北の大地を往く
秋の深まりとともに、蝦夷地の森は極彩色の錦を纏い始めていた。
燃えるような紅葉の赤、鮮やかなナナカマドの実、そして黄金色に輝く白樺の葉。
だが、その美しさは、来るべき死の季節――冬への序章に過ぎなかった。
義経一行は、アイヌの若者・ウレシパの先導で、内陸部を北へと進んでいた。
冷気を含んだ風が、木々の梢を揺らし、乾いた音を立てる。
足元には落ち葉が厚く積もり、踏みしめるたびにカサカサと音を立てた。
「寒いな……」
亀井六郎が、熊の毛皮で作った外套をかき合わせながら呟いた。
京の都の冬とは、質の違う寒さだった。肌を刺すような鋭さがあり、体の芯まで凍りつかせるような冷酷さがある。
「弱音を吐くな、亀井」
駿河次郎が、軽快な足取りで追い抜きざまに言った。
「この程度でへばっていては、大陸など夢のまた夢だぞ」
「へばってなどおらん! ただ、腹が減っただけだ」
亀井の腹が、雷鳴のように鳴った。
一行の食料は尽きかけていた。干し肉は底をつき、ここ数日は木の実やキノコで飢えを凌いでいる。
ウレシパが足を止め、鼻をひくつかせた。
そして、地面を指差した。
そこには、真新しい獣の足跡があった。
蹄の跡。鹿だ。
ウレシパは義経たちに目配せし、静かに弓を構えた。
「狩りか」
義経の目が光った。
彼は駿河と亀井に指示を出した。
「駿河、お前は右へ。亀井、お前は左へ回れ。ウレシパ殿の邪魔をするなよ」
「承知!」
二人は音もなく森の中へ消えた。
義経と弁慶は、ウレシパの後ろに続き、気配を殺して進んだ。
森の奥、開けた場所に出た。
そこには、数頭のエゾシカの群れが、枯草を食んでいた。
立派な角を持つ雄鹿が、警戒するように首を上げ、周囲を見回している。
ウレシパは風下から慎重に距離を詰める。
その動きは、まるで風そのものだった。足音ひとつ立てず、草木の揺れに合わせて体を動かす。
駿河と亀井も、左右から包囲網を狭めていた。
だが、亀井が足元の枯れ枝を踏んでしまった。
パキッ。
乾いた音が、森の静寂を破った。
雄鹿が弾かれたように顔を上げ、鋭い鳴き声を上げた。
群れが一斉に走り出す。
「しまった!」
亀井が飛び出し、矢を放つが、焦りからか狙いは逸れ、木の幹に突き刺さった。
鹿たちは驚異的な速さで森の奥へと逃げていく。
「逃がすか!」
駿河が俊足を飛ばして追いかけるが、鹿の脚力には及ばない。
その時だった。
ウレシパが、独特の口笛を吹いた。
ヒュウッ、ヒュウッ。
それは、猛禽類の鳴き声を模したものだった。
鹿たちが一瞬、足を止めて空を見上げた隙を、彼は見逃さなかった。
矢がつがえられ、放たれた。
矢は吸い込まれるように雄鹿の首筋に突き刺さった。
雄鹿は数歩よろめき、どうっと音を立てて倒れた。
残りの鹿たちはパニックになり、散り散りに逃げ去った。
「見事だ……」
義経は思わず声を漏らした。
単に弓の腕が良いだけではない。獲物の習性を熟知し、一瞬の隙を作り出す技術。
ウレシパは倒れた鹿に近づき、祈りを捧げた後、慣れた手つきで解体を始めた。
亀井が頭を掻きながら近づいてきた。
「面目ない。俺のせいで……」
ウレシパは亀井を見て、ニカっと笑った。そして、切り取ったばかりの鹿の心臓を差し出した。
――食え。
そう言っているようだった。
亀井は戸惑いながらも、それを受け取り、生のままかぶりついた。
「う、美味い……!」
血の味が口いっぱいに広がったが、それは生命の味そのものだった。
ウレシパは満足そうに頷き、駿河にも肉片を渡した。
言葉は通じなくとも、同じ獲物を追い、同じ肉を食らうことで、男たちの間に奇妙な連帯感が生まれていた。
その夜、焚き火を囲んでの宴となった。
鹿肉の炙り焼きは、極上の馳走だった。
脂が滴り落ち、香ばしい煙が立ち上る。
義経は、ウレシパが矢に塗っていた毒について尋ねた。
身振り手振りでの会話だったが、それがトリカブトの根から採った毒であることを理解した。
「一撃で巨熊をも倒す毒か……」
海尊が興味深そうに矢を観察する。
「殺生を忌む仏教とは相容れぬが、この過酷な地で生きるための知恵ですな」
翌日も、その翌日も、旅と狩りの日々が続いた。
義経は、ウレシパたちの狩りの方法を注意深く観察していた。
彼らは決して無闇に矢を射ない。
風を読み、地形を利用し、獲物を追い込む。
ある時、ウレシパたちは数人で協力して、鹿の群れを谷間へと追い込んだ。
出口には、あらかじめ毒矢を仕掛けた罠が設置されている。
逃げ場を失った鹿たちは、次々と罠にかかり、倒れていった。
最小限の労力で、最大限の成果を上げる。
それは、まさに軍事行動そのものだった。
「殿、何を見ておられますか?」
時衡が、熱心にメモを取りながら尋ねた。
「彼らの狩りだ」
義経は答えた。
「彼らは個々の武勇ではなく、集団の連携で獲物を狩る。それぞれの役割が決まっており、合図一つで意思疎通を図る。これは……」
義経の脳裏に、かつて一ノ谷で平家を追い落とした時の光景が重なった。
そして、ジャムカが語っていた草原の狩り(ネルゲ)の話。
『獲物を一匹も逃すな。円を描いて包囲し、徐々に狭めていくのだ』
点と点が線で繋がっていく感覚。
「使えるかもしれん」
義経は独り言のように呟いた。
「この戦術は、戦にも応用できる。大軍を動かす時、個々の武勇に頼るのではなく、全体を一つの生き物のように動かす……」
旅は順調に進んでいるように見えたが、自然は甘くはなかった。
内陸部へ進むにつれ、寒さは日増しに厳しくなっていった。
朝、起きると水筒の水が凍っていることが増えた。
そして、空の色が変わった。
鉛色の雲が低く垂れ込め、重苦しい空気が森を支配する。
「雪が来ますぞ」
海尊が空を見上げて言った。古傷が痛むのか、膝をさすっている。
ウレシパもまた、焦りの色を見せていた。
彼は頻繁に北の空を指差し、急ぐように促した。
――海が凍る。
その言葉にならない警告が、一行の背中を押した。
ある日の夕暮れ。
一行は、北の果てに近いノ・テトゥの岬(宗谷岬)の上に立った。
眼下には、果てしなく続く灰色の海原が広がっていた。
左手、西の方角には、荒波が牙を剥く日本海。そして右手、東の方角には、鉛色の空を映したオホーツク海――アイヌたちが「ポロ・アトゥイ(大いなる海)」と呼ぶ、凍てつく海である。
二つの海が交じり合うこの岬の先は、潮の流れが複雑に渦を巻き、白い飛沫を上げている。
「あれが……北の果てか」
片岡常春が、息を白く吐きながら言った。
快晴であれば、その海の彼方、水平線の向こうに島影が見えるはずであった。
アイヌたちが「カラフト(樺太)」と呼ぶ、未知の大地である。
だが、海は荒れ狂い、渡るための船も見当たらない。
「どうするのです、殿」
弁慶が尋ねた。
「このままでは、ここで冬を迎えることになります。そうなれば、我らは……」
全滅する。
言葉にしなくても、全員が理解していた。
食料は尽きかけ、防寒具も不十分。この極寒の地で冬を越す術を、彼らは持たない。
義経は海を見つめたまま、動かなかった。
その背中には、焦りや絶望ではなく、静かな決意が漂っていた。
「渡るぞ」
義経は言った。
「海が完全に凍るのを待っていては、体力が持たん。流氷が押し寄せる前、あの一瞬の凪を狙って渡る」
「しかし、船が……」
時衡が不安げに言う。
ウレシパが、海岸の一角を指差した。
そこには、流木や獣皮で作られた粗末な小屋があり、数艘の丸木舟がひっくり返されていた。
アイヌの漁師たちが使う、夏場だけの仮小屋のようだ。
「あれを使う」
義経は断言した。
「修理し、補強すれば、渡れるはずだ」
その夜、初雪が降った。
音もなく降り積もる白い悪魔。
それは、世界を白一色に染め上げ、彼らの退路を完全に断ち切った。
もう、後戻りはできない。
前へ進むしかない。
義経は、舞い落ちる雪を掌で受け止め、握りしめた。
冷たい。
だが、その冷たさが、彼の闘志に火をつけた。
「行くぞ、皆の者。氷の回廊が、我らを待っている」
ウレシパとの別れの時が来た。
彼はここまでしか案内できないという。
駿河次郎は、自分の愛用していた小刀をウレシパに渡した。
亀井六郎は、力強くウレシパを抱きしめた。
言葉は通じなかったが、心は通じ合っていた。
ウレシパは、何かを叫びながら、雪の中を去っていった。
――生きろ。
そう聞こえた気がした。
義経一行は、雪に覆われた海岸へと降りていった。
そこには、地獄のような寒さと、未知なる大陸への希望が待っていた。
伝説の「北行」は、いよいよ佳境を迎えようとしていた。
(第3章 完)




