流氷の海
北の果て、ノ・テトゥの岬(宗谷岬)に、咆哮のような風が吹き荒れていた。
海は、鉛を溶かしたような鈍色に染まり、白波が牙を剥いて岸壁に打ち付けている。その飛沫は瞬時に凍りつき、岩肌を白く覆っていた。
義経一行は、海岸の仮小屋で、黙々と作業を続けていた。
アイヌの漁師が残した丸木舟を修理し、二艘を並べて横木で固定する。さらに、その上に板を渡し、簡易的な筏のような構造にするのだ。
単体の丸木舟では、荒れる海峡を渡るには心許ない。だが、二艘を連結すれば、安定性は格段に増す。
「急げ! 風が変わるぞ!」
義経が叫んだ。
その声は、風の音にかき消されそうになる。
亀井六郎と片岡常春が、凍えた手で必死に縄を縛る。指先の感覚はとうに失われていたが、止めるわけにはいかない。
海尊が、空を見上げた。
北の空が、不気味なほど白く輝いている。
「殿、あれを」
海尊が指差した先には、水平線に沿って白い帯のようなものが見えた。
流氷だ。
北の大地から押し寄せる氷の軍勢が、すぐそこまで迫っていた。
「間に合うか……」
藤原時衡が、青ざめた顔で呟く。
あの氷に囲まれれば、木の舟などひとたまりもない。粉々に砕かれ、冷たい海の底へ引きずり込まれるだけだ。
「間に合わせるのだ」
義経は短く言い放ち、自らも舟に手をかけた。
その瞳には、狂気にも似た執念が宿っていた。
生きるか、死ぬか。
選択肢は二つに一つ。そして義経は、生きることを選んだ。
準備が整ったのは、日が傾きかけた頃だった。
風が一瞬、凪いだ。
奇跡のような静寂が訪れる。
「今だ! 出せ!」
義経の号令とともに、男たちは舟を海へと押し出した。
冷たい海水が膝まで浸かる。
まるで無数の針で刺されたような激痛が走るが、誰も声を上げない。
全員が舟に乗り込むと、弁慶と亀井が力任せに櫂を漕いだ。
舟は波を切り裂き、沖へと進み始めた。
海峡の中ほどまで来た時、再び風が吹き始めた。
今度は、北からの向かい風だ。
波が高くなり、舟を激しく揺さぶる。
冷たい飛沫が容赦なく降り注ぎ、着ている毛皮を濡らす。濡れた毛皮は瞬く間に凍りつき、重くのしかかる。
「漕げ! 漕ぐのを止めるな!」
弁慶が吼える。
その太い腕には血管が浮き上がり、筋肉が悲鳴を上げているのが分かる。
だが、自然の猛威は彼らの体力を確実に奪っていった。
片岡常春の手が止まった。
彼は弓の名手であり、強靭な精神力を持っていたが、寒さには勝てなかった。
濡れた手袋が凍りつき、櫂を握る指が動かなくなっていたのだ。
「片岡!」
隣にいた駿河次郎が叫ぶ。
片岡の顔色は土気色になり、目は虚ろだった。
低体温症だ。
意識が朦朧とし始めている。
「海尊!」
義経が呼ぶ。
海尊はすぐに片岡の元へ這い寄った。
彼は懐から小さな壺を取り出し、中に入っていた軟膏を片岡の指に塗り込んだ。熊の脂と薬草を混ぜた特製の薬だ。
そして、自分の着ていた乾いた肌着を裂き、片岡の手を包み込んだ。
「片岡殿、眠ってはならぬ! 眠れば死ぬぞ!」
海尊は片岡の頬を叩き、大声で呼びかけ続けた。
その声は、読経のように力強く、片岡の意識を現世に繋ぎ止めた。
その時、ドォンという鈍い音が響いた。
舟が何かにぶつかったのだ。
見ると、海面に巨大な氷の塊が漂っていた。
流氷の先遣隊だ。
「来たか……」
義経は舌打ちした。
周囲を見渡すと、いつの間にか大小様々な氷塊が海面を埋め尽くし始めていた。
白い悪魔たちが、音もなく忍び寄り、彼らを包囲しようとしている。
「舵を取れ! 氷の間を抜けるぞ!」
義経が舳先に立ち、指示を出す。
右へ、左へ。
迫り来る氷を避けながら、舟はジグザグに進む。
だが、氷の密度は増すばかりだ。
ガリガリと舟底を削る音が、恐怖を煽る。
もし舟に穴が開けば、その瞬間に全てが終わる。
「殿、あれを!」
亀井が叫んだ。
前方、霧の中に黒い影が見えた。
陸地だ。
樺太の大地が、彼らを呼んでいる。
だが、その手前には、びっしりと氷が詰まっていた。
舟で進める隙間はない。
「ここまでか……」
藤原秀安が絶望的な声を漏らす。
だが、義経は笑った。
その笑顔は、死地にあってなお輝く、修羅の笑みだった。
「降りるぞ」
「は?」
秀安が耳を疑う。
「氷の上を歩くのだ」
義経は事も無げに言った。
正気とは思えない。だが、他に道はないことも事実だった。
舟を捨て、不安定な氷の上を渡る。一歩間違えれば海に転落し、数分で心臓が止まるだろう。
だが、義経は迷わなかった。
彼は真っ先に氷の上に飛び移った。
氷がギシッと軋む。
義経はバランスを取りながら、振り返って手招きした。
「来い! 道は前にある!」
弁慶が、朦朧とする片岡を背負い、氷に降りた。
「しっかり掴まっておれよ、片岡!」
弁慶の背で、片岡が微かに頷くのが見えた。
その巨体が乗ると、氷が大きく傾く。
亀井と駿河が左右から支える。
時衡と秀安も、震える足で続いた。
海尊が最後尾を守る。
一行は、揺れ動く氷の回廊を進み始めた。
風はさらに強まり、雪が混じり始めた。
視界は白く閉ざされ、方向感覚が失われる。
頼りになるのは、義経の背中だけだった。
義経は、まるで氷の精霊のように軽やかに進んでいく。
彼には見えているのだろうか。
死への恐怖よりも、生への渇望が、彼の感覚を研ぎ澄ませていた。
どれくらい歩いただろうか。
永遠にも思える時間の果てに、固い感触が足元に伝わった。
土だ。
凍てついた大地だ。
彼らは、ついに樺太の地に辿り着いたのだ。
全員が、雪の上に倒れ込んだ。
歓声を上げる力も残っていない。ただ、荒い息遣いだけが響いていた。
片岡が、うっすらと目を開けた。
「……ここは……?」
「地獄の入り口だ」
義経が答えた。
だが、その声は優しかった。
「だが、我々は生きている。それだけで十分だ」
海尊が、片岡の手を確認した。
指先は紫色に変色していたが、壊死までは至っていない。
「なんとか、指は残せそうですな」
海尊が安堵の息を吐く。
片岡は、涙ぐんだ目で海尊と義経を見た。
「申し訳……ありませぬ……」
「謝るな」
義経は片岡の肩に手を置いた。
「お前の腕は、これから必要になる。治せ。必ずな」
その言葉は、命令ではなく、祈りのようだった。
彼らは海岸近くの岩陰に身を寄せ、夜を明かすことにした。
流木を集めて火を焚く。
小さな炎が、彼らの命を温めた。
海の方を見ると、海峡は完全に氷に閉ざされていた。
白い氷原が、日本との繋がりを断ち切っている。
もう、戻ることはできない。
退路は断たれた。
彼らの前には、広大な北の大地と、未知なる運命だけが広がっていた。
「ここからが、本当の戦いだ」
義経は炎を見つめながら呟いた。
その瞳の奥で、蒼い炎が揺らめいていた。
かつて日本海で出会った少年との約束。
そして、自らの運命への挑戦。
すべては、ここから始まるのだ。
夜が更け、吹雪が激しさを増していく。
だが、彼らの心には、消えることのない火が灯っていた。
それは、絶望の淵で見つけた、希望という名の火だった。




