


その音が聞こえた瞬間、人類は原始に帰る。


文明も、理性も、法律も、哲学も、積み上げてきた数千年の歴史も、全て無意味になる。


人は布団の中で目を見開き、暗闇に向かって拳を握る。


どこだ


どこにいる!?


出てこいよ!


殺してやる!!


これは、殺意ではない。

正当防衛である。


人類最大の敵



哺乳類最大の敵


ノミ

ダニ


奴らは、あまりにも小さかった。


小さいがゆえに、壁を越え

国境を越え

種族を越え

貧富を越え

思想を越えた。


王も刺された。

奴隷も刺された。

大統領も刺された。

赤子も刺された。

猫も犬も牛も鹿も、象でさえ刺された。


人類は、それでも争っていた。


国と国

民族と民族

宗教と宗教

金持ちと貧乏人

都会と田舎

犬派と猫派

きのこ派とたけのこ派


だが、ある夏の夜


全世界の寝室で、同時にそれは起きた。


耳元で鳴ったのだ。


ぷぅぅぅぅぅん


それは、宣戦布告だった。



最初に立ち上がったのは、一人の老人だった。


名を、蚊取線香寺源三郎という。


嘘のような名前だが、本名である。


源三郎は八十四歳。

山奥の村で暮らす、元畳職人だった。


その夜、源三郎は三匹の蚊に刺された。


右腕

左足

そして、眉間


眉間である。


人間には、越えてはならない一線がある。


源三郎は、翌朝、村の集会所に現れた。


白いランニングシャツ

腹巻き

麦わら帽子

そして右手には、年季の入ったハエ叩き。


村人たちは、ただならぬ気配を感じて黙り込んだ。


源三郎は、静かに口を開いた。


「もう、許さん。絶対にだ」


その一言で、村の空気が変わった。


誰も笑わなかった。

笑えるはずがなかった。

全員、刺されていたからである。


源三郎は黒板に、朱い斑点だらけの腕で文字を書いた。


吸生種


「わしらは、長い間、間違えておった」


源三郎は言った。


「人間同士で争っとる場合ではない。猫だ犬だ、東だ西だ、そんなことはどうでもええ」


老人の目に、炎が灯った。


「奴らは全員を刺す」


その瞬間、集会所にいた者たちは悟った。

これは、ただの虫退治ではない。

これは、歴史の転換点だ。

やがて源三郎の演説は、孫によって動画サイトに投稿された。


タイトルはこうだった。


『じいちゃん、蚊にブチギレる』


動画は三日で一億再生を突破した。



世界は動いた。


アメリカは、軍事衛星で水たまりを監視し始めた。

フランスは、香水技術を応用した新型虫除けを発表した。

ドイツは、網戸の規格を百二十七ページにわたって再定義した。

インドは、巨大な扇風機を都市ごとに設置した。

ブラジルは、アマゾンの奥地から「蚊に刺されない謎の部族」の知恵を持ち帰った。

日本は、なぜかまず会議をした。


議題はこうである。


『蚊・ノミ・ダニ対策推進本部の名称について』


六時間の議論の末、名称は決まらなかった。


だがその間にも、蚊は刺した。

国会議員も

官僚も

記者も

警備員も刺した。


会議室の中央で、一人の大臣が机を叩いた。


「名前など、どうでもいい!」


その声に、全員が振り向いた。

大臣は、首筋を真っ赤に腫らしていた。


「今この瞬間にも、国民は刺されている! 犬も猫も刺されている! 牛も馬も、山の鹿も刺されている! 我々は、何のためにここにいるのだ!」


沈黙


その沈黙を破ったのは、若い女性研究者だった。


白衣の袖をまくり、彼女は言った。


「戦いましょう」


彼女の名は、羽音ミナト。


国立感染症研究所の若き天才。

幼少期、キャンプ場で一晩に四十八カ所刺された過去を持つ女だった。


彼女は、静かに続けた。


「これは人類だけの戦いではありません。哺乳類全ての戦いです。人間、犬、猫、牛、馬、象、パンダ、カピバラ。血を持つ者たちの連合です」


大臣が問う。


「勝てるのか」


ミナトは答えた。


「勝つんです」


その目は、科学者のものではなかった。


復讐者の目だった。



こうして、史上初の国際組織が誕生した。


国際吸血害虫対策連合


通称、BBF


Blood Biter Fighters


血を吸う者を許さぬ者達


これは、ジハード


安眠のための聖戦である。

赤子の頬を守るための聖戦である。

犬の腹を守るための聖戦である。

猫の耳を守るための聖戦である。


そして何より。


午前三時に、耳元で「ぷぅぅぅぅぅん」と鳴らされない世界を取り戻すための、全哺乳類による大反抗である。



開戦の日


世界中の都市で、同時に鐘が鳴った。


人々は武器を手にした。


殺虫剤

虫取り網

掃除機

布団乾燥機

粘着シート

高圧スチーム

蚊帳

網戸

ハーブ

乾燥機

そして、古来より伝わる最終兵器


両手である。


パンッ

パンッ

パンッ


世界中で、拍手のような音が鳴った。

だがそれは、祝福ではない。


処刑の音だった。


ミナトは作戦本部の巨大スクリーンを見上げた。

赤い点が世界地図に無数に表示されている。


発生源

湿地

河川

草むら

畜舎

古い布団

野良猫の集会所

押し入れの奥


敵は多い

あまりにも多い。


その数は、人類の想像をはるかに超えていた。

だが、ミナトは怯まなかった。

彼女の背後には、人類がいた。

そして、人類の足元には、犬がいた。

机の上には猫がいた。

窓の外には牛がいた。

なぜか会議室の隅にはカピバラもいた。


全員、刺されていた。

だから全員、本気だった。


ミナトはマイクを握った。


「全世界へ告ぐ」


その声は、衛星回線を通じて、地球上のあらゆる端末へ届けられた。


「これより我々は、蚊・ノミ・ダニに対する総合反攻作戦を開始する」


彼女は一度、息を吸った。


「作戦名――おやすみなさい」


世界が、どよめいた。

あまりにも穏やかな名だった。

しかし、誰もが理解した。


人類が本当に求めていたもの。


それは領土ではない。

金ではない。

名誉でもない。

支配でもない。


ただ、眠りたかった。


刺されずに。

痒くならずに。

耳元で羽音を聞かずに。


朝まで、ぐっすり眠りたかった。


それだけだった。



同時刻


東京の古いアパートで、一人の男が立ち上がった。


名を、布団タカシという。


無職

三十二歳

特技なし

貯金なし

恋人なし

ただし、蚊を見つける能力だけは異常に高かった。


暗闇の中でも、羽音の位置を正確に把握できる。

壁に止まった蚊を、新聞紙一撃で仕留める。

寝起き三秒で戦闘態勢に入れる。


世間は彼を必要としなかった。

会社も彼を評価しなかった。

家族も彼を心配していた。


だが


この時代だけは違った。


タカシは、スマホに届いた緊急募集を見た。


『求む。対蚊戦闘適性者』


タカシの目が光った。

初めてだった。

人生で初めて、自分の能力が世界に求められていた。


彼は押し入れから、愛用の武器を取り出した。

丸めた古新聞。

百円ショップの虫取り網。


そして、三年前に買ったまま使っていなかった電撃ラケット。

タカシは窓を開けた。

夏の夜風が吹き込んでくる。


耳元で、羽音がした。


ぷぅぅぅぅぅん


タカシは笑った。


「来いよ」


電撃ラケットのスイッチが、青白く光る。


「今夜からは、俺たちが狩る番だ。 駆除してやるよ。一匹、残らずな」


こうして、最弱の男は、最小の敵を相手に戦場へ向かった。

後に彼は、人類史に名を残すことになる。


吸血害虫戦争における、最初の英雄。


その名を


蚊絶対殺すマン


本人は、最後までその呼び名を嫌がったという。


*


十年後


人類は――敗北した。


敵は

小さすぎた。

多すぎた。

しぶとすぎた。


人類は思い知った。


地球は、人間だけのものではない。


どれだけ文明を築いても。

どれだけ都市を広げても。

どれだけ空を飛び、海を越え、月に旗を立てても。


夜中の三時


耳元で鳴る、あの音だけは止められなかった。


ぷぅぅぅぅぅん


その音は、敗北の鐘だった。


けれど


少しだけ変わった。


国境を越えて、網戸の規格は統一された。

貧しい国にも、清潔な寝具と医療が届けられた。

家畜小屋は改善され、野良犬や野良猫にも駆除薬が配られた。

森や湿地は破壊されるのではなく、管理されるようになった。

人は、水たまり一つを見ても、そこに命と病と暮らしがあることを考えるようになった。


戦争は、減った。

完全になくなったわけではない。


人間は、愚かだ。

すぐに忘れる。

すぐに争う。

すぐに自分だけが正しいと思い込む。


それでも


あの夏の夜を、人類は覚えていた。


王も

大統領も

兵士も

金持ちも

貧しい者も

老人も

子供も

犬も

猫も

牛も

馬も


全員が、同じように刺された夜を。

全員が、同じように痒がった夜を。

全員が、同じように眠れなかった夜を。


人類は、初めて知ったのだ。


苦しみは、時に人を分断する。


だが


あまりにも平等な苦しみは、人を一つにする。



人類は彼らを別の名で呼ぶようになった。


吸生種


血を吸い、生きる種


敵であり

災厄であり

地球に先にいた住人であり

そして、人類に忘れかけていたものを思い出させた存在。


人類は、敗北した。

けれど、負けたからこそ学んだ。


清潔とは、贅沢ではない。

安眠とは、権利である。

動物の痛みは、人間の痛みと地続きである。

地球上のどこかに放置された水たまりは、いつか世界中の問題になる。


誰かの痒みは、誰かだけの問題ではない。



晩年の羽音ミナトは、あるインタビューでこう語っている。


「私たちは、吸生種に勝てませんでした」


彼女は笑っていた。


悔しそうに。

けれど、どこか穏やかに。


「でも、彼らがいなければ、人類は今もバラバラだったかもしれません」


記者が問う。


「では、彼らは敵ではなかったと?」


ミナトは、少し考えてから答えた。


「敵でしたよ」


その時、彼女の首筋には小さな赤い腫れがあった。


ミナトはそれを指で掻きながら、苦笑した。


「今でも、心の底から憎いです」


そして、窓の外を見た。


夕暮れの街


公園で子供が笑い、犬が走り、猫が塀の上で眠っている。

その向こうでは、清掃員が側溝を掃除し、獣医が野良猫に薬をつけ、老人が庭の水桶をひっくり返していた。


ミナトは言った。


「だから、たぶん」


その時


耳元で、かすかな羽音がした。


ぷぅぅぅぅぅん


ミナトは反射的に両手を構えた。


世界を救った英雄の顔ではなかった。


ただの、刺されたくない人間の顔だった。


「本当の救世主は、彼等吸生種だったのかもしれません」


パンッ


乾いた音が、静かな部屋に響いた。


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