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蒼天の鷹 ~源義経からジンギスカンへ 国を追われた英雄が、蒼き狼となって世界を変える物語~  作者: 双瞳猫
第三章 蝦夷地の神々

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北の大地を往く

 秋の深まりとともに、蝦夷地の森は極彩色の錦を纏(まと)い始めていた。

 燃えるような紅葉(もみじ)の赤、鮮やかなナナカマドの実、そして黄金色に輝く白樺の葉。

 だが、その美しさは、来るべき死の季節――冬への序章に過ぎなかった。


 義経一行は、アイヌの若者・ウレシパの先導で、内陸部を北へと進んでいた。

 冷気を含んだ風が、木々の梢を揺らし、乾いた音を立てる。

 足元には落ち葉が厚く積もり、踏みしめるたびにカサカサと音を立てた。

「寒いな……」

 亀井六郎が、熊の毛皮で作った外套(がいとう)をかき合わせながら呟いた。

 京の都の冬とは、質の違う寒さだった。肌を刺すような鋭さがあり、体の芯まで凍りつかせるような冷酷さがある。

「弱音を吐くな、亀井」

 駿河次郎が、軽快な足取りで追い抜きざまに言った。

「この程度でへばっていては、大陸など夢のまた夢だぞ」

「へばってなどおらん! ただ、腹が減っただけだ」

 亀井の腹が、雷鳴のように鳴った。

 一行の食料は尽きかけていた。干し肉は底をつき、ここ数日は木の実やキノコで飢えを凌いでいる。

 ウレシパが足を止め、鼻をひくつかせた。

 そして、地面を指差した。

 そこには、真新しい獣の足跡があった。

 蹄(ひづめ)の跡。鹿だ。

 ウレシパは義経たちに目配せし、静かに弓を構えた。


「狩りか」

 義経の目が光った。

 彼は駿河と亀井に指示を出した。

「駿河、お前は右へ。亀井、お前は左へ回れ。ウレシパ殿の邪魔をするなよ」

「承知!」

 二人は音もなく森の中へ消えた。

 義経と弁慶は、ウレシパの後ろに続き、気配を殺して進んだ。


 森の奥、開けた場所に出た。

 そこには、数頭のエゾシカの群れが、枯草を食(は)んでいた。

 立派な角を持つ雄鹿が、警戒するように首を上げ、周囲を見回している。

 ウレシパは風下から慎重に距離を詰める。

 その動きは、まるで風そのものだった。足音ひとつ立てず、草木の揺れに合わせて体を動かす。

 駿河と亀井も、左右から包囲網を狭めていた。

 だが、亀井が足元の枯れ枝を踏んでしまった。

 パキッ。

 乾いた音が、森の静寂を破った。

 雄鹿が弾かれたように顔を上げ、鋭い鳴き声を上げた。

 群れが一斉に走り出す。

「しまった!」

 亀井が飛び出し、矢を放つが、焦りからか狙いは逸れ、木の幹に突き刺さった。

 鹿たちは驚異的な速さで森の奥へと逃げていく。

「逃がすか!」

 駿河が俊足を飛ばして追いかけるが、鹿の脚力には及ばない。


 その時だった。

 ウレシパが、独特の口笛を吹いた。

 ヒュウッ、ヒュウッ。

 それは、猛禽類の鳴き声を模したものだった。

 鹿たちが一瞬、足を止めて空を見上げた隙を、彼は見逃さなかった。

 矢がつがえられ、放たれた。

 矢は吸い込まれるように雄鹿の首筋に突き刺さった。

 雄鹿は数歩よろめき、どうっと音を立てて倒れた。

 残りの鹿たちはパニックになり、散り散りに逃げ去った。


「見事だ……」

 義経は思わず声を漏らした。

 単に弓の腕が良いだけではない。獲物の習性を熟知し、一瞬の隙を作り出す技術。

 ウレシパは倒れた鹿に近づき、祈りを捧げた後、慣れた手つきで解体を始めた。

 亀井が頭を掻きながら近づいてきた。

「面目ない。俺のせいで……」

 ウレシパは亀井を見て、ニカっと笑った。そして、切り取ったばかりの鹿の心臓を差し出した。

 ――食え。

 そう言っているようだった。

 亀井は戸惑いながらも、それを受け取り、生のままかぶりついた。

「う、美味い……!」

 血の味が口いっぱいに広がったが、それは生命の味そのものだった。

 ウレシパは満足そうに頷き、駿河にも肉片を渡した。

 言葉は通じなくとも、同じ獲物を追い、同じ肉を食らうことで、男たちの間に奇妙な連帯感が生まれていた。


 その夜、焚き火を囲んでの宴となった。

 鹿肉の炙り焼きは、極上の馳走だった。

 脂が滴り落ち、香ばしい煙が立ち上る。

 義経は、ウレシパが矢に塗っていた毒について尋ねた。

 身振り手振りでの会話だったが、それがトリカブトの根から採った毒(アマッポ)であることを理解した。

「一撃で巨熊をも倒す毒か……」

 海尊が興味深そうに矢を観察する。

「殺生を忌む仏教とは相容れぬが、この過酷な地で生きるための知恵ですな」


 翌日も、その翌日も、旅と狩りの日々が続いた。

 義経は、ウレシパたちの狩りの方法を注意深く観察していた。

 彼らは決して無闇に矢を射ない。

 風を読み、地形を利用し、獲物を追い込む。

 ある時、ウレシパたちは数人で協力して、鹿の群れを谷間へと追い込んだ。

 出口には、あらかじめ毒矢を仕掛けた罠(アマッポ)が設置されている。

 逃げ場を失った鹿たちは、次々と罠にかかり、倒れていった。

 最小限の労力で、最大限の成果を上げる。

 それは、まさに軍事行動そのものだった。


「殿、何を見ておられますか?」

 時衡が、熱心にメモを取りながら尋ねた。

「彼らの狩りだ」

 義経は答えた。

「彼らは個々の武勇ではなく、集団の連携で獲物を狩る。それぞれの役割が決まっており、合図一つで意思疎通を図る。これは……」

 義経の脳裏に、かつて一ノ谷で平家を追い落とした時の光景が重なった。

 そして、ジャムカが語っていた草原の狩り(ネルゲ)の話。

 『獲物を一匹も逃すな。円を描いて包囲し、徐々に狭めていくのだ』

 点と点が線で繋がっていく感覚。

「使えるかもしれん」

 義経は独り言のように呟いた。

「この戦術は、戦(いくさ)にも応用できる。大軍を動かす時、個々の武勇に頼るのではなく、全体を一つの生き物のように動かす……」


 旅は順調に進んでいるように見えたが、自然は甘くはなかった。

 内陸部へ進むにつれ、寒さは日増しに厳しくなっていった。

 朝、起きると水筒の水が凍っていることが増えた。

 そして、空の色が変わった。

 鉛色の雲が低く垂れ込め、重苦しい空気が森を支配する。

「雪が来ますぞ」

 海尊が空を見上げて言った。古傷が痛むのか、膝をさすっている。

 ウレシパもまた、焦りの色を見せていた。

 彼は頻繁に北の空を指差し、急ぐように促した。

 ――海が凍る。

 その言葉にならない警告が、一行の背中を押した。


 ある日の夕暮れ。

 一行は、北の果てに近いノ・テトゥの岬(宗谷岬)の上に立った。

 眼下には、果てしなく続く灰色の海原が広がっていた。

 左手、西の方角には、荒波が牙を剥く日本海。そして右手、東の方角には、鉛色の空を映したオホーツク海――アイヌたちが「ポロ・アトゥイ(大いなる海)」と呼ぶ、凍てつく海である。

 二つの海が交じり合うこの岬の先は、潮の流れが複雑に渦を巻き、白い飛沫(しぶき)を上げている。

「あれが……北の果てか」

 片岡常春が、息を白く吐きながら言った。

 快晴であれば、その海の彼方、水平線の向こうに島影が見えるはずであった。

 アイヌたちが「カラフト(樺太)」と呼ぶ、未知の大地である。

 だが、海は荒れ狂い、渡るための船も見当たらない。

「どうするのです、殿」

 弁慶が尋ねた。

「このままでは、ここで冬を迎えることになります。そうなれば、我らは……」

 全滅する。

 言葉にしなくても、全員が理解していた。

 食料は尽きかけ、防寒具も不十分。この極寒の地で冬を越す術を、彼らは持たない。


 義経は海を見つめたまま、動かなかった。

 その背中には、焦りや絶望ではなく、静かな決意が漂っていた。

「渡るぞ」

 義経は言った。

「海が完全に凍るのを待っていては、体力が持たん。流氷が押し寄せる前、あの一瞬の凪(なぎ)を狙って渡る」

「しかし、船が……」

 時衡が不安げに言う。

 ウレシパが、海岸の一角を指差した。

 そこには、流木や獣皮で作られた粗末な小屋があり、数艘の丸木舟がひっくり返されていた。

 アイヌの漁師たちが使う、夏場だけの仮小屋のようだ。

「あれを使う」

 義経は断言した。

「修理し、補強すれば、渡れるはずだ」


 その夜、初雪が降った。

 音もなく降り積もる白い悪魔。

 それは、世界を白一色に染め上げ、彼らの退路を完全に断ち切った。

 もう、後戻りはできない。

 前へ進むしかない。

 義経は、舞い落ちる雪を掌で受け止め、握りしめた。

 冷たい。

 だが、その冷たさが、彼の闘志に火をつけた。

「行くぞ、皆の者。氷の回廊が、我らを待っている」


 ウレシパとの別れの時が来た。

 彼はここまでしか案内できないという。

 駿河次郎は、自分の愛用していた小刀をウレシパに渡した。

 亀井六郎は、力強くウレシパを抱きしめた。

 言葉は通じなかったが、心は通じ合っていた。

 ウレシパは、何かを叫びながら、雪の中を去っていった。

 ――生きろ。

 そう聞こえた気がした。


 義経一行は、雪に覆われた海岸へと降りていった。

 そこには、地獄のような寒さと、未知なる大陸への希望が待っていた。

 伝説の「北行」は、いよいよ佳境を迎えようとしていた。


(第3章 完)

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