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蒼天の鷹 ~源義経からジンギスカンへ 国を追われた英雄が、蒼き狼となって世界を変える物語~  作者: 双瞳猫
第一章 衣川の決断

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紅蓮の脱出

 宵闇が衣川館を包み始めた。

 西の空にはまだ茜色の残光がわずかに残っているが、地上はすでに濃紺のとばりが下りている。

 館の周囲を取り囲む泰衡軍の陣営では、点々と篝火が焚かれ始めていた。その炎の揺らめきが、不気味な影法師を丘の上に投げかけている。


 義経は、大鎧おおよろいを身に着けず、動きやすい黒糸威くろいとおどしの腹巻に、濃紺の直垂という軽装で広間に立っていた。

 その腰には『膝丸』。背には短い弓を負っている。

「時は来た」

 義経の声は、静かな水面のように落ち着いていた。

 その周囲には、旅装束に身を包んだ家臣たちが控えている。片岡太郎、駿河次郎、そして案内役の藤原時衡と秀安。

 彼らの表情は硬いが、その目には決死の覚悟が宿っていた。


「弁慶、亀井」

 義経が呼ぶと、二人の巨漢が一歩前に出た。

 弁慶は黒染めの法衣の上に胴丸を着け、手には愛用の薙刀『岩融いわとおし』を握りしめている。亀井六郎は、その太い腕に似つかわしい巨大な金砕棒を肩に担いでいた。

「そなたらの働きにかかっている。派手にやれ」

「おう! この亀井六郎重清、泰衡軍の度肝を抜いてやりますわ!」

 亀井が豪快に笑う。

 弁慶は静かに頷き、主君を見つめた。

「殿。……必ずや、後ほど合流いたします」

「ああ。死ぬなよ」

 短い言葉に、万感の思いが込められていた。


 その時、館の外で法螺貝の音が鳴り響いた。

 ブォォォォォォォ……。

 泰衡軍の攻撃開始の合図だ。

「来たか!」

 弁慶が目を剥いた。

「亀井、行くぞ! 我らが仁王となって、時間稼ぎをしてくれるわ!」

「応ッ!」

 二人は雄叫びを上げ、表門へと駆け出した。


 同時に、海尊が火打石を打ち鳴らした。

 乾いた藁に火花が飛び、瞬く間に炎が燃え広がる。

 事前に撒いておいた油が、炎の勢いを加速させた。

 ゴウッ!

 紅蓮の炎が、館の障子を、柱を、そして天井を舐め尽くしていく。

「急げ!」

 義経が叫んだ。

 時衡が床板を跳ね上げる。そこには、暗い闇が口を開けていた。

「こちらです!」

 時衡を先頭に、一行は次々と床下へと飛び込んでいく。

 最後に義経が飛び込み、床板を閉じた瞬間、頭上で轟音と共にはりが焼け落ちる音がした。


***


 地下通路は、湿った土の匂いとカビの臭いが充満していた。

 時衡が掲げる松明の明かりだけが頼りだ。

 通路は狭く、大人が一人やっと通れるほどの幅しかない。壁面からは木の根が突き出し、行く手を阻む。

「頭上にご注意を」

 時衡が小声で注意を促す。

 義経は黙々と進んだ。頭上からは、微かに館が燃える音と、兵士たちの怒号が聞こえてくる。

(弁慶、亀井……無事でいてくれ)

 心の中で祈りながら、義経は足を速めた。


 一方、地上では修羅場が繰り広げられていた。

 燃え盛る衣川館の表門。

 そこには、まさに鬼神の如き二人の男が立ちはだかっていた。

「我こそは武蔵坊弁慶なり! 命の惜しくない者はかかってまいれ!」

 弁慶の大音声が夜空を震わせる。

 薙刀が一閃するたびに、泰衡軍の兵士が二人、三人と吹き飛ばされる。

「うおりゃぁぁぁ!」

 亀井六郎の金砕棒が唸りを上げ、敵の盾を粉砕し、兜ごと頭蓋を砕く。

 炎を背負ったその姿は、地獄の獄卒そのものだった。

「ひ、ひぇぇ……化け物だ!」

 恐れをなした泰衡軍の足が止まる。

 その隙に、炎はさらに勢いを増し、館全体を巨大な火柱へと変えていった。


 敵兵が怯んだ一瞬の隙を見逃さず、弁慶が亀井に目配せをした。

「今だ、亀井! 引くぞ!」

「おう!」

 二人は同時に身を翻し、燃え盛る館の中へと飛び込んだ。

「なっ、自害するつもりか!?」

 泰衡軍の武将が叫ぶが、猛火に阻まれて誰も追うことはできない。


 だが、二人は死んではいなかった。

 館の奥、崩れかけた壁の裏に隠された古井戸。

 そこが、もう一つの脱出口だった。

 弁慶が井戸の底板を蹴破ると、横穴が現れた。

「行くぞ、亀井。殿が待っておられる」

「へへっ、少し暴れ足りませんがね」

 二人は巨体を小さくして、横穴へと滑り込んだ。


***


 地下通路の空気は淀み、息苦しさを増していた。

 どれほど進んだだろうか。

 不意に、前方から水の流れる音が聞こえてきた。

「出口です!」

 時衡の声が弾む。

 突き当たりの土壁を秀安が蹴破ると、そこには夜の冷気と、川の匂いが流れ込んできた。

 一行は次々と外へ這い出した。


 そこは、北上川の岸辺に広がる深い葦原の中だった。

 背の高い葦が視界を遮り、外からは全く見えない。

 見上げれば、丘の上の衣川館が真っ赤に燃え上がっているのが見える。火の粉が雪のように舞い散り、夜空を焦がしていた。

「見事な火柱だ……」

 駿河次郎が感嘆の声を漏らす。

「あれならば、誰も我らが生きて脱出したとは思わぬでしょう」


「舟は?」

 義経が尋ねると、秀安が葦をかき分けた。

「こちらに」

 そこには、粗末なむしろで覆われた平底の荷舟が一艘、係留されていた。

 商人が米や炭を運ぶのに使う、ありふれた舟だ。これならば、検問で見つかっても怪しまれにくい。

「よくやった」

 義経は秀安の肩を叩いた。秀安は照れくさそうに鼻をこすった。


 その時、葦原の奥からガサガサと音がした。

 片岡が素早く弓を構える。

「誰だ!」

「俺たちだ!」

 低い声と共に、泥だらけの二つの巨体が現れた。

 弁慶と亀井である。

 二人の姿を見た瞬間、義経の表情がぱっと明るくなった。

「弁慶! 亀井! 無事だったか!」

「へえ。少々すすけましたが、この通り」

 弁慶がニカッと白い歯を見せる。

「敵は、我らが炎の中で死んだと思うておりましょう」

 亀井も金砕棒をドサリと舟に下ろした。

「いやあ、いい運動になりましたわ」


 全員が揃った。

 義経は深く安堵の息を吐き、そして力強く頷いた。

「よし、行くぞ」

 全員が舟に乗り込むと、駿河次郎と亀井六郎が静かに竿を操り、舟を川面へと滑り出させた。

 葦の隙間から、川の本流へと出る。

 川面は、燃える館の炎を映して赤黒く揺らめいていた。


 舟は静かに、しかし確実に、北へと向かって流れ始めた。

 誰も言葉を発しなかった。

 ただ、燃え落ちる衣川館を見つめていた。

 あそこで、源義経は死んだのだ。

 そして今、ここにいるのは、新たな運命を生きる名もなき旅人たちだった。


***


 川を下ること半刻(約一時間)。

 舟は、泰衡軍の監視の目をかいくぐり、平泉の北端にある小さな船着場に到着した。

 ここからは陸路だ。

 上陸した一行は、闇に紛れて山道へと入った。

 目指すは北。蝦夷地へと続く、険しい山岳地帯である。


 先頭を行くのは時衡と秀安。彼らの案内は的確だった。獣道のような細い道を、迷うことなく進んでいく。

 その後ろを、義経、弁慶、亀井、片岡、駿河、海尊が続く。

 皆、無言だった。

 背後には、まだ空を赤く染める炎の明かりが見える。それが、故郷・日本との最後の繋がりだった。


 夜明けが近づいてきた。

 東の空が白み始め、山々の稜線が青黒く浮かび上がる。

 不意に、義経が足を止めた。

「どうなされました?」

 時衡が振り返る。

 義経は、南の方角、平泉の方をじっと見つめていた。

「……さらばだ」

 誰に言うともなく呟いた。

 源義経という武将の、日本での生涯が、あの炎と共に終わったのだ。

 栄光も、屈辱も、愛も、憎しみも。すべては灰燼かいじんに帰した。


「殿」

 弁慶が静かに歩み寄った。

「これよりは、修羅の道でございますな」

「ああ。だが、一人ではない」

 義経は家臣たちを見渡した。

 泥と煤にまみれ、疲労困憊の彼ら。だが、その瞳は誰一人として死んでいなかった。

 彼らと共に、新しい世界を作るのだ。


 義経は踵を返し、北へと向かう急な坂道を登り始めた。

 風が吹き抜けた。

 それは、昨夜までの湿った春の風ではない。

 北の山々から吹き下ろす、冷たく、乾いた風だった。

 その風は、義経の頬を打ち、彼の心にある甘さを削ぎ落としていくようだった。


 山道は険しく、先は見通せない。

 だが、義経の足取りは力強かった。

 その背中には、信頼できる仲間たちと、まだ見ぬ未来への希望が宿っている。

 蒼天の鷹が、風を掴んで舞い上がるように。

 源義経は、今、世界へと羽ばたいたのだ。


(第1章 完)

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