紅蓮の脱出
宵闇が衣川館を包み始めた。
西の空にはまだ茜色の残光がわずかに残っているが、地上はすでに濃紺の帳が下りている。
館の周囲を取り囲む泰衡軍の陣営では、点々と篝火が焚かれ始めていた。その炎の揺らめきが、不気味な影法師を丘の上に投げかけている。
義経は、大鎧を身に着けず、動きやすい黒糸威の腹巻に、濃紺の直垂という軽装で広間に立っていた。
その腰には『膝丸』。背には短い弓を負っている。
「時は来た」
義経の声は、静かな水面のように落ち着いていた。
その周囲には、旅装束に身を包んだ家臣たちが控えている。片岡太郎、駿河次郎、そして案内役の藤原時衡と秀安。
彼らの表情は硬いが、その目には決死の覚悟が宿っていた。
「弁慶、亀井」
義経が呼ぶと、二人の巨漢が一歩前に出た。
弁慶は黒染めの法衣の上に胴丸を着け、手には愛用の薙刀『岩融』を握りしめている。亀井六郎は、その太い腕に似つかわしい巨大な金砕棒を肩に担いでいた。
「そなたらの働きにかかっている。派手にやれ」
「おう! この亀井六郎重清、泰衡軍の度肝を抜いてやりますわ!」
亀井が豪快に笑う。
弁慶は静かに頷き、主君を見つめた。
「殿。……必ずや、後ほど合流いたします」
「ああ。死ぬなよ」
短い言葉に、万感の思いが込められていた。
その時、館の外で法螺貝の音が鳴り響いた。
ブォォォォォォォ……。
泰衡軍の攻撃開始の合図だ。
「来たか!」
弁慶が目を剥いた。
「亀井、行くぞ! 我らが仁王となって、時間稼ぎをしてくれるわ!」
「応ッ!」
二人は雄叫びを上げ、表門へと駆け出した。
同時に、海尊が火打石を打ち鳴らした。
乾いた藁に火花が飛び、瞬く間に炎が燃え広がる。
事前に撒いておいた油が、炎の勢いを加速させた。
ゴウッ!
紅蓮の炎が、館の障子を、柱を、そして天井を舐め尽くしていく。
「急げ!」
義経が叫んだ。
時衡が床板を跳ね上げる。そこには、暗い闇が口を開けていた。
「こちらです!」
時衡を先頭に、一行は次々と床下へと飛び込んでいく。
最後に義経が飛び込み、床板を閉じた瞬間、頭上で轟音と共に梁が焼け落ちる音がした。
***
地下通路は、湿った土の匂いとカビの臭いが充満していた。
時衡が掲げる松明の明かりだけが頼りだ。
通路は狭く、大人が一人やっと通れるほどの幅しかない。壁面からは木の根が突き出し、行く手を阻む。
「頭上にご注意を」
時衡が小声で注意を促す。
義経は黙々と進んだ。頭上からは、微かに館が燃える音と、兵士たちの怒号が聞こえてくる。
(弁慶、亀井……無事でいてくれ)
心の中で祈りながら、義経は足を速めた。
一方、地上では修羅場が繰り広げられていた。
燃え盛る衣川館の表門。
そこには、まさに鬼神の如き二人の男が立ちはだかっていた。
「我こそは武蔵坊弁慶なり! 命の惜しくない者はかかってまいれ!」
弁慶の大音声が夜空を震わせる。
薙刀が一閃するたびに、泰衡軍の兵士が二人、三人と吹き飛ばされる。
「うおりゃぁぁぁ!」
亀井六郎の金砕棒が唸りを上げ、敵の盾を粉砕し、兜ごと頭蓋を砕く。
炎を背負ったその姿は、地獄の獄卒そのものだった。
「ひ、ひぇぇ……化け物だ!」
恐れをなした泰衡軍の足が止まる。
その隙に、炎はさらに勢いを増し、館全体を巨大な火柱へと変えていった。
敵兵が怯んだ一瞬の隙を見逃さず、弁慶が亀井に目配せをした。
「今だ、亀井! 引くぞ!」
「おう!」
二人は同時に身を翻し、燃え盛る館の中へと飛び込んだ。
「なっ、自害するつもりか!?」
泰衡軍の武将が叫ぶが、猛火に阻まれて誰も追うことはできない。
だが、二人は死んではいなかった。
館の奥、崩れかけた壁の裏に隠された古井戸。
そこが、もう一つの脱出口だった。
弁慶が井戸の底板を蹴破ると、横穴が現れた。
「行くぞ、亀井。殿が待っておられる」
「へへっ、少し暴れ足りませんがね」
二人は巨体を小さくして、横穴へと滑り込んだ。
***
地下通路の空気は淀み、息苦しさを増していた。
どれほど進んだだろうか。
不意に、前方から水の流れる音が聞こえてきた。
「出口です!」
時衡の声が弾む。
突き当たりの土壁を秀安が蹴破ると、そこには夜の冷気と、川の匂いが流れ込んできた。
一行は次々と外へ這い出した。
そこは、北上川の岸辺に広がる深い葦原の中だった。
背の高い葦が視界を遮り、外からは全く見えない。
見上げれば、丘の上の衣川館が真っ赤に燃え上がっているのが見える。火の粉が雪のように舞い散り、夜空を焦がしていた。
「見事な火柱だ……」
駿河次郎が感嘆の声を漏らす。
「あれならば、誰も我らが生きて脱出したとは思わぬでしょう」
「舟は?」
義経が尋ねると、秀安が葦をかき分けた。
「こちらに」
そこには、粗末な筵で覆われた平底の荷舟が一艘、係留されていた。
商人が米や炭を運ぶのに使う、ありふれた舟だ。これならば、検問で見つかっても怪しまれにくい。
「よくやった」
義経は秀安の肩を叩いた。秀安は照れくさそうに鼻をこすった。
その時、葦原の奥からガサガサと音がした。
片岡が素早く弓を構える。
「誰だ!」
「俺たちだ!」
低い声と共に、泥だらけの二つの巨体が現れた。
弁慶と亀井である。
二人の姿を見た瞬間、義経の表情がぱっと明るくなった。
「弁慶! 亀井! 無事だったか!」
「へえ。少々煤けましたが、この通り」
弁慶がニカッと白い歯を見せる。
「敵は、我らが炎の中で死んだと思うておりましょう」
亀井も金砕棒をドサリと舟に下ろした。
「いやあ、いい運動になりましたわ」
全員が揃った。
義経は深く安堵の息を吐き、そして力強く頷いた。
「よし、行くぞ」
全員が舟に乗り込むと、駿河次郎と亀井六郎が静かに竿を操り、舟を川面へと滑り出させた。
葦の隙間から、川の本流へと出る。
川面は、燃える館の炎を映して赤黒く揺らめいていた。
舟は静かに、しかし確実に、北へと向かって流れ始めた。
誰も言葉を発しなかった。
ただ、燃え落ちる衣川館を見つめていた。
あそこで、源義経は死んだのだ。
そして今、ここにいるのは、新たな運命を生きる名もなき旅人たちだった。
***
川を下ること半刻(約一時間)。
舟は、泰衡軍の監視の目をかいくぐり、平泉の北端にある小さな船着場に到着した。
ここからは陸路だ。
上陸した一行は、闇に紛れて山道へと入った。
目指すは北。蝦夷地へと続く、険しい山岳地帯である。
先頭を行くのは時衡と秀安。彼らの案内は的確だった。獣道のような細い道を、迷うことなく進んでいく。
その後ろを、義経、弁慶、亀井、片岡、駿河、海尊が続く。
皆、無言だった。
背後には、まだ空を赤く染める炎の明かりが見える。それが、故郷・日本との最後の繋がりだった。
夜明けが近づいてきた。
東の空が白み始め、山々の稜線が青黒く浮かび上がる。
不意に、義経が足を止めた。
「どうなされました?」
時衡が振り返る。
義経は、南の方角、平泉の方をじっと見つめていた。
「……さらばだ」
誰に言うともなく呟いた。
源義経という武将の、日本での生涯が、あの炎と共に終わったのだ。
栄光も、屈辱も、愛も、憎しみも。すべては灰燼に帰した。
「殿」
弁慶が静かに歩み寄った。
「これよりは、修羅の道でございますな」
「ああ。だが、一人ではない」
義経は家臣たちを見渡した。
泥と煤にまみれ、疲労困憊の彼ら。だが、その瞳は誰一人として死んでいなかった。
彼らと共に、新しい世界を作るのだ。
義経は踵を返し、北へと向かう急な坂道を登り始めた。
風が吹き抜けた。
それは、昨夜までの湿った春の風ではない。
北の山々から吹き下ろす、冷たく、乾いた風だった。
その風は、義経の頬を打ち、彼の心にある甘さを削ぎ落としていくようだった。
山道は険しく、先は見通せない。
だが、義経の足取りは力強かった。
その背中には、信頼できる仲間たちと、まだ見ぬ未来への希望が宿っている。
蒼天の鷹が、風を掴んで舞い上がるように。
源義経は、今、世界へと羽ばたいたのだ。
(第1章 完)




