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蒼天の鷹 ~源義経からジンギスカンへ 国を追われた英雄が、蒼き狼となって世界を変える物語~  作者: 双瞳猫
第一章 衣川の決断

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裏切りの予兆

 文治五年(一一八九年)、閏四月。

 北上川の支流、衣川が北上川本流へと注ぎ込む合流点にほど近い小高い丘の上に、衣川館ころもがわのたちはひっそりと佇んでいた。

 奥州平泉の春は遅い。都ではとうに桜が散り、新緑が眩しい季節を迎えているだろうが、ここではようやく山桜が綻び始めたばかりだ。しかし、その淡い薄紅色の花弁も、連日の冷たい雨に打たれ、地面に泥と共にへばりついている。

 夜明け前。館を包む空気は、春とは思えぬほどに冷え切っていた。

 源九郎判官義経は、広縁に立ち、白々と明けゆく東の空を見つめていた。直垂ひたたれ一枚の身には朝気がいささか堪えたが、その冷たさがむしろ心地よかった。眠れぬ夜を過ごした熱っぽい頭を、冷気が静かに冷やしてくれる。


 兄・頼朝に追われ、京を落ちてから幾星霜。

 西国を彷徨い、吉野の山を越え、ようやく辿り着いたこの奥州の地も、もはや安住の地ではなくなろうとしていた。

 父のように慕っていた奥州の覇者・藤原秀衡ひでひらが世を去って半年。後を継いだ泰衡やすひらの態度は、日を追うごとに余所余所しくなっていた。鎌倉からの圧力に屈し、義経を差し出すことで自らの保身を図ろうとしていることは、誰の目にも明らかだった。


「殿」


 背後から、地響きのような、それでいて不思議と安らぎを覚える低い声が掛かった。

 振り返らずとも分かる。武蔵坊弁慶である。

「海尊が、戻りました」

 義経はゆっくりと振り返った。

 六尺を超える巨躯の弁慶が、縁側に片膝をついている。その背後、濡れ縁から音もなく姿を現したのは、山伏姿の常陸坊海尊ひたちぼうかいそんであった。

 海尊の衣は泥と雨に汚れ、その顔色には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。だが、その双眸だけは、冷徹な光を宿していた。


「ご苦労であった、海尊。入れ」

 義経が短く促すと、海尊は無言で一礼し、弁慶と共に部屋の中へと入った。

 火鉢の炭が、パチリと小さな音を立てて爆ぜた。


「申し上げます」

 海尊の声は、低く、抑揚がなかった。それがかえって、事態の深刻さを物語っていた。

「泰衡殿の動き、もはや疑いの余地はございませぬ。昨夜半、平泉の館より五百騎あまりの兵が密かに出立し、この衣川館を取り囲むように布陣を始めております」

「五百騎か……」

 義経は口元に自嘲の笑みを浮かべた。

「たかだか十数名の我らを捕らえるのに、大層な数だな」

「それだけではございませぬ」

 海尊は言葉を継いだ。

「北上川の渡し場は全て封鎖され、街道の要所にも検問が設けられております。もはや、袋の鼠かと」

「泰衡め……」

 弁慶がギリリと奥歯を噛み締める音が聞こえた。太い腕に浮き出た血管が、怒りの激しさを物語っている。

「あれほど秀衡公の遺言を守ると誓っておきながら、鎌倉の威光に怯え、恩義ある殿を売るとは。武士の風上にも置けぬ臆病者よ」


 義経は目を閉じ、亡き秀衡の顔を思い浮かべた。

『九郎殿、頼朝殿と戦ってはなりませぬ。されど、決して屈してもなりませぬ。この平泉が、そなたの盾となりましょう』

 あの温かい言葉は、もうここにはない。あるのは、猜疑心と恐怖に支配された、若き当主の怯えた目だけだ。

 義経は静かに目を開けた。その瞳に、かつて一ノ谷や屋島で見せたような、鋭い戦術家の光が戻っていた。


「弁慶、海尊。我らに残された道は二つだ」

 義経は二人の顔を交互に見つめた。

「一つは、この館に立て籠もり、泰衡の軍勢と刺し違えるまで戦うこと。我らの武勇ならば、五百騎相手でも一矢報いることはできよう。だが、それは犬死にだ」

「……」

 二人は沈黙して主君の言葉を待つ。

「もう一つは、ここを捨て、逃げることだ」

「逃げる、と仰せられますか」

 弁慶が怪訝そうに眉をひそめた。

「殿、逃げると申しましても、南は鎌倉、西は山岳、東は海。北は泰衡の本拠地でございます。いずこへ逃れるおつもりで?」


 義経は立ち上がり、北の窓を開け放った。

 冷たい風が吹き込み、部屋の空気を一変させる。

「北だ」

 義経の言葉に、弁慶と海尊は顔を見合わせた。

「北……蝦夷地えぞちでございますか」

 海尊が問い返す。

「そうだ。泰衡の支配が及ばぬ、さらに北の果て。かつて秀衡公が語っていた、黄金こがねの採れる島、そしてその先にあるという広大な大陸……」

 義経の脳裏に、遠い記憶が蘇る。

 十五年前、奥州へ下る途上の日本海で出会った、異国の少年。片言の言葉は、ほとんどが通じなかったが、その瞳には自分と同じ孤独と、そして世界を飲み込むような野心が宿っていた。

『いつか、王となって再会しよう』

 あの約束は、まだ果たされていない。


「殿、それはあまりに無謀な……」

 弁慶が口を開きかけたが、義経はそれを手で制した。

「無謀は承知だ。だが、ここで泰衡ごときに討たれて終わるよりは、まだ見ぬ世界に賭けてみたい。兄上の手の届かぬ場所で、もう一度、己の運命を試してみたいのだ」

 義経の声には、不思議な熱がこもっていた。それは絶望の淵で見出した、唯一の希望の光だったのかもしれない。


 弁慶は深く息を吐き出し、やがてニヤリと笑った。

「承知いたしました。殿が地獄へ行くと仰るなら、この弁慶、閻魔大王の首をへし折ってでもお供いたします」

「海尊も、異存はございませぬ。山伏の知恵、北の地でこそ役に立ちましょう」

 海尊も静かに頭を下げた。


「礼を言う」

 義経は短く言い、そして表情を曇らせた。

「だが、その前に……なさねばならぬことがある」

 二人は、主君が何を言わんとしているかを察したようだった。

 部屋の空気が、再び重く沈んだ。


***


 朝霧が晴れ始めた頃、義経は館の奥にある一室を訪れた。

 そこは、静御前しずかごぜんの部屋であった。

 障子の向こうから、微かに衣擦れの音がする。義経は躊躇いながらも、静かに声をかけた。

「静、起きているか」

「はい、九郎様」

 鈴を転がすような、凛とした声が返ってきた。

 義経が障子を開けると、静御前はすでに身支度を整え、端座して待っていた。その顔色は白く、少し痩せたように見えたが、瞳の輝きはいささかも衰えていない。

 彼女は、全てを悟っているようだった。館の不穏な空気、海尊の慌ただしい出入り、そして義経の苦悩に満ちた表情。それらを見て、何も感じぬ彼女ではない。


 義経は静の向かいに座った。

 言葉が出てこない。戦場では千の兵を指揮する声も、この一人の女性の前では喉に張り付いて出てこなかった。

「……桜が、咲き始めましたね」

 沈黙に耐えかねたように、静が口を開いた。

「ああ。だが、今年の桜は寒そうだ」

「寒くとも、花は咲きます。そして散り、また来年咲きます」

 静は義経の目を真っ直ぐに見つめた。

「九郎様。わたくしに、隠し事はなしになさってくださいませ」


 義経は観念したように息をついた。このひとには敵わない。

「泰衡が、裏切った」

 単刀直入に告げた。

「今夜か、明日の未明にも、この館は攻められるだろう」

 静の表情は変わらなかった。ただ、膝の上に置かれた手が、きゅっと握りしめられただけだ。

「そうですか……。では、わたくしも薙刀を持ちましょう。九郎様と共に戦い、共に散るなら本望です」

「ならぬ!」

 義経の声が、思わず荒くなった。

 静が驚いたように目を見開く。

「静、そなたは逃げろ。京へ帰るのだ」

「嫌です!」

 静は叫んだ。その目から、見る見るうちに涙が溢れ出す。

「なぜですか! 吉野の山でお別れした時も、わたくしは死ぬ思いでした。ようやくまたお会いできたのに、また離れろと仰るのですか。今度こそ、地獄の果てまでお供すると心に決めておりましたのに!」

「地獄へ行くのは、俺だけでいい」

 義経は静の手を取り、強く握りしめた。その手は冷たく、震えていた。

「俺はこれから、北へ向かう。蝦夷地を越え、さらに北の大地へ。それは、いつ戻れるとも知れぬ、いや、二度と戻れぬかもしれぬ修羅の旅だ。女の足ではついて来られぬ」

「足手まといになると仰るのですか」

「そうだ」

 義経は心を鬼にして言った。

「そなたがいれば、俺は戦えぬ。そなたを守るために剣を振るえば、俺の剣は鈍る。俺を生かしたいと願うなら、俺の足枷にならないでくれ」


 残酷な言葉だった。

 静は唇を噛み締め、義経の手を振りほどこうとしたが、義経は離さなかった。

「静、分かってくれ。俺は、そなたに生きていてほしいのだ。俺がこの世に生きた証を、誰かに覚えていてほしい。それができるのは、そなただけだ」

 義経の声が震えていた。

 それは、天才武将・源義経の言葉ではなく、一人の男としての、悲痛な叫びだった。

 静は義経の手の甲に顔を埋め、声を殺して泣いた。その涙が、義経の手を濡らしていく。


 どれほどの時が流れただろうか。

 静はゆっくりと顔を上げた。その目は赤く腫れていたが、そこにはすでに覚悟の色があった。

「……分かりました。九郎様がそこまで仰るなら、わたくしは帰りましょう。京へ戻り、九郎様のご無事を、神仏に祈り続けます」

「すまない、静」

「謝らないでくださいませ。……その代わり、一つだけお願いがございます」

「何だ、何でも言ってみろ」

「九郎様の、その笛を。わたくしにくださいませ」

 静が指差したのは、義経が腰に差していた龍笛りゅうてき薄墨うすずみ』であった。

 義経は笛を抜き取り、静の手のひらに乗せた。

「これを、俺だと思ってくれ」

「はい。……肌身離さず、持ち続けます」

 静は笛を胸に抱きしめた。


 その時、廊下で弁慶の咳払いが聞こえた。

「殿、手はずが整いました。静殿を京へ送るための馬と、信頼できる供の者を数名、裏門に用意させております。泰衡の包囲が完成する前ならば、商人に紛れて抜け出せましょう」

 別れの時が来たのだ。

 義経は立ち上がった。

「行け、静。振り返るな」

 静は深く一礼し、立ち上がった。

 襖を開け、廊下に出る直前、彼女は一度だけ振り返った。

「九郎様。……どうか、生きて。どこにいても、同じ月を見ております」

 その言葉を残し、静御前は去っていった。

 衣擦れの音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 部屋に残された義経は、どっと疲れが出たように座り込んだ。

 心の一部をもぎ取られたような喪失感。だが同時に、不思議な軽さも感じていた。

 守るべきものを手放したことで、自分は再び、ただの「個」に戻ったのだ。

 失うものはもう何もない。あとは、前に進むだけだ。


「殿」

 いつの間にか入室していた弁慶が、酒器を差し出した。

「別れの盃といきましょう。これより我らは、亡霊となって修羅の道を往くのですから」

 義経は盃を受け取り、一気に飲み干した。

 強い酒が、喉を焼き、胃の腑に落ちていく。

「ああ、そうだ。弁慶、海尊。我らは今日死に、そして生まれ変わるのだ」


 義経は立ち上がり、刀掛けから太刀を取った。

 名刀『膝丸ひざまる』。源氏重代の宝刀である。

 鞘を払うと、冷ややかな刃文が、薄暗い部屋の中で妖しく輝いた。

「泰衡よ、頼朝あによ。よく見ておれ。源九郎義経、ただでは死なぬぞ」


 その時、館の外で馬のいななきが聞こえた。

 敵襲か、と三人は身構えたが、気配は殺気立ってはいない。むしろ、隠密に行動しようとする慎重さが感じられた。

 海尊が素早く縁側に出て、外の様子を窺う。

「殿、裏門の方角に、数名の影が。……あれは、敵の斥候ではございませぬ」

「何者だ?」

「若武者が二人。それに……」

 海尊が目を細める。

「藤原の家紋が入った直垂を着ております。あれは、泰衡殿の弟君、時衡ときひら様かと」

「時衡殿だと?」

 義経は眉をひそめた。

 藤原時衡。泰衡の異母弟で、まだ十六歳の若者だ。平泉のまつりごとには関わっていないはずだが、なぜこのような時に。

「罠か?」

 弁慶が低い声で唸る。

「分かりませぬ。ですが、供回りはわずか。襲撃にしては不用心に過ぎます」

 義経は刀を鞘に収めた。

「会ってみよう。吉と出るか凶と出るか、賽は投げられたのだ」


 義経は直垂の襟を正し、弁慶と海尊を従えて、裏門へと向かった。

 空は完全に明け、東の空には厚い雲の切れ間から、弱々しい太陽が顔を覗かせていた。

 その光は、衣川の川面を鈍く照らし、来るべき血の嵐を予感させるように、赤黒く揺らめいていた。

 風が強まってきた。

 北からの風だ。

 その風の匂いの中に、義経は微かに、潮の香りを感じたような気がした。

 はるか彼方、大陸へと続く海の匂いを。


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