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蒼天の鷹 ~源義経からジンギスカンへ 国を追われた英雄が、蒼き狼となって世界を変える物語~  作者: 双瞳猫
第二章 北行の道

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峠の死闘

 雨は、三日三晩降り続いた。

 岩鷲山がんじゅさん(今の岩手山)から出羽いでは国境くにざかいへと続く尾根道は、泥濘ぬかるみと化していた。 一行の疲労は限界を超えていた。みのは水を吸って鉛のように重く、草鞋わらじは擦り切れて血が滲んでいる。だが、足を止めることは許されない。

 背後には、常に死の気配がつきまとっていたからだ。


「殿、この先が峠でございます」

 先頭の海尊が、雨に煙る前方を指差した。

 切り立った崖に挟まれた、隘路あいろのような峠道。そこを越えれば、津軽へと続く下り坂になるはずだ。

「あそこを越えれば……」

 時衡がうわごとのように呟き、よろめいた。

 秀安が慌ててその腕を掴む。

「しっかりなされよ、時衡様。あと一息だ」

 秀安自身も顔色は土気色だったが、その瞳には武士としての意地が燃えていた。


 その時だった。

 ヒュンッ!

 鋭い風切り音が雨音を切り裂き、海尊の足元の岩を砕いた。

「伏せろッ!」

 義経の鋭い叫びと同時に、一行は泥の中に身を投げ出した。

 直後、数本の矢が頭上を掠めていく。

「見つけたぞ! 九郎判官だ!」

「逃がすな! 鎌倉殿の御為おんために、首を挙げよ!」

 峠の岩陰から、武者たちが姿を現した。

 濡れた鎧が鈍い光を放っている。その数、およそ三十。駿河次郎が察知していた追手の一部が、先回りして待ち伏せていたのだ。


「片岡! 亀井! 前を固めろ!」

 義経が泥まみれの顔を上げ、指示を飛ばす。

 片岡太郎はすでに弓を構えていた。雨で弦が緩むのを防ぐため、懐で温めていた予備の弦に素早く張り替える。

「雨中の弓など、あたるものか!」

 敵の一人が嘲笑いながら突っ込んでくる。

 だが、片岡の目は静かな湖面のように凪いでいた。

 キリリと引き絞られた弦が鳴る。

 放たれた矢は、雨粒を弾き飛ばしながら一直線に飛び、敵兵の喉元を貫いた。

「がっ……」

 男は声もなく崩れ落ちる。

「なっ……この雨の中で!」

 敵兵たちが動揺した隙を見逃さず、亀井六郎が躍り出た。

「うおおおおッ!」

 咆哮と共に金砕棒が一閃する。

 先頭の敵兵が、鎧ごと吹き飛ばされ、後続の二人を巻き込んで崖下へと転落していった。

「化け物か……!」


「怯むな! 多勢に無勢だ、押し包め!」

 敵の指揮官らしき男が叫ぶ。

 三十騎の武者たちが、半円を描くように展開し、じりじりと距離を詰めてくる。

 義経は「薄緑」を抜き放ち、時衡の前に立った。

「時衡、私の背中から離れるな」

「は、はい!」

 時衡は腰の太刀を抜こうとするが、手が震えて鞘から抜けない。

 その横で、秀安が静かに太刀を構えた。

 平泉で作られた業物わざものだ。その切っ先は、微動だにせず敵を見据えている。

「時衡様には指一本触れさせぬ。平泉の武士の意地、見せてくれるわ!」


 乱戦が始まった。

 狭い峠道は、たちまち修羅場と化した。

 弁慶の薙刀が旋風を巻き起こし、敵を寄せ付けない。亀井の金砕棒が岩を砕き、骨を砕く。

 だが、敵もさるもの。鎌倉の精鋭たちは、死を恐れずに波状攻撃を仕掛けてくる。

「ぐっ!」

 秀安が呻いた。

 敵の槍が、秀安の肩当ての隙間を突き、浅くない傷を負わせたのだ。

「秀安!」

 時衡が悲鳴を上げる。

 秀安は膝をつきかけたが、歯を食いしばって踏みとどまった。

「まだだ……このようなところで、まだ死ねん!」

 彼は血走った目で槍の柄を掴み、強引に引き寄せると、逆袈裟に敵を斬り伏せた。

 鮮血が雨に混じって飛び散る。


 義経は冷静に戦況を見極めていた。

 個々の武勇ではこちらが勝る。だが、数は圧倒的に不利だ。長引けば、疲労の蓄積しているこちらが不利になる。

(一気に決めるしかない)

 義経の視線が、敵の後方で指揮を執る男を捉えた。

「駿河! あの指揮官を攪乱かくらんしろ!」

「御意!」

 駿河次郎が岩場を駆け上がり、敵の側面へと回り込む。

 同時に、義経は片岡に目配せを送った。

 長年の戦友である二人に、言葉は要らない。

 片岡は即座に狙いを指揮官に変えた。

 駿河が投げたつぶてが指揮官の馬を驚かせ、馬が竿立ちになる。

 その一瞬の隙。

 片岡の矢が、指揮官の兜の吹き返しを貫き、頭部を直撃した。


「隊長が!」

 指揮系統を失った敵兵たちの足並みが乱れる。

「今だ! 突き崩せ!」

 義経が先頭に立って突撃した。

 神速の剣技。

 雨滴すら斬るような鋭い太刀筋が、次々と敵兵を無力化していく。

 だが、義経はとどめを刺さなかった。

 手首を返し、峰打ちや、鎧の隙間を突いて戦闘不能にするに留めている。

「殺すな! 追い払えばよい!」

 義経の叫びに、殺気立っていた亀井や秀安が一瞬動きを止めた。

「殿! 情けは無用ですぞ!」

 亀井が叫ぶが、義経は譲らない。

「我らは亡霊だ! 亡霊が死体を残してどうする! これ以上、無益な血を流すな!」


 指揮官を失い、義経たちの鬼神の如き強さに恐れをなした敵兵たちは、一人、また一人と逃げ出した。

 やがて、峠には静寂が戻った。

 雨音だけが、激闘の余韻を洗い流すように降り続いている。


「……終わったか」

 弁慶が薙刀を杖にして、大きく息を吐いた。

 その体からは湯気が立ち上っている。

「秀安殿! 大丈夫ですか!」

 時衡が秀安に駆け寄る。

 秀安は岩に背を預け、肩の傷を押さえていた。指の間から血が溢れている。

「かすり傷です……時衡様にはご無事で何より」

 海尊がすぐに駆け寄り、手際よく傷口を確認した。

「骨までは達しておりませぬが、出血が多い。すぐに手当てを」

 海尊は懐から薬草を取り出し、噛み砕いて傷口に当て、布で強く縛った。


 義経は、逃げ去った敵兵の方角を見つめながら、刀の血糊を拭った。

「殿」

 片岡が近づいてきた。

「なぜ、とどめを刺さなかったのですか。あやつらが生きて戻れば、また追手が来ますぞ」

 義経は静かに首を振った。

「殺せば、怨みが残る。怨みは新たな追手を呼ぶ。それに……」

 義経は、雨に濡れた自分の手を見つめた。

「私はもう、兄上のために人を殺したくはないのだ」

 その言葉には、かつての源氏の総大将としての苦悩と、そこから解き放たれようとする一人の人間の決意が込められていた。

 片岡は黙って頭を下げた。


「立てるか、秀安」

 義経が声をかけると、秀安は苦痛に顔を歪めながらも頷いた。

「はい……足手まといにはなりませぬ」

「無理はするな。だが、ここには長居できん。血の匂いに獣が寄ってくる」

 義経は時衡を見た。

「時衡、秀安の肩を貸してやれ。ここからは、お前が支える番だ」

「はい!」

 時衡は秀安の無事な方の腕を自分の肩に回し、しっかりと腰を抱いた。

 その目には、守られるだけの弱者の色はなく、仲間を支える強さが芽生えていた。


 一行は再び歩き出した。

 峠を越えると、雨雲の切れ間から、微かに北の空が明るんで見えた。

 その先には、津軽の海が待っている。

 かつて、少年時代の義経が、異国の友と出会った海が。


 義経の胸に、懐かしい記憶が蘇りつつあった。

 潮の匂い。

 言葉の通じない少年との取っ組み合い。

 そして、別れ際に交わした約束。

(あいつは……生きているだろうか)

 遠い記憶の中の少年の笑顔が、雨上がりの空に重なるようだった。

 義経の足取りは、疲労とは裏腹に、どこか軽やかになっていた。

 過去と未来が交錯する場所へ、彼は一歩ずつ近づいていたのである。


***


 文治五年(一一八九年)六月十三日、鎌倉

梅雨の晴れ間が覗くものの、湿った風が鶴岡八幡宮の森を揺らしていた。

 腰越の浜で検分された首桶が、和田義盛と梶原景時によって御所へと運び込まれたのである。


 大広間には、重苦しい沈黙が満ちていた。

 上座に座した源頼朝は、身じろぎもせず、目の前に置かれた黒漆の桶を見下ろしている。

 家人たちは皆、畳の目さえ数えぬほど深く平伏し、頼朝の言葉を待っていた。誰もが「その名」を口にすることを恐れているかのようだった。

「……開けよ」

 頼朝の声は低く、乾いていた。

 梶原景時が恭しく桶の蓋を取り、白布をはらう。


 そこには、腐敗が進み、土気色に変色した首があった。

 酒に浸され、死化粧を施されてはいるが、長い道中と暑気がその相貌を歪ませている。

 だが――頼朝は一目で悟った。

(これは、九郎ではない)

 頬の骨格。鼻梁の角度。耳朶の形。

 「弟」の面影は、そこに一片もない。

 泰衡め、偽物を送りつけてきおったか。あるいは、九郎自身が身代わりを用意したか。


 頼朝の眉がわずかに動いたのを、景時は見逃さなかった。

 だが、景時は何も言わない。他の御家人たちも、頼朝の顔色だけを窺っている。

 誰も「違う」とは言わない。言えないのだ。

「景時」

「はっ」

「……相違ないか」

 頼朝の問いに、景時は一瞬の間を置き、深く頭を下げた。

「討手より、九郎判官義経の首級、相違なく――との由にございます」

 頼朝は、視線を首から離さずに言った。

「相違なく、か」


 言葉は平静だった。だが、心の底では冷ややかな声が嗤っていた。

(相違だらけよ。……だが、それでよい)

 頼朝は、ふと、胸の奥が痛むのを覚えた。

 かつて黄瀬川で涙ながらに対面した弟。一ノ谷、屋島、壇ノ浦で奇跡のような勝利をもたらした天才。

 平家を滅ぼしたのは源氏だ。だが、その源氏の名を天下に轟かせたのは、間違いなくあの弟の武だった。

(生きていれば、いつか必ず、また兵を呼ぶ)

(呼ばぬつもりでも、周りが呼ぶ。担ぎ上げる)

 それは怨みではない。頼朝にとっては、避けられぬ現実だった。

 まつりごとという名の刃は、情を許した者から先に斬り捨ててゆく。


 頼朝はゆっくりと目を伏せた。

 この首が偽りであることを、ここで暴けばどうなる。

 「義経は生きている」と天下に宣言するに等しい。

 京はざわめき、奥州は揺れ、諸国の源氏の残党は色めき立つだろう。そして鎌倉は、また終わりのない戦火に巻き込まれる。

 戦になれば、死ぬのは弟だけではない。

 鎌倉の武士も、領民も、これから築くはずの秩序も――すべてが血に沈む。

(ならば、ここで終わらせる)

 頼朝は顔を上げた。

 その眼は、氷のように澄んでいた。

「首実検、済んだものとせよ」

 ざわり、と広間の空気が揺れた。

 誰もが救われたように息を吐き、同時に誰もが、頼朝の言葉の裏に潜むものを悟って背筋を硬くした。


 頼朝はさらに言い添える。

「義経のことは、これにて決着。追捕の沙汰は、ここまでとする」

「今後、九郎判官の名を口にする者あらば――騒乱の芽として処断する」

「ははっ! 仰せのままに!」

 景時をはじめ、御家人たちが一斉に平伏する。

 頼朝は、最後にもう一度だけ首を見た。

 偽物の顔の向こうに、ありえぬほど鮮明な弟の屈託のない笑みが浮かんだ気がした。

 頼朝は、それを心の内で踏み潰した。

(九郎。生きるなら、生きよ)

(だが……二度と、鎌倉には戻るな)

(お前は死んだのだ。源氏の英雄として、そして謀反人として)

 そして、己に言い聞かせるように、静かに息を吐いた。


 雨上がりの空から、一筋の光が差し込んでくる。

 だが、鎌倉の決裁は下った。

 ――義経は死んだ。

 そういう世が、今日から始まるのである。


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