第2話 街角の出会い
昼の中華街は、夜とはまるで別の世界だった。
赤い提灯はただの飾りに戻り、店先からは甘い匂いが漂う。観光客の笑い声が響き、昨夜の戦いなど、最初から存在しなかったかのようだった。
マナは人混みの中をゆっくり歩いていた。
ステージ衣装ではない、淡い色のワンピース。
誰も彼女が“夜の歌姫”だとは気づかない。
「……少し、疲れたわね」
小さく呟き、立ち止まる。
歌い続けているはずなのに、胸の奥はどこか空っぽだった。
五年前からずっと。
拍手を浴びても、歓声を聞いても、心が震えない。
――わたし、どうして歌っているのかしら。
そのとき。
不意に、誰かと肩がぶつかった。
「あ……すみません」
顔を上げたマナの視線の先にいたのは、見覚えのない青年。
ソウだった。
「大丈夫? 怪我してない?」
真っ直ぐな声。
不思議と、警戒心が湧かない。
「ええ……ありがとう。あなたも」
一瞬、沈黙が落ちる。
初対面のはずなのに、どこか懐かしい空気。
マナは戸惑い、ソウは目を細めた。
「……変だな」
「なにが?」
「いや、なんでもない。……なんか、初めて会った気がしなくて」
その言葉に、マナの胸が小さく揺れる。
理由はわからない。
けれど、同じ感覚があった。
「ふふ……あなた、変わった人ね」
自然と笑みがこぼれた。
自分でも驚くほど、柔らかい笑顔だった。
ソウは一瞬、息を呑む。
「……君、そんなふうに笑うんだね」
「どういう意味かしら」
「いや……なんとなく、似合ってると思って」
照れたように視線を逸らすソウを見て、マナは小さく肩をすくめた。
心地よい沈黙。
通りのざわめきが、遠く感じる。
「お茶でも……どう?」
言葉が、自然に出た。
マナ自身も驚いていた。
こんなふうに誰かを誘ったことなど、最近はなかったから。
ソウは少し目を丸くしてから、穏やかに笑った。
「いいね。僕も、ちょっと休みたかったところだ」
*
路地裏の小さなカフェ。
窓から差し込む光が、二人の影をテーブルに落としていた。
会話は不思議なくらい途切れない。
好きな食べ物。
街の話。
取り留めのないことばかりなのに、時間だけが静かに流れていく。
「あなたみたいな人……初めてよ」
マナがぽつりと漏らした。
「僕も。こんなに話しやすい人、久しぶりかも」
また沈黙。
けれど、それは気まずさではなかった。
マナの胸の奥で、温かいものが灯り始める。
――どうして、こんなに落ち着くの?
ふと、頭の奥がちくりと痛んだ。
知らないはずの記憶。
笑い合う景色。
手を取り合う感覚。
けれど、それはすぐに霧のように消えてしまう。
「……どうしたの?」
「ううん。少し、ぼーっとしただけ」
マナは首を振り、笑顔を作った。
けれど、心の奥では別の声が囁いている。
――わたし、婚約者がいるはずなのに。
セイヤの顔が浮かぶ。
優しく、完璧で、何も疑う必要のない存在。
それなのに。
なぜか今、ここにいる時間の方が“本物”のように感じた。
*
同じ頃。
通りの反対側。
人混みに紛れて、セイヤが静かに二人を見つめていた。
無表情。
けれど指先だけが、わずかに震えている。
「……そうですか」
小さく呟く。
ポケットの中で、古びた写真がくしゃりと歪んだ。
写っているのは、笑い合う仲間たち。
その中央に、マナとソウが並んでいる。
セイヤはゆっくりと目を閉じた。
「……まだ、足りないようですね」
低い声。
次の瞬間、空気がわずかに揺らぐ。
見えない何かが、静かに書き換えられていく。
*
夕暮れ。
店を出たマナとソウは、並んで歩いていた。
言葉は少ない。
それでも、不思議と心は満たされている。
「また、会えるかな」
ソウが言う。
少しだけ不安そうに。
マナは一瞬迷い、そして小さく頷いた。
「……ええ」
本当は、言ってはいけない気がした。
誰にも知られてはいけないような感覚。
それでも。
この時間を手放したくなかった。
別れ際、マナはふと振り返る。
夕焼けの中で、ソウが手を振っていた。
その姿が、なぜか胸を締めつける。
理由はわからない。
けれど確かに、何かが動き始めていた。
夜の帳が降りるまで、あと少し。
物語は、静かに揺らぎ始めていた。




