第四十九話
ルシアが恋心を自覚し、レオナルドと二人でブランシュ公爵家への帰路へついていた頃。
綺羅びやかな王城内の一室で、アニエス側妃は顔色を悪くした一人の工作員から報告を受けていた。
実際に戦闘に参加した工作員たちはすべて捕縛されてしまった。
このアルカンシエル王国へ潜入していた手練れの全てが捕らえられてしまったのだ。
そんな危機的な状況の中で、捕縛を逃れたこの工作員。
一番の実力者と言うわけではなく、単に遠目で様子を窺っていた下っ端でしかない。
そう……この工作員だけが、意図的に他の工作員を見つけ出すためだけに見逃され逃げ延びていた。
「……まあ。失敗したと仰るの?」
アニエス側妃の声は、驚くほど静かだった。
柔らかな響きの奥に、氷のような冷たさが潜んでいる。
彼女の優雅な微笑みは少しも崩れない。
……だが、その瞳の奥に宿る光は、報告を受ける工作員の背筋を粟立たせるものだった。
「も、申し訳ございません、アニエス側妃様……!
シュバルツ伯爵令嬢の武術の腕前は、我々の予想を遥かに超えておりました。
彼女の母が騎士の家系と伺ってはおりましたが、それだけでは到底説明できぬほどで……。
加えて、ブランシュ公爵の執着も尋常ではなく、その護衛の剣技も凄まじく……撤退せざるを得ませんでした。」
「まあ……そう。
つまり、わたくしの可愛い駒たちは、あの娘ひとりに蹴散らされたと……そういうことですのね?」
アニエス側妃はゆるやかに扇子を開き、優雅にあおぎながら微笑んだ。
その声音は甘く、しかし、言葉の刃は鋭く胸を抉る。
「……っ」
報告を受ける工作員はただ膝をつき、震える声で頭を垂れるしかなかった。
「ふふ……。面白いではありませんか。
あの娘……ただの伯爵令嬢ではないのね。
ロデリック伯爵……やはり、何かを隠しているのかしら?」
唇に指を添え、くすりと笑う。
だがその笑みは艶やかでありながらも、どこか底知れぬ狂気を孕んでいた。
「……しかし、考えようによっては好機でもありますわね。」
アニエス側妃は立ち上がり、ゆるやかに歩み寄る。
そして、膝をついたままの工作員の頬に、白く細い指を這わせた。
慈愛めいた仕草に見えるのに、その温度は異様に冷たい。
「フィリップの傍に、武に秀でた娘がいる……。
それは王位継承をしたフィリップの良き肉盾となるでしょう。
なればこそ、その力をわたくしの手に収めればよいのです。」
低く、しかし優しく囁かれたその声に、工作員は息を詰めた。
「もう一度、シュバルツ伯爵令嬢ルシアをわたくしのお茶会へ招きなさい。
今度は“フィリップ王子の護衛役”として王宮に仕えるよう、直接勧めてみましょう。
……いいこと?
決して同じ過ちは繰り返さぬように。
お前達は、彼らの心の隙を探り出すための道具なのですから。」
最後の一言は、まるで愛おしい子供を諭す母のように穏やかだった。
だが、その響きに宿るものは、慈愛ではなく、底なしの狂気と支配欲であった。
アニエス側妃の扇子が、静かに閉じられる音が、まるで処刑の鐘のように室内に響いた。
「それに……ブランシュ公爵のシュバルツ伯爵令嬢への執着も見て取れましたわ。
愛する者のためならば、どんな犠牲厭わない。
ふふ!私にもよくわかります。」
アニエス側妃の艷やかな赤い唇が弧を描く。
「ふふ……ふ、ふあははは!
ああっ、あぁぁぁっ!
私の愛する陛下っ!恋しいエドワード様っ!
私達の愛の結晶であるフィリップを必ずや次代の王へしてみせますわっ!
それこそが私からの愛しいエドワード様への愛の証明っ!
フィリップが王位を継げば……今度こそっエドワード様は私を、私だけを愛して下さるでしょう!!」
「ひっ……」
狂気じみたアニエス側妃の様子に工作員の口から小さな悲鳴が漏れる。
「あら……? まだ居ましたの?
早く命令を遂行なさい……あなたの代わりはいますのよ?」
「ひっ……も、申し訳ありません!
す、すぐにご命令通りに致します!」
帝国の命を受けてアルカンシエル王国の上位貴族、出来るならば王族に取り入って国政を乱すはずだった工作員達。
初めの頃は狂った側妃の産んだ曰く付きの王子に王位を継がせれば万々歳だった。
……しかし、気が付けば狂った側妃の命に従って工作員の大半は失われてしまった。
だがそれでも、工作員達はアニエス側妃に従うしかないのだ。
帝国へ戻ったとしても、任務に失敗した工作員の末路など決まっているのだから……。




