山中の潜行
文治五年(一一八九年)閏四月三十日、平泉。
衣川の館が炎に包まれてから半日が過ぎても、焦げ臭い煙はまだ空を覆っていた。
高館の焼け跡に、藤原泰衡の姿があった。
彼は黒焦げになった柱の前に立ち、足元に転がる黒い塊を見下ろしている。それは、猛火に焼かれ、原形を留めぬほど損壊した遺体であった。
「……これで、間違いないというのか」
泰衡の声は震えていた。
側近の家臣が、恐る恐る進み出る。
「はっ。判官殿の鎧直垂を纏っておりましたゆえ、ご本人かと……」
「愚か者!」
泰衡が怒鳴り声を上げた。
「鎧など、誰に着せても同じことよ! 顔を見よ、顔を! これが源九郎義経に見えるか!」
家臣は青ざめて押し黙った。
泰衡は苛立ちを隠せず、遺体を蹴りつけた。
義経は死んだ。そう信じたかった。だが、焼け跡から見つかった遺体はあまりにも数が少なく、そして肝心の「首」が判別できない状態だったのだ。
(逃げたか……九郎)
泰衡の背筋に冷たいものが走った。
もし義経が生きていれば、鎌倉の頼朝はどう出るか。「討ち漏らした」と知れれば、今度こそ奥州藤原氏は滅ぼされる。
「……首を」
泰衡は低い声で命じた。
「首を整えよ。酒に浸し、腐敗を装い、誰の顔かも分からぬようにして鎌倉へ送るのだ」
「は、はい! しかし、中身は……」
「誰でもよい! 年格好の似た死体を探せ! 鎌倉殿が望んでいるのは『義経の死』という事実だけだ。真偽などどうでもよい!」
泰衡は血走った目で北の空を睨んだ。
***
一方、平泉の北、衣川の関所付近。
ここにもまた、別の「狩人」たちが集結していた。
彼らの鎧は、平泉の煌びやかなそれとは異なり、無骨で実戦的な坂東風の作りである。
鎌倉から派遣された、頼朝直属の隠密部隊であった。
「平泉の動きが慌ただしいな」
隊長格の男が、馬上で顎をしゃくった。
「どうやら、獲物は網を食い破ったようだ」
「へっ、やはりあの判官殿が、あんなボヤ騒ぎで死ぬわけがねえ」
部下の一人が、下卑た笑みを浮かべて刀の柄を叩く。
「泰衡の腰抜け共には無理だ。俺たちがやるしかねえな」
「ああ。鎌倉殿の厳命だ。『首を見るまでは信じるな』とな」
男は手綱を引き絞り、北の山並みを見上げた。
「行くぞ。山狩りだ。犬を使え。血の匂いを辿れば、必ず尻尾を出す」
数十騎の騎馬武者が、土煙を上げて北へと走り出した。
彼らは知っていた。義経という男が、常識では測れぬ逃亡の天才であることを。だからこそ、街道ではなく、獣道のような山岳路に狙いを定めていたのである。
二つの殺意が、北へ向かって放たれた。
一つは、自らの保身のために。
もう一つは、冷徹な政治的決着のために。
そして、その殺意の矛先が向かう先――。
***
緑の魔窟だった。
岩手山の懐深く、人が踏み入ることを拒むような原生林が広がっている。
頭上を覆うブナやミズナラの巨木が日光を遮り、地上は昼なお薄暗い。湿った腐葉土の匂いと、濃密な草いきれが鼻孔を満たし、肺腑に重くのしかかる。
その緑の闇の中を、一列になって進む影があった。
源義経とその一行である。
北上川を舟で下り、追手の目を欺いてから三日。彼らは舟を捨て、道なき山岳地帯へと足を踏み入れていた。街道を行けば関所に捕まる。生き延びるためには、獣しか通らぬような険路を選ぶしかなかった。
「足元、お気をつけなされ」
先頭を行く常陸坊海尊が、太い木の根を杖で叩きながら注意を促した。
山伏姿の海尊にとって、山は庭のようなものだ。苔むした岩の滑りやすさも、毒蛇が潜む草むらも、彼は熟知している。
「この先、沢を渡ります。水は冷たいですが、滑らぬようご注意を」
海尊の背中を追う義経は、黙って頷いた。
直垂の裾は泥にまみれ、草木の棘で幾箇所も裂けている。だが、その瞳だけは澄んだ光を失っていなかった。
疲労は極限に達しているはずだ。眠らぬままの脱出劇、そして続く山行。それでも義経は、一度として弱音を吐かず、背筋を伸ばして歩き続けている。それが、主君としての矜持であった。
「はあ、はあ……」
義経の後ろで、荒い息遣いが聞こえた。藤原時衡である。
平泉の館で育った貴公子にとって、この強行軍は地獄に等しい苦行だろう。顔色は蒼白で、足取りも覚束ない。それでも、彼は歯を食いしばり、必死に義経の背中を追っていた。
「大丈夫か、時衡殿」
すぐ後ろを歩く藤原秀安が、時衡の背を支えるように手を添えた。
「なんの……これしき」
時衡は強がって見せたが、その膝は笑っている。
「無理をするな。少し休むか」
義経が足を止め、振り返った。その声には労わりの色が滲んでいた。
「いえ、判官殿。私が足を止めれば、皆の足が止まります。進ませてください」
時衡の言葉に、義経は微かに目を細めた。この少年の芯の強さは、やはり本物だ。
「良い心がけだ。だが、倒れては元も子もない。海尊、小休止だ」
「御意」
一行は巨岩の陰に腰を下ろした。
弁慶が革袋の水筒を義経に差し出す。
「殿、少し喉を潤してくだされ」
「すまぬ」
義経は一口だけ含み、すぐに時衡へと回した。
「飲め。水は命だ」
時衡は恐縮しながらも、震える手で水筒を受け取り、貪るように喉を鳴らした。
弁慶はその様子を見ながら、大きな体を岩に預けて苦笑した。
「やれやれ、平泉の坊っちゃんにゃあ、ちと荷が重い旅路よな。だがまあ、根性は認めてやるわ」
弁慶の背中には、七つ道具に加えて、一行の食料や野営道具の大半が背負われている。その怪力と体力は、この過酷な逃避行における生命線だった。
「兄貴、俺の分も残しておいてくれよ」
最後尾で警戒に当たっていた亀井六郎が、汗を拭いながら近づいてきた。その手には、先ほど仕留めた野兎がぶら下がっている。
「今夜の飯だ。こいつがいなきゃ、精がつかねえ」
「おお、でかした亀井! さすがは山育ちよ」
片岡太郎が珍しく声を弾ませた。彼もまた、弓の手入れに余念がない。湿気は弓の大敵だ。彼は休憩のたびに弦の状態を確かめ、矢羽を撫でていた。
束の間の休息。木々の間を渡る風が、汗ばんだ肌を冷やしていく。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
藪を漕ぐ微かな音がして、一人の影が音もなく現れた。
駿河次郎である。
先行偵察に出ていた彼は、猿のような身軽さで岩場を降りてくると、義経の前に片膝をついた。その表情は硬い。
「殿、ご報告申し上げます」
場の空気が一瞬にして張り詰めた。弁慶が薙刀を引き寄せ、片岡が弓に手を掛ける。
「どうした」
義経の声は低く、鋭い。
「南東の尾根筋、およそ二十町(約2km)後方に、人の気配あり。鳥が騒いでおりました」
「数は」
「木々に阻まれ正確には分かりませぬが、足音の響きからして十や二十ではききませぬ。おそらく、五十騎ほどの捜索隊かと」
「五十……」
秀安が息を呑んだ。
「泰衡の軍勢か、それとも鎌倉か」
「装備が見えました。鎌倉武者のような無骨な胴丸。おそらくは、頼朝公が放った追手かと」
頼朝の名が出た瞬間、義経の眉間に深い皺が刻まれた。
兄は、執拗だ。
衣川で死んだという情報を鵜呑みにせず、こうして山狩りを行っている。死体を確認するまでは決して手を緩めない、冷徹な猜疑心。それが頼朝という男だった。
「追いつかれるか」
義経の問いに、駿河次郎は首を振った。
「いえ、彼らは街道沿いの山裾を洗っているようです。我らがこの深山に入り込んだとは、まだ確信していない様子。ですが、犬を使われたら厄介です」
「犬か……」
海尊が顎髭を撫でながら呟いた。
「風向きは我らに味方しておりますが、油断はできませぬな。殿、道を急ぎましょう。ここから先はさらに険しくなりますが、沢伝いに北へ抜け、分水嶺を越えれば、追手の嗅覚も届かぬはず」
「分かった」
義経は立ち上がった。その動きに、疲労の色は見えない。
「聞いたな。敵はすぐそこまで来ている。だが、恐れることはない。この山は、我らを隠す天然の要塞だ」
義経は時衡の肩に手を置いた。
「立てるか」
「はい!」
時衡は自らの頬を叩き、気合を入れて立ち上がった。その目には、先ほどまでの疲労よりも、追手への恐怖と、それを乗り越えようとする闘志が宿っていた。
「行くぞ。我らは亡霊だ。誰にも見つからず、風のように北へ抜ける」
義経の号令で、一行は再び歩き出した。
道はさらに険しさを増していく。
岩肌にしがみつくようにして崖を登り、腰まで浸かる冷たい沢を渡る。
頭上では、不吉な鳴き声を上げてカラスが旋回していた。
自然の厳しさと、背後に迫る人間の殺意。
二つの脅威に挟まれながら、義経たちは黙々と足を動かし続ける。
その一歩一歩が、日本という国との別離を、そしてまだ見ぬ運命への接近を刻んでいた。
やがて、木々の隙間から、遠く北の空が見えた。
灰色の雲が垂れ込めている。
その雲の向こうには、かつて少年時代に見た、荒涼とした海が待っているはずだ。
(まだだ。まだ死ねない)
義経は心の中で繰り返した。
兄への復讐ではない。もはや、そんな小さな情念のために命を使うつもりはなかった。
ただ、見たいのだ。
この狭い島国の外に広がる、果てしない世界を。
かつて出会ったあの異国の少年と約束した、広い空を。
「殿、雨になりそうです」
海尊の声が、義経を現実に引き戻した。
頬に冷たい雫が当たる。
雨は、足跡を消してくれる恵みとなるか、体力を奪う災いとなるか。
すべては天の配剤だった。
「進もう。雨もまた、我らの味方だ」
義経は前を見据え、濡れそぼる山道へと踏み出した。




