第七十四話
全ての真実が露呈し、自らの存在が否定されたことを悟ったフィリップは半狂乱になった。
「嘘だ!嘘だっ!嘘だっ!!
私は王子だ!王位は私のものだ!」
フィリップは足元が崩れ落ちるような絶望に駆られ、我を忘れて母親であるアニエス側妃へと詰め寄った。
「母上っ!母上っっ!!
私が父上の血を引いていないなどあり得ませんよねっっ?!」
フィリップは、縋るような形相でアニエス側妃の両肩を掴んだ。
「…………い」
しかし、アニエスの瞳にはもはや息子を愛する母親の光は宿っていなかった。
「……………さない……」
アニエスの口から漏れたのは、掠れた怨嗟に満ちた言葉だった。
「母うっ……え……?」
ボソボソと呟くアニエス側妃の声を聞き取ろうとしたフィリップの腹部に、閃光のような鋭い痛みが走った。
「…………許さない許さない許さない許さない許さないっっ!!」
アニエスが手を引けば、鮮血が滴り落ちる。
「な、で……?」
アニエス側妃が懐に隠し持っていた短剣で躊躇なくフィリップの脇腹を深く抉り、そして引き抜いたのだ。
呆然とした様子のフィリップは、自分に何が起こったのかすぐには理解できなかった。
刺された場所を押さえていた手が真っ赤に染まっっている。
「あ……あっ……」
母親に刺されたのだと理解したフィリップは、その場に力なく崩れ落ちた。
「ど……して……」
自分の身に起きた事が信じられず、フィリップは血を吐くようなか細い声で呟いた。
「あぁあ゛あ゛ぁぁっっ!!!」
崩れ落ちていたアニエス側妃が、頭をかき乱しながら顔をゆっくりと上げた。
その顔からは理性が抜け落ち、瞳からは正気の色がなくなり、代わりに静かな研ぎ澄まされた狂気が溢れ出ていた。
予期せぬ側妃による流血の事態に、その狂気に衛兵の動きが一瞬遅れる。
その衛兵達の隙を怒りと怨嗟に満ちて、理性のなくなったアニエスは逃さなかった。
「許さないっっ!
陛下は!エドワード様は私のものよっっ!!
おまえの、お前は王の血ではない!
私の、私の愛を穢した! 汚らわしい悪魔よ!」
アニエス側妃は血に染まった短剣をフィリップに向け、髪を振り乱しながら狂ったように叫んだ。
彼女アニエス側妃にとって、フィリップは愛する王を手に入れるための道具の一つに過ぎなかった。
そして……失敗した道具は、いや、不備の有った道具は……王と己の純粋でかけがえのない至高の愛を汚す悪魔でしかなかったのだ。
「このっ、悪魔めえぇぇぇっっ」
心を覆い尽くした狂気のままに、アニエスは短剣を再度振りかざした。
消し去ってしまいたい過ちを、フィリップという存在を己の前から消し去るため……その心臓を一突きにしようと獣のような勢いで襲いかかった。
「……っ!」
滴り落ちた血と一緒に体を動かす気力さえも失ったフィリップは、衝撃に備えて固く目を閉じることしかできなかった。
誰かの、いやたくさんの悲鳴が、広間に木霊するように響き渡る。
「…………っ……え……?」
固く目を閉じたフィリップの頬に、熱く、生温かいものがポトリ、ポトリと数滴落ちてきた。
血の匂いと、微かな鉄の味が彼の鼻腔を突く。
恐る恐る目を開くと、そこにいたのは血飛沫を浴びながら、フィリップを庇うようにその身を盾にした……クラリスだった。
アニエスの短剣の刃は、クラリスの華奢な背中に深々と突き刺さっていたのだ。
「……あ……く、クラリス……?」
フィリップは何が起こったのか理解できず、愕然とした表情でクラリスの名を呟いた。
目の前の光景、そして顔に滴るクラリスの血が、フィリップの理性を呼び戻し、無理やり現実に引き戻していく。
「……っ……」
クラリスは激しい痛みに顔を歪ませながらも、フィリップに向かって最期の、力ない微笑みを浮かべた。
「……よかった……ごめ、なさい……フィリップ様……」
そう言うと、クラリスは糸が切れたように、フィリップの胸元へ倒れ込んだ。
「クラリス!!」
フィリップは、反射的にその小さな身体を両腕でしっかりと抱きとめた。
クラリスの身体はまるで糸が切れた人形のように力を失っている。
フィリップの夜会服がクラリスの鮮血に染まっていく。
初めてフィリップは誰かの死に目の前で直面し、悲痛な叫びを上げるのだった。
「…………」
エドワード王は、その地獄のような光景を一切感情を滲ませない冷静な視線で一部始終を見届けた。
「衛兵!」
エドワード王の短く重い一言が、衝撃で静止していた衛兵たちを現実に引き戻す。
「いやぁっ!私に触るなっ!このっ無礼者っっ!!」
狂愛の黒幕アニエス側妃は、その場で騎士団によって瞬時に拘束された。
「陛下っっへいかっっ!エドワードさまぁぁっっ!!」
エドワードだけを求め、手を飛ばし、衛兵達を振り払おうと暴れるアニエス。
最後の最後まで「陛下が愛しているのは私よっ!」「私がっ私だけがっっ!!」とアニエスは、狂乱の叫びを上げ続けた。
衛兵達に取り押さえられて広間から引きずり出されながらも、アニエスは決してエドワード王から目を逸らすことはなかった。
そして……広間には静寂が戻った。
……十七年にわたる王家の闇と、偽りの王子を巡る争いは、血と裏切りによって幕を閉じようとしていた。




