若き獅子の来訪
裏門の木戸は、長い風雪に晒され、黒ずんで朽ちかけていた。その隙間から、朝の冷気と共に、湿った土と若草の匂いが漂ってくる。
義経が弁慶と海尊を従えて裏庭に足を踏み入れると、そこにはすでに張り詰めた空気が満ちていた。
樹齢百年はあろうかという杉の巨木の下、二人の若武者が膝をついていた。
それを取り囲むように、弓に矢をつがえた男と、身の丈ほどもある金砕棒を構えた巨漢が立ちはだかっている。
片岡太郎常春と、亀井六郎重清である。
「動くな。その首、胴から離れることになるぞ」
片岡が低く鋭い声で警告した。その指は弦に掛かり、ギリリと引き絞られている。狙いは正確に、若武者の眉間を捉えていた。
「待たれよ! 我らは敵ではない!」
背の高い方の若者が叫ぶ。だが、亀井は鼻を鳴らして一歩踏み出した。
「敵でないなら、なぜ忍びのように裏から来る。平泉の鼠め、叩き潰してくれるわ」
亀井の殺気は本物だった。主君を追い詰められた怒りが、その怪力を通して金砕棒に乗り移っているかのようだ。
「控えよ」
義経の静かな、しかしよく通る声が響いた。
片岡と亀井は弾かれたように動きを止め、左右に開いて道を空ける。
義経はゆっくりと歩み寄り、膝をついている二人の若者を見下ろした。
一人は、まだ少年の面影を残す華奢な若者だった。
色は白く、貴族然とした顔立ちだが、その双眸には理知的な光と、燃えるような決意が宿っている。着ている直垂は上等な絹だが、泥と朝露で裾が汚れていた。
もう一人は、二十歳前後だろうか。骨太で逞しい体躯をした武人だ。その表情には、緊張と焦燥が入り混じっている。
「藤原時衡殿とお見受けする」
義経が問いかけると、少年の若者が深く頭を下げた。
「いかにも。藤原泰衡が弟、時衡にございます。こちらは従兄の藤原秀安」
「秀安にございます」
武骨な若者も頭を下げる。
「泰衡の弟君が、何用か。兄の命を受け、私の首を取りに来たか」
義経の言葉に、時衡は顔を上げ、強く首を横に振った。
「滅相もございませぬ! 我らは……父・秀衡公の遺言を違え、恩人を売ろうとする兄・泰衡の非道を止める術なく、せめて判官殿をお救い申したく、こうして参上いたしました」
「我らを救う、だと?」
弁慶が疑わしげに唸る。
「五百の兵で囲んでおいて、救うとは片腹痛い。これは時間稼ぎの罠ではあるまいな」
秀安が悔しげに唇を噛み、叫んだ。
「罠などではない! 我らとて、武士の端くれ。主君の恩を仇で返すような真似、死んでもできぬ! 平泉の武士が皆、泰衡殿と同じと思われるのは心外だ!」
その直情的な言葉に、亀井が少し毒気を抜かれたような顔をした。
「ほう、言うではないか」
義経は時衡の目をじっと見つめた。
その瞳は澄んでいた。恐怖に揺らいではいるが、底にあるのは純粋な正義感と、何よりも現状への激しい憤りだった。
かつて、鞍馬山を駆け回っていた頃の自分。あるいは、挙兵したばかりの兄・頼朝の元へ馳せ参じた時の自分。
若く、無垢で、それゆえに傷つきやすい魂がそこにあった。
「片岡、亀井。武器を収めよ」
義経が命じると、二人は不承不承ながらも構えを解いた。
「時衡殿。立ち話もなんだ。中へ」
***
広間には、重苦しい沈黙が流れていた。
義経を中心に、弁慶、海尊、片岡、亀井、駿河次郎ら家臣団が座し、対面に時衡と秀安が座っている。
「単刀直入に申します」
時衡が切り出した。その声は震えていたが、言葉は明晰だった。
「兄・泰衡は、明日の未明にも総攻撃を仕掛けるつもりです。鎌倉への言い訳のため、判官殿の首を差し出す腹積もり。もはや説得は通じませぬ」
「やはりな」
海尊が短く呟く。
「ですが、正面からの脱出は不可能です。街道は封鎖され、川も舟止めされております」
時衡は懐から一枚の絵図を取り出し、畳の上に広げた。衣川館周辺の詳細な地図だ。そこには、義経たちも知らぬ抜け道や、地形の起伏が細かく記されていた。
「これは?」
「私が調べ上げた、この辺りの地形図です。……私は、武芸はからきしですが、土地を調べ、記録することには自信がございます」
時衡は少し恥ずかしそうに、しかし誇らしげに言った。
「この館の床下には、かつて父・秀衡公が万が一のために掘らせた隠し通路がございます。北上川の岸辺、葦の茂みに通じております」
「隠し通路……」
義経が地図を覗き込む。確かに、館の北側から川へ抜ける細い線が描かれている。
「しかし、川に出たところで舟がなければ……」
駿河次郎が指摘すると、秀安が身を乗り出した。
「舟なら、俺が手配しました。商人の荷舟を装い、葦の中に隠してある。十数名なら乗れるはずです」
あまりに手際が良すぎる。
片岡太郎が、職人が木材の歪みを検分するような鋭い目で二人を見た。
「なぜだ」
片岡の問いは短かった。
「なぜ、そこまでする。露見すれば、そなたらは謀反人として処刑されるぞ。泰衡殿は肉親であろう」
時衡は一度目を伏せ、そして再び顔を上げた。その表情には、十六歳とは思えぬ苦渋と覚悟が滲んでいた。
「父・秀衡公は、常々仰っておりました。『平泉は、北の王道楽土。京の都が腐敗しても、ここには独自の法と秩序がある』と。私は、その理想を受け継ぎたかった」
時衡は拳を握りしめた。
「ですが、兄上は鎌倉に膝を屈し、平泉の誇りを泥にまみれさせた。判官殿を売れば、次は我らが売られる番です。誇りを失った国に、未来などありませぬ!」
少年の悲痛な叫びが、広間に響いた。
「私は……私は、判官殿が見てこられた世界を知りたいのです。京の雅も、鎌倉の武も、そして西国の海も。この狭い平泉で、兄の顔色を窺って生きるより、判官殿と共に新しい世界を見たい。それが、私の『戦』なのです」
義経はハッとした。
この少年は、自分を見ているのではない。自分の背後にある「世界」を見ているのだ。
かつて自分が、金売り吉次の話を聞いて奥州へ憧れたように。あるいは、海を渡ってきた異国の民に未知の可能性を感じたように。
この時衡という少年の中には、まだ見ぬ世界への渇望がある。それは、義経自身が抱え続けてきた「乾き」と同質のものだった。
「秀安、そなたはどうか」
義経は、黙って控える武骨な若者に水を向けた。
秀安は太い眉を寄せ、不器用に答えた。
「俺は……難しいことは分かりませぬ。ただ、時衡様がお守りすると決めた方を、俺もお守りするだけです。それに」
彼はチラリと片岡の持っている長弓を見た。
「判官殿の家来衆は、一騎当千の強者揃いと聞いております。その方々と共に戦えるなら、武士としてこれ以上の誉れはございませぬ」
片岡が、わずかに口元を緩めた。武士同士、通じ合うものがあったのかもしれない。
義経は立ち上がり、時衡の前に歩み寄った。
そして、その手を取り、力強く握った。
「時衡殿、秀安殿。その覚悟、しかと受け取った」
時衡の目が大きく見開かれた。
「では、信じて……いただけますか」
「疑ってすまなかった。そなたらの目は、裏切り者の目ではない。未来を見る者の目だ」
義経の手の温もりに、時衡の目から涙がこぼれ落ちた。張り詰めていた緊張の糸が切れ、少年らしい素顔が露わになる。
「あ、ありがとうございます……!」
「さて」
義経はすぐに表情を引き締め、戦術家の顔に戻った。
「感傷に浸っている暇はない。脱出は今夜だ」
彼は地図を指差した。
「敵の包囲が最も緩むのは、夜明け前の一刻。だが、それでは遅い。泰衡が攻撃を仕掛けてくるのと鉢合わせになる」
「では、いつ……?」
「宵の口だ」
義経は断言した。
「敵は、我らが夜明けを警戒していると思っている。その裏をかく。日が落ち、篝火が焚かれる直前、その一瞬の闇を突く」
義経は家臣たちを見渡した。
「弁慶、亀井。そなたらは陽動だ。表門で派手に暴れ、敵の目を引きつけろ」
「おう! 任せてくだされ!」
亀井が嬉々として腕を鳴らす。
「片岡、駿河。そなたらは時衡殿と共に、隠し通路の安全を確認せよ。出口の葦原に伏兵がいないとも限らん」
「承知」
片岡が短く応え、駿河次郎はすでに身軽な動きで立ち上がっていた。
「海尊は、館に火を放つ準備を。我らが自害して果てたように見せかけるのだ。館ごと、義経の過去を焼き払う」
「御意」
そして義経は、時衡と秀安に向き直った。
「時衡殿、秀安殿。そなたらには、案内役を頼む。我らを北へ、蝦夷地への道へと導いてくれ」
「はい!」
二人の若獅子は、力強く声を揃えた。
その時、時衡がふと、義経の腰にある太刀に目を留めた。
「判官殿。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「判官殿は、なぜ北へ? 蝦夷地へ逃れて、その先はどうなさるおつもりで?」
義経は窓の外、北の空を見上げた。
雲が流れ、青空が覗いている。その彼方には、まだ見ぬ大陸が広がっているはずだ。
「国を作る」
義経は静かに言った。
「兄上のような、血と恐怖で縛る国ではない。強き者が弱きを虐げることのない、天の下にすべての民が家族として暮らせる、そんな国を」
それは、今の義経にとってはまだ漠然とした夢想に過ぎなかった。だが、口に出した瞬間、その言葉は言霊となって、彼自身の芯を熱くした。
時衡の瞳が輝いた。
「天の下の、家族……」
彼はその言葉を反芻し、深く頷いた。
「その夢、私もお供させてください。地の果てまでも」
新たな絆が、ここで結ばれた。
血のつながりよりも濃い、志のつながり。
それはやがて、大陸の草原を駆け抜け、世界を震わせることになる「蒼き狼」の群れの、最初の遠吠えであった。
「よし、準備にかかるぞ!」
義経の号令一下、男たちは動き出した。
死地を脱するための、そして新たな生を掴み取るための、長い一日が始まろうとしていた。
窓の外では、風が強まり、衣川の水面を波立たせていた。
その風は、やがて来る紅蓮の炎を煽り、彼らの運命を北へと運ぶ追い風となるだろう。
義経は刀の柄を強く握りしめた。
迷いは、もうなかった。




