第七十一話
「(父上はなぜ何も言って下さらないのか!
いや、無言は何よりの肯定と言うことか!)」
フィリップの脳裏に一瞬だけ疑問が浮かぶ。
しかし、すぐにその疑問は掻き消され、父である王は絶対に己の味方だと信じて疑わなかった。
フィリップの傲慢な宣言が広間に響き渡る中、その高揚は狂気へと変わり始める。
「お前達! あの穢らわしい女を取り押さえ、伯爵令嬢にクラリスへ許しを請わせろっ!」
フィリップは攻撃的な笑みを浮かべ、取り巻きの卒業生たちに命令を下す。
「「「…………」」」
取り巻き達はフィリップの声に反応し、虚ろな顔のまま、ゆらりとした足取りから一気に走り出した。
彼らはそれぞれフレイヤとルシアへ二手に別れて走り寄ってきた。
その行動には暴力の意図がはっきりと見て取れる。
「きゃあっ」
「陛下の御前で正気かっ?!」
この厳粛な舞踏会が一転して私闘の場と化す雰囲気に、傍観していた貴族たちから悲鳴が漏れた。
「コッチにこい!」
取り巻きの一人がルシアの華奢な肩を掴もうと手を伸ばした、その一瞬。
沈黙を守っていたルシアの瞳に冷たい光が宿った。
「これは、正当防衛でしてよ。」
掴みかかられようとしているはずなのに、相手へと向かってルシアは微笑んだ。
「っ?!
ぎゃっっ?!」
ルシアは一瞬で体を沈めると、取り巻きの一人の腕を掴み、流れるような動作で背後へと回った。
「はあああっ!」
柔らかなドレスを翻したルシアは、体重を利用して彼を鮮やかに背負い投げた。
「うぎゃっ!」
取り巻きの体が絨毯の上で激しい音を立てて転がる。
ルシアが背負投をしたとほぼ同時に、レオナルドも動いた。
「私の大切な人に触れるな」
低く威圧的な声と共に、ルシアに掴みかかろうとしたもう一人の屈強な体格を持つ取り巻きの前に立つ。
そして、その取り巻きの腹部にレオナルドの磨き抜かれた革靴が正確無比に叩き込まれた。
「私の愛しい唯一の人に危害を加えることなど許さん。
暴力で持って従わせようとするなど、一人の人間として恥を知るがいい。」
屈強な体格の取り巻きは、レオナルドの一撃で広間の柱へと吹き飛ばされる。
「淑女の柔肌に触れるなど、無粋極まりないですわ」
そして、背負投をした直後にルシアは手に持っていた扇を、フレイヤへと掴みかかろうとした別の取り巻きに向けて全力でぶん投げた。
扇は風を切り、見事に子息の顔面に直撃し、派手な音と共に彼もまた倒れ伏した。
「なっ、貴様らっ……王族に刃向かう気かっ……!」
取り巻き達が無力化されたことにより、声を荒げようとしたフィリップ。
だが、瞳に剣呑な光を宿したレオナルドが、静かだが有無を言わせない声音で遮った。
「貴殿は年若いからと我慢しておりましたが、繰り返される我が婚約者への非礼の数々。
すでに承服するには度が過ぎると、断じざるを得ません」
「ぐっ……」
レオナルドの公爵としての威厳が、フィリップの激情を一時的に抑え込む。
「フレイヤ様、お怪我は有りませんか?」
その隙にルシアがフレイヤの側に歩み寄り、心配そうに声を掛けた。
「あら、何の問題もありませんわ。
だって、ルシアが守ってくれたもの」
「フレイヤ様に怪我が無くて何よりです。
…………ふふ、きっと小さな怪我でもお怒りになる方がいらっしゃいますもの。」
「……そうね。
ふふ!私のことを好き過ぎるから困ってしまうわ。」
フレイヤは微笑み、ルシアの肩にそっと手を置く。
ルシアもフレイヤの笑みに応えて、二人は微笑み合う。
「ふっ巫山戯るな!」
まるで自分の存在を忘れたかのように、和気藹々と微笑み合うルシアとフレイヤの姿にワナワナと震えてフィリップが叫ぶ。
屈辱に耐えかね、気を取り戻したフィリップがもう一度声を荒げた。
「貴様らっ王族であり、次期王たる私に向かって無礼だぞっ!
如何に公爵家当主とは言え、王位を継ぐ王子である私に向かって楯突いてタダで済むと思うなっ!!」
その言葉に、クラリスがすがるように抱き着いた。
「こ、公爵様! フィリップ様は悪い人を退治しようとしているだけなのです!
全ては、 私に意地悪なこ……」
「煩くってよ、下郎が」
クラリスの言葉を、フレイヤが冷たい声音でピシャリと一刀両断した。
「なっ……」
「私はフレイヤ・ルージュ。
誇り高き真紅の薔薇の家紋を掲げしルージュ公爵家の令嬢でしてよ。
お前のような下賤な輩、この私が相手にする価値があるとでも?
万が一、お前ごときに声を掛けてやるならば、正々堂々と面と向かって注意しますわ。
そうは思いませんこと、ルシア?」
フレイヤは己の誇りを胸に、今までの怒りも込めてクラリスを見下ろす。
「その通りですわ、フレイヤ様。
フレイヤ様の足元にも及ばない矮小な存在をどうして気に掛ける必要がございましょう?
血筋も、才知も、努力も、美貌も、何もかもがフレイヤ様の方が優れておりますもの。
そう、心の美しさ、気高さすらも、あの者では到底フレイヤ様には及びませんわ」
ルシアは友を守るために、容赦のない貴族らしい言葉で追撃した。
「あら、ありがとう。
ふふふ、ルシアもあの程度の下郎で満足するような男には勿体なくてよ。
あの下郎と比べるまでもなく、ルシアの方が美しく、強いもの」
「貴様らあっっ!!」
クスクスと優雅に笑い合うフレイヤとルシア。
完全に侮蔑されたクラリスを押し退けて、フィリップは腰の剣を抜刀し、怒りに任せて踊りかかった。
「その剣の切っ先は、私に向けろ。
二度と、私の愛するルシアを狙うな。」
「ひぎゃっ!」
だが、ルシアとフレイヤを狙った白刃は、レオナルドによって完璧に遮られた。
レオナルドは剣を抜くことさえせず、フィリップの剣をフィリップ自身の肘の関節を狙って叩き上げ、白刃を天井へと跳ね飛ばした。
「フィリップ!
誰か、あの王族に無礼を働いた無礼者を取り押さえなさいっ!」
アニエス側妃の悲鳴のような金切り声が響く。
彼女は事態が思わぬ方向へ進んだことに、焦燥の色を隠せない。
レオナルドは跳ね飛ばしたフィリップの剣を、静かに目で追う。
「貴殿は勘違いしている。
私達の行動は、陛下の許可を得てのこと」
その言葉と同時に、エドワード王が玉座から、ゆっくりと、しかし確固たる意志を持って立ち上がったのだった。




