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蒼天の鷹 ~源義経からジンギスカンへ 国を追われた英雄が、蒼き狼となって世界を変える物語~  作者: 双瞳猫
第四章 氷雪の回廊

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流氷の海

 北の果て、ノ・テトゥの岬(宗谷岬)に、咆哮ほうこうのような風が吹き荒れていた。

 海は、鉛を溶かしたような鈍色にびいろに染まり、白波が牙を剥いて岸壁に打ち付けている。その飛沫しぶきは瞬時に凍りつき、岩肌を白く覆っていた。

 義経一行は、海岸の仮小屋で、黙々と作業を続けていた。

 アイヌの漁師が残した丸木舟チプを修理し、二艘を並べて横木で固定する。さらに、その上に板を渡し、簡易的ないかだのような構造にするのだ。

 単体の丸木舟では、荒れる海峡を渡るには心許ない。だが、二艘を連結すれば、安定性は格段に増す。

「急げ! 風が変わるぞ!」

 義経が叫んだ。

 その声は、風の音にかき消されそうになる。

 亀井六郎と片岡常春が、凍えた手で必死に縄を縛る。指先の感覚はとうに失われていたが、止めるわけにはいかない。

 海尊が、空を見上げた。

 北の空が、不気味なほど白く輝いている。

「殿、あれを」

 海尊が指差した先には、水平線に沿って白い帯のようなものが見えた。

 流氷だ。

 北の大地から押し寄せる氷の軍勢が、すぐそこまで迫っていた。

「間に合うか……」

 藤原時衡が、青ざめた顔で呟く。

 あの氷に囲まれれば、木の舟などひとたまりもない。粉々に砕かれ、冷たい海の底へ引きずり込まれるだけだ。

「間に合わせるのだ」

 義経は短く言い放ち、自らも舟に手をかけた。

 その瞳には、狂気にも似た執念が宿っていた。

 生きるか、死ぬか。

 選択肢は二つに一つ。そして義経は、生きることを選んだ。


 準備が整ったのは、日が傾きかけた頃だった。

 風が一瞬、いだ。

 奇跡のような静寂が訪れる。

「今だ! 出せ!」

 義経の号令とともに、男たちは舟を海へと押し出した。

 冷たい海水が膝まで浸かる。

 まるで無数の針で刺されたような激痛が走るが、誰も声を上げない。

 全員が舟に乗り込むと、弁慶と亀井が力任せにかいを漕いだ。

 舟は波を切り裂き、沖へと進み始めた。


 海峡の中ほどまで来た時、再び風が吹き始めた。

 今度は、北からの向かい風だ。

 波が高くなり、舟を激しく揺さぶる。

 冷たい飛沫が容赦なく降り注ぎ、着ている毛皮を濡らす。濡れた毛皮は瞬く間に凍りつき、重くのしかかる。

「漕げ! 漕ぐのを止めるな!」

 弁慶がえる。

 その太い腕には血管が浮き上がり、筋肉が悲鳴を上げているのが分かる。

 だが、自然の猛威は彼らの体力を確実に奪っていった。

 片岡常春の手が止まった。

 彼は弓の名手であり、強靭な精神力を持っていたが、寒さには勝てなかった。

 濡れた手袋が凍りつき、櫂を握る指が動かなくなっていたのだ。

「片岡!」

 隣にいた駿河次郎が叫ぶ。

 片岡の顔色は土気色になり、目は虚ろだった。

 低体温症だ。

 意識が朦朧もうろうとし始めている。

「海尊!」

 義経が呼ぶ。

 海尊はすぐに片岡の元へ這い寄った。

 彼は懐から小さな壺を取り出し、中に入っていた軟膏を片岡の指に塗り込んだ。熊の脂と薬草を混ぜた特製の薬だ。

 そして、自分の着ていた乾いた肌着を裂き、片岡の手を包み込んだ。

「片岡殿、眠ってはならぬ! 眠れば死ぬぞ!」

 海尊は片岡の頬を叩き、大声で呼びかけ続けた。

 その声は、読経のように力強く、片岡の意識を現世に繋ぎ止めた。


 その時、ドォンという鈍い音が響いた。

 舟が何かにぶつかったのだ。

 見ると、海面に巨大な氷の塊が漂っていた。

 流氷の先遣隊だ。

「来たか……」

 義経は舌打ちした。

 周囲を見渡すと、いつの間にか大小様々な氷塊が海面を埋め尽くし始めていた。

 白い悪魔たちが、音もなく忍び寄り、彼らを包囲しようとしている。

かじを取れ! 氷の間を抜けるぞ!」

 義経が舳先へさきに立ち、指示を出す。

 右へ、左へ。

 迫り来る氷を避けながら、舟はジグザグに進む。

 だが、氷の密度は増すばかりだ。

 ガリガリと舟底を削る音が、恐怖を煽る。

 もし舟に穴が開けば、その瞬間に全てが終わる。


「殿、あれを!」

 亀井が叫んだ。

 前方、霧の中に黒い影が見えた。

 陸地だ。

 樺太カラフトの大地が、彼らを呼んでいる。

 だが、その手前には、びっしりと氷が詰まっていた。

 舟で進める隙間はない。

「ここまでか……」

 藤原秀安が絶望的な声を漏らす。

 だが、義経は笑った。

 その笑顔は、死地にあってなお輝く、修羅の笑みだった。

「降りるぞ」

「は?」

 秀安が耳を疑う。

「氷の上を歩くのだ」

 義経は事も無げに言った。

 正気とは思えない。だが、他に道はないことも事実だった。

 舟を捨て、不安定な氷の上を渡る。一歩間違えれば海に転落し、数分で心臓が止まるだろう。

 だが、義経は迷わなかった。

 彼は真っ先に氷の上に飛び移った。

 氷がギシッときしむ。

 義経はバランスを取りながら、振り返って手招きした。

「来い! 道は前にある!」


 弁慶が、朦朧もうろうとする片岡を背負い、氷に降りた。

「しっかり掴まっておれよ、片岡!」

 弁慶の背で、片岡が微かに頷くのが見えた。

 その巨体が乗ると、氷が大きく傾く。

 亀井と駿河が左右から支える。

 時衡と秀安も、震える足で続いた。

 海尊が最後尾を守る。

 一行は、揺れ動く氷の回廊を進み始めた。

 風はさらに強まり、雪が混じり始めた。

 視界は白く閉ざされ、方向感覚が失われる。

 頼りになるのは、義経の背中だけだった。

 義経は、まるで氷の精霊のように軽やかに進んでいく。

 彼には見えているのだろうか。

 死への恐怖よりも、生への渇望が、彼の感覚を研ぎ澄ませていた。


 どれくらい歩いただろうか。

 永遠にも思える時間の果てに、固い感触が足元に伝わった。

 土だ。

 凍てついた大地だ。

 彼らは、ついに樺太の地に辿り着いたのだ。

 全員が、雪の上に倒れ込んだ。

 歓声を上げる力も残っていない。ただ、荒い息遣いだけが響いていた。

 片岡が、うっすらと目を開けた。

「……ここは……?」

「地獄の入り口だ」

 義経が答えた。

 だが、その声は優しかった。

「だが、我々は生きている。それだけで十分だ」


 海尊が、片岡の手を確認した。

 指先は紫色に変色していたが、壊死えしまでは至っていない。

「なんとか、指は残せそうですな」

 海尊が安堵の息を吐く。

 片岡は、涙ぐんだ目で海尊と義経を見た。

「申し訳……ありませぬ……」

「謝るな」

 義経は片岡の肩に手を置いた。

「お前の腕は、これから必要になる。治せ。必ずな」

 その言葉は、命令ではなく、祈りのようだった。


 彼らは海岸近くの岩陰に身を寄せ、夜を明かすことにした。

 流木を集めて火を焚く。

 小さな炎が、彼らの命を温めた。

 海の方を見ると、海峡は完全に氷に閉ざされていた。

 白い氷原が、日本との繋がりを断ち切っている。

 もう、戻ることはできない。

 退路は断たれた。

 彼らの前には、広大な北の大地と、未知なる運命だけが広がっていた。


「ここからが、本当の戦いだ」

 義経は炎を見つめながら呟いた。

 その瞳の奥で、蒼い炎が揺らめいていた。

 かつて日本海で出会った少年との約束。

 そして、自らの運命への挑戦。

 すべては、ここから始まるのだ。


 夜が更け、吹雪が激しさを増していく。

 だが、彼らの心には、消えることのない火が灯っていた。

 それは、絶望のふちで見つけた、希望という名の火だった。

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