第九話
ブランシュ公爵家にルシアが住むようになって、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。
「この屋敷に来てしばらく経つけれど、何の用事もない日は初めてのことね。」
「そうですね、ルシア様。
毎日、毎日、公爵家の書類整理や領地に関する勉強で大変そうでしたし……。
その合間を縫ってマナーだ、講習だと、目まぐるしかったです!
……ルシア様は体を動かすことがお好きだから、窮屈だったのでは?」
ブランシュ公爵家に来て初めての自由な一日。
「講師の方に急な用事が入ったとのことだけど……公爵家よりも優先することって何かしら?」
「まー、普通は王家からの予定でも入らない限り、そんな無礼な真似は出来ませんよねえ?
(あはー……私は教えませんからね、旦那様。
ルシア様との時間を共有したくて、時間調整をしたにも関わらず王城に呼ばれたなんて!
本当は朝食の時に外出のお誘いをするつもりだったのに旦那様ってば残念無念でしたね。)」
そう、今回のルシアの予定の空白。
慣れない公爵邸での職務が順調に進んでいること。
そして何よりも、レオナルドが少しでもルシアとの距離を詰めたいとの一心だった。
しかし、そんなレオナルドの思い虚しく、調整していたはずの王城内での職務で朝一番に呼び出しを受けてしまったのだ。
まるで、ルシアとの仲を進展させないように誰かが邪魔をしているかのようなタイミングの良さだった。
「(そう言えば、公爵家に慣れることに必死で走り込みや修練は人目を忍んで夜にしかしてなかったわ……。
あの森の中を飛び回る時の風が気持ちいいのよね。)」
朝から雲一つない青空が広がり、ルシアは外に出かけたいと心から思った。
公爵邸の広大な庭園も確かに美しい。
手入れの行き届いた色とりどりの花々、整備された小道、どこまでも続く緑の芝生。
それは、まさに貴族の暮らしを象徴するかのようだった。
公爵家のように職人に作られ、整えられた庭の美しさを否定はしない。
しかし、深い森の中で自由に駆け回って育ったルシアには、少しだけ窮屈だと感じていた。
朝靄を切って走る時の詰めたい風。
天に向かって伸びる木々の合間を縫って飛び回る。
時として冷たい湖に飛び込み、水中から見る輝く太陽の煌めき。
生まれ育ったあの森の美しさが、ルシアの心を解き放つ場所だった。
「……サリィ、少し外に出て気分転換してくるわ。
今日は本当に良い天気だもの。」
「え……ええっ?!
ちょっとお待ち下さい、ルシア様!
そ、それはさすがにマズイかなぁ、と!」
ルシアの言葉に、側付きのサリィは焦った。
未婚の貴族令嬢の外出に、護衛なしなどありえない。
ましてや、ブランシュ公爵家の婚約者となれば、その警備は厳重であるべきだ。
「んん?
大丈夫よ、サリィ。
少しだけ散歩をしてくるだけよ?
王都は知り合いもいるし、迷子になったりはさすがにしないわ。」
「えっ、ちょっ……!
はやっ?!
ルシア様!行動が早すぎますぅぅぅっっ?!
マ、マリーナさまあぁぁぁぁっっ!!」
決めるやいなや速攻で動き出したルシア。
普段は周囲の意見を聞きつつ動く冷静さを持つルシア。
普段とは違った速すぎる行動にサリィは驚きの声を上げる。
何とかルシアを引き留めようとしたものの、気が付けば既にルシアの姿は無かった。
「なんてことっ?!
すぐにルシア様を追いかけなくてはっ!
今は旦那様も、執事長も不在ですし……すぐに旦那様と執事長へ向けて伝令を出しなさい!」
慌てた様子のサリィから事の次第を聞いたマリーナはとても驚いた。
すぐに執事長へも報告するように口を開きかけて閉じる。
そう、運悪く執事長のアストルは、王都内の所用で不在。
レオナルドも王城に登城しており、すぐに連絡が取れない状況だった。
「ルシア様をお一人で行かせるわけには行きませんし……誰かっ!
緊急の用件だと早馬を走らせなさい!」
マリーナは慌てて公爵とセバスチャンに連絡するように指示を出し、半ば飛び出すようにルシアを追いかけた。
「な、なんで……ルシア様は既に門を通過されているのっ?!」
「さ、さあ……なぜでしょう?
(ルシア様ぁぁっっ!
さすがに普通のご令嬢は門を超えたり出来ません!
それにっ普通のご令嬢はこんなに早く移動も出来ないんですよぉぉぉっっ!!)」
広大な公爵家の敷地内で、貴族の令嬢が移動できる範囲などたかが知れていると思っていたマリーナ。
その予想を大きく上回り、何故か門の外へと出てしまったルシアの行動力にマリーナは叫んでしまった。
荒ぶるマリーナを前にサリィは冷や汗が止まらなかった。
ある意味では箱入り娘だったルシアには普通のご令嬢という知識は有っても、理解は出来ていなかったのだ。
ブランシュ公爵家の門を超え、既に王都の中心街まで進んでいたルシアの背中を見つけたマリーナとサリィ。
「ルシア様!お待ちくださいませ!護衛を……!」
「ルシア様ぁ」
「あら?
マリーナも、サリィもどうしたの?
えっと……二人とも大丈夫?
すごく息が上がっているわ。」
二人の声に足を止めて振り返ったルシアはキョトンとした表情を浮かべていた。
やっとの思いで追いついたルシアの側で、マリーナとサリィは肩で息を整える。
最も、隠密の一員であるサリィにとってはどうという距離ではなかったが、一般人のフリをする必要が有った。
「ル、ルシア様……!
追い付けて良かったです!
ルシア様、どうかお戻りを!
貴女様の身に何かあっては旦那様に顔向けが出来ません……!」
「そ、そんな大袈裟な……」
「ルシア様、シュバルツ伯爵家では違うかもしれませんけれど……。
その、一般的な貴族のご令嬢が外出する際には、護衛を付けるか、家族の男性が付き添われることが普通と言いますか……」
「……え、そうなの?
えっと……ご、ごめんなさい、マリーナ、サリィ。
言い訳になってしまうけれど、家では普通に一人で外出することも多くて……。
貴女達を困らせるつもりはなかったの。」
ルシアは、自由に外を歩き回りたいという気持ちは嘘ではなかった。
しかし、それは誰かを困らせてまでしようとは思っていなかった。
「ルシア様……分かってくださって……ご無事で良うございました。」
「心配を掛けてごめんなさい、マリーナ。
お出掛け出来ないのは残念だけど、公爵閣下に叱られて仕舞う前にかえり……」
「おお、ルシア嬢じゃないか!
お元気でしてたか?」
「ルシア様、お久しぶりです!
相変わらず可愛いですね!」
「……あのルシア様、お知り合いですか?」
既に足を踏み入れていた王都の中心街。
その通りに面した店主や、露店を構えるルシアの馴染みの商人たちが、気さくに声をかけてくる。
「あー!
ルシアお姉ちゃんだー!」
「ルシアお姉ちゃん!
いつきたの?!
あそべる?あそべる?」
「ルシアねーちゃん!
ギル兄はいっしょ??」
商人達だけでは無く、小さな子供達までもルシアの姿を見つけると、親に促されるまでもなく駆け寄って来た。
「こんにちは、みんな。
ごめんね、今日は兄様は一緒じゃないの。」
ルシアは、屈んで子供たちの頭を優しく撫で、笑顔を向けた。
王都の住民達と気安く接するルシア。
その光景を見て、マリーナは不思議に思った。
貴族令嬢がこれほど市井の人々に親しまれているのは珍しい。
下位の貴族でも貴族は貴族。
貴族と平民の壁は厚く、そのプライドは言わずもがな。
そんな貴族、しかも伯爵家の令嬢が、これほどまでに気さくに、自然体で民と接している。
「ルシア様、その……街の皆様と親しいのですね。
わたくしどもの旦那様も、ここまで市井の方々に慕われているかといえば……」
マリーナの素直な問いに、ルシアは微笑んで答える。
その横顔には、貴族の娘としての立場を超えた、温かい慈しみが滲んでいた。
「そうね、普通の貴族のご令嬢らしくないわよね。」
マリーナの指摘に苦笑するルシア。
「ねえ、数年前の飢饉のことをマリーナは覚えてる?」
困ったように笑うルシアの言葉にマリーナはハッとする。
「あの時は……どこの領地も大変だったと聞いています。」
マリーナの変わりにサリィが何かを思い出すように呟いた。
「どこまで知られているかは分からないけれど……。
私の生家であるシュバルツ家の領地は、あの飢饉の時でも収穫量は全く変わらなかったの。
それは、先祖代々が続けて来た品種改良の成果だったわ。
だから、父は無償で品種改良した種や苗を王家に献上したの。
でも、種や苗はすぐには食べられない。
飢えた民のために、たかが男爵でしかないシュバルツ家ができることなんてとても少なかったわ。」
「ルシア様……」
「他の許可を得た貴族の領地や王都で少ない食料を送ったり、民のために炊き出しをしたり、怪我の手当てをしたりしたのよ。
あの時は本当に大変で、毎日が必死だったけれど、家族や領民みんなで力を合わせて乗り越えられたわ。
飢饉が落ち着いてからは、セレスティナ王女殿下の公認で、読み書きを教えたりもしていたの。」
ルシアに食べてくれ、持って帰ってと渡された野菜やお菓子の山。
あっちへ、こっちへと呼び止められて、いつの間にか広場へと移動してしまったルシア達三人。
広場のベンチに腰を下ろし、ルシアは過去の思い出をさらに続けた。
子供達がルシアの周りに集まり、彼女の言葉に真剣な眼差しで耳を傾けていた。
その瞳は、未来への希望を宿しているかのようだ。
「一芸は身を助けるって言うでしょう?
文字が読めれば、立ち振舞いが綺麗ならば、それだけで雇ってもらえる確率が上がるわ。
魚を一匹与えることも大事だけど、継続性を考えれば魚を獲る方法を教えることの方がずっと大切。
私達シュバルツ家の家訓でね、『学ぶこと、つまり教育に勝る財産はない』って代々受け継がれているの。
だから、私も微力ながら、できることをやろうと思って。」
ルシアの言葉に、マリーナは深く感銘を受けた。
ルシアは単なる貴族令嬢ではなく、民を思い、そのために自ら行動を起こす真の淑女であると。
貴族としての責務を、形式ではなく、心から果たそうとしていることに、マリーナは深い尊敬の念を抱いた。
そんな和やかな会話の最中、広場の片隅、路地裏から影が伸びる。
ゴロツキ紛いの男達が、ニヤニヤとした気持ちの悪い笑みを浮かべ、ルシアたちに近づいてきたのだ。
彼らの視線は、ルシアの身につけている上質なドレスや、首元で控えめに輝く宝石に釘付けになっていた。
「おい、そこのお嬢さん方。
随分と良いもん身につけてんじゃねぇか。
へえ?顔立ちも悪くねえな。
そっちのババアはちょっとばかし年増だが、姉ちゃん二人は売ったら金になるなぁ。」
馬鹿な貴族の女と思い込み、有り金を巻き上げようと思ったのだ。
男たちの言葉に、マリーナとサリィがルシアを庇うように前に出る。
「貴様ら!何をする!
ブランシュ公爵家の婚約者に、無礼であろうが!」
マリーナは毅然とした態度で睨みつけるが、多勢に無勢。
ゴロツキたちは、女に何ができるものかと嘲笑する。
「へっ、公爵様だと?
こんなとこで突っ立ってるとは、護衛も付けられねぇ端っこ貴族のお嬢さんだろ?
さっさと金を出せば、痛い目見せずに済むぜぇ?」
「邪魔だ、この女!」
ゴロツキの一人が、マリーナの腕を乱暴に掴み上げたその瞬間。
「ひぎゃっっ」
ルシアの瞬速の一撃がゴロツキの顔面に炸裂した。
鈍い音と共に男は鼻血を噴き出し、よろめいた。
「ねえ、知ってる?
女だからって男より弱いとは限らないのよ。」
ルシアの表情は、一瞬で変わった。
先ほどの穏やかな笑顔は消え失せ、一切の感情が消え失せた戦う者の顔となっていた。
「ひっ……な、なんだよ、この女はっ」
ルシア瞳には、獲物を狩るような鋭い光が宿り、その視線だけで破落戸はすくんでしまう。
「(サリィ、貴女はマリーナを。
潜入中の貴女が、こんなことで貴女の実力を見せるべきではないわ。)」
「(ですが!
……わかりました、ルシア様。)」
状況を冷静に分析したルシアは矢羽根でサリィへマリーナを守るように指示を出す。
ルシアならばノワールとしての技術を見せなければ、騎士の家系を持つ母からの指導の賜物だと誤魔化せる。
そう……多少ルシアが暴れても、自分の身は自分で守れ、殺られる前に殺れ精神が有名な母親の血筋は説得力が有るのだ。
「我が家にはね、もう一つ家訓があるの……
一に自衛防衛、二に生存反撃、三に迎撃報復、四に手段を選ばず殺られる前に殺れ!」
「ゴチャゴチャうるせえっっ!
女相手に滑られてたまる、ぶぎゅるっっ」
ルシアは、掴みかかってきた相手の力を利用して見事に投げ飛ばした。
地面に激突した大柄な男はべろっと舌を出して地面に伸びてしまう。
他のゴロツキたちは、その光景に怯みながらも、数で圧倒しようとルシアに襲いかかった。
「これでも腕っぷしには多少の自信があるんですよ?
私の修練は、こんなチンピラ相手に手加減をするほど甘くはないわ。」
ルシアは笑顔で華麗な武術を披露し、次々とゴロツキどもをなぎ倒していく。
その動きはしなやかで力強く、まるで舞を踊るかのようだった。
マリーナは、呆然としながらも、ルシアの知られざる一面に感嘆の声を漏らした。
そして、広場に集まっていた人々は、ルシアの活躍に子供たちは目を輝かせ、大人たちは喝采を送ったのだった。




