海鳴りの記憶(回想)
津軽の海は、鉛色の空を映して重く沈んでいた。
峠を越え、十三湊の賑わいを避けてさらに北へ。
義経一行は、本州の北端、三厩の海岸に辿り着いていた。
荒涼とした砂浜には、打ち上げられた流木や海藻が散乱し、冷たい海風が吹き荒れている。
波が岩に砕ける音が、雷鳴のように轟いていた。
岩場には「龍馬石」と呼ばれる奇岩が鎮座し、波飛沫を浴びて黒々と光っている。まるで、これから海を渡る者たちを見定めるかのような威容であった。
「ここが、北の果てか……」
時衡が、強風に煽られる直垂を押さえながら呟いた。
その顔には、疲労の色と共に、未知の世界への畏怖が浮かんでいる。平泉の雅な都で育った彼にとって、この荒々しい自然は、世界の終わりのように見えたのかもしれない。
だが、義経は違った。
彼は波打ち際に立ち、じっと水平線を見つめていた。
その瞳には、現在の荒波ではなく、遠い過去の景色が映っているようだった。
「殿」
弁慶が、大きな体を屈めるようにして近づいてきた。
「懐かしゅうございますな。この海は」
「ああ……」
義経は短く応えた。
「あの時も、こんな風だった。空は低く、海は荒れていた」
義経の脳裏に、十五年前の記憶が鮮やかに蘇る。
まだ「遮那王」と呼ばれていた頃。
鞍馬山を抜け出し、金売吉次の手引きで奥州藤原氏を頼って旅をしていた十六歳の夏のことだ。
***
――承安四年(1174年)、夏。
日本海沿岸の小さな漁村。
若き日の義経――遮那王は、浜辺で奇妙な光景を目撃した。
村の子供たちが、一人の少年を取り囲んで石を投げている。
少年は異様な風体をしていた。
髪は左右で結い上げられ、獣の皮を継ぎ接ぎしたような衣服をまとっている。その顔立ちは平たく、目は切れ長で、どこか猛禽類を思わせる鋭さがあった。言葉は通じず、ただ獣のように唸り声を上げて威嚇していた。
「やめぬか!」
遮那王は割って入り、子供たちを追い払った。
少年は警戒心を露わにし、遮那王を睨みつけた。その目は、飢えた狼のように鋭く、しかしどこか誇り高かった。
それが、ジャムカとの出会いだった。
少年は、大陸から流されてきた難破船の生き残りだった。
言葉は通じなかったが、二人はすぐに惹かれ合った。
きっかけは、些細な喧嘩だった。
浜辺での取っ組み合い。
遮那王は鞍馬で鍛えた身軽さを、ジャムカは草原で培った野性的な力強さをぶつけ合った。
砂浜に足を取られながら、二人は何度も組み合い、投げられ、転がった。
ジャムカの力は凄まじかった。小柄な体からは想像もつかないほどの膂力で、遮那王を締め上げる。だが、遮那王も負けてはいない。天狗に習ったとされる軽業のような動きで、ジャムカの背後に回り込み、足を払う。
夕日が海に沈む頃、二人は大の字になって砂浜に倒れ込んでいた。
全身砂まみれで、息は上がり、あちこちに擦り傷を作っていたが、不思議と痛みは感じなかった。
互いの顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。
拳で語り合う言葉こそが、彼らの共通言語だった。
「お前、強いな」
遮那王が日本語で言うと、ジャムカは分かったようにニカっと笑い、自分の胸を叩いて言った。
「ジャムカ」
「ジャムカ……俺は、遮那王だ」
「シャナオウ」
ジャムカは不器用にその名を復唱した。
それからの数日間、二人は兄弟のように過ごした。
魚を突き、流木を集めて火を焚き、星空を見上げた。
ジャムカは砂浜に木の枝で絵を描き、自分の故郷について語った。
果てしなく広がる緑の海(草原)。
風のように駆ける馬の群れ。
そして、天を突くような高い山々。
遮那王は、その拙い絵物語に魅了された。
狭い日本という国に閉じ込められ、平家という巨大な敵に怯えて暮らす自分とは違う、自由で広大な世界がそこにはあった。
ジャムカは身振り手振りで、草原の掟や戦い方を教えた。
馬に乗って弓を射る真似をし、獲物を追い込む戦術を砂の上に描いて見せた。それは、遮那王が学んできた日本の兵法とは全く異なる、合理的でダイナミックなものだった。
「いつか、俺もそこへ行きたい」
遮那王が言うと、ジャムカは真剣な眼差しで頷き、空を指差した。
そこには、一羽の鷹が悠然と舞っていた。
ジャムカは鷹を指差し、次に自分を、そして遮那王を指差した。
――俺たちは、あの鷹のように自由だ。
そう言っているように思えた。
別れの時は、唐突に訪れた。
大陸へ戻る商船が見つかったのだ。
船出の朝、ジャムカは遮那王に小さな短剣を差し出した。
柄には、狼の意匠が彫り込まれている。粗野な作りだが、鉄の質は良く、鋭い輝きを放っていた。
遮那王は代わりに、大切にしていた守り刀を渡した。
「アンダ」
ジャムカはそう言い、自らの親指を短剣で傷つけ、血を滲ませた。そして、遮那王の手を取り、同じように傷をつけると、互いの血を混ぜ合わせた。
後に知ったことだが、それは蒙古の風習で「義兄弟」の契りを意味する言葉だった。
「アンダ……」
遮那王も繰り返した。血の味が、鉄の味が、口の中に広がった。
船が岸を離れる時、ジャムカは叫んだ。
言葉の意味は分からなかったが、その魂の叫びは遮那王の心に深く刻まれた。
――生きろ。そして、いつか王となって再会しよう。
***
「殿?」
弁慶の声で、義経は我に返った。
海風が、頬を濡らす涙を乾かしていく。
「……あいつは、言ったのだ。『アンダ』と」
義経は懐から、古びた短剣を取り出した。
十五年間、肌身離さず持っていた狼の短剣。柄は手垢で黒光りし、刃は何度も研ぎ直されて痩せ細っているが、その輝きは失われていない。
一ノ谷の合戦でも、屋島の戦いでも、壇ノ浦でも、この短剣は常に義経の懐にあった。兄に疎まれ、追われる身となっても、これだけは手放さなかった。
「アンダ、とは?」
時衡が問う。
「蒙古の言葉で、義兄弟という意味らしい。血よりも濃い絆で結ばれた友のことだ」
義経は短剣を握りしめ、北の空を見上げた。
「あいつは今も、あの空の下で戦っているはずだ。王になると誓ったのだからな」
その言葉には、確信めいた響きがあった。
自分と同じように、ジャムカもまた、過酷な運命と戦い続けているに違いないという共鳴。
そして、義経の中で何かが弾けた。
これまで彼を縛り付けていた、源氏の血、兄への愛憎、日本という国への未練。それらが、潮騒と共に洗い流されていくようだった。
「殿もまた、王となられるお方」
海尊が静かに言った。
「この日本という狭い籠は、殿には小さすぎました。天は、殿をより大きな舞台へと導こうとしているのかもしれませぬ」
「大きな舞台、か……」
義経は苦笑した。
「今はただの逃亡者だ。だが……」
彼は視線を海へと戻した。
荒れ狂う波の向こうに、蝦夷地が、そしてその先の大陸が待っている。
「行ってみたいのだ。あいつが描いた、あの緑の海を。馬で駆け抜ける、風の世界を」
義経の瞳に、新たな光が宿った。
それは、追われる者の怯えではなく、未知への冒険に挑む少年の輝きだった。
兄・頼朝への復讐心も、平家を滅ぼした過去の栄光も、この荒涼とした海の前では色褪せて見えた。
ここにあるのは、未来だけだ。
かつてジャムカと見上げた鷹のように、自由に空を飛ぶための翼が、今まさに背中に生えようとしていた。
「舟を出そう」
義経は振り返り、家臣たちに告げた。その声は、嵐の音にも負けないほど力強かった。
「嵐が来るぞ」
亀井六郎が空を見上げて言った。
黒雲が渦を巻き、風が唸りを上げている。海面は白波が立ち、小舟などひとたまりもないように見える。
「構わん。嵐こそ、我らの船出に相応しい」
義経は笑った。
その笑顔は、かつてジャムカと取っ組み合いをした時のように、無邪気で力強かった。
「待っていろ、ジャムカ。今、行くぞ」
義経は短剣を腰に収めると、真っ先に波打ち際へと歩き出した。
その背中を見て、家臣たちも覚悟を決める。
時衡は、震える手で秀安の肩を支えながら、義経の背中を眩しそうに見つめた。
この人は、どこまでも行くのだ。
地の果てまでも。
そして自分も、その旅路の果てを見届けたいと、強く願った。
秀安もまた、痛む肩を押さえながら、不敵な笑みを浮かべた。
「地獄の底まで、お供つかまつる」
波濤が砕け散る。
その飛沫は、彼らを祝福する聖水のようでもあり、これから始まる苦難の前触れのようでもあった。
伝説の幕が、再び上がろうとしていた。
北へ。
蒼き狼たちが待つ、あの大陸へ。
(第2章 完)




