第四十三話
数日後のとある午後。
ブランシュ公爵家にあるレオナルドの執務室。
書類の山に埋もれながら、レオナルドは窓の外をぼんやりと眺めていた。
脳裏に浮かぶのは、靴を一緒に買いに行ったときのルシアの姿だ。
他者から見れば亀よりも遅い歩みかもしれない。
しかし、確実に己とルシアの距離感が近付いていることをレオナルドは感じ取っていた。
「(ああ、ルシア……会いたい……)」
レオナルドは、心の声が漏れそうになるのを必死で堪える。
この数日、何かと理由をつけてはルシアに会い行っている自覚はあった。
その度に侍女たち、特にサリィに生温かい目で見られていることには勿論レオナルドは気づいていた。
だが、どうしても会いたいのだ。
この屋敷に来た当初とは違い、レオナルドの姿を見て蕾が綻ぶようにルシアが微笑んでくれる。
自分のために向けられた、ルシアの微笑み。
その微笑みを見詰めることが許されるならば、侍女たちに生ぬるい目で見られようとも、レオナルドはもうどうにでもなれという気持ちだった。
「旦那様、休憩になさっては?」
「アストル?!」
いつの間にか背後に立っていたアストルに驚くレオナルド。
「念の為に申し上げておきますが、私は入室の許可をお声掛けしております。
上の空なお声でのお返事ではありましたが、旦那様より許可を頂いておりますれば。」
「そ、そうか……いや!
ちゃんと入室を許可したことも、アストルが入ってきたことにも気が付いていたからな!」
にこやかではあるが、念を押すように言うアストル。
その表情は、公爵の内心を見透かしているかのようだ。
「……アストル。
最近、どうも執務に集中できないんだ。」
レオナルドは、アストルにはすべて見透かされていると観念して正直にため息混じりに答えた。
「そうでございますか。」
こぼれ落ちたレオナルドの正直な思いに、アストルの口元がわずかに緩む。
「普段が王城の執務に、公爵としての役割にと旦那様は多忙でございますから。
たまの息抜きも必要かと愚行いたします。」
公爵家の執事長としてレオナルドの予定を把握しているアストルは共感の意を示す。
「……ところで、此処に今夜のオペラ『月下のセレナーデ』のチケットがございます。
もしよろしければ、気分転換にいかがでしょうか?
恋人や夫婦に人気の舞台だとか。
お節介かとは思いましたが、私が手配いたしました。」
アストルが差し出したのは、王立歌劇場の最高級席のチケットだった。
そのチケットを見たレオナルドの瞳が輝く。
「オペラか……良いですね。
ですが、一人では味気ない。
……ルシアを誘っても良いだろうか?」
レオナルドは、少し顔を赤らめながら尋ねた。
「勿論でございます」
アストルは、心底嬉しそうに頷いた。
「旦那様。
きっとルシア様も、お喜びになられるでしょう。」
アストルの言葉に、レオナルドの胸が高鳴る。
ルシアと二人でオペラ……想像するだけで、柄にもなく顔が熱くなったのだった。
その日の夜。
公爵邸のエントランスで、ルシアはレオナルドを待っていた。
レオナルドに誘われた思いがけない気分転換の外出。
それが、まさかオペラ観劇だとはルシアは思いもしなかった。
数時間前。
戸惑いつつも、準備を始めたルシアへと侍女長のマリーナが笑顔で取り出してきたもの。
それは、レオナルドが"想い人へ贈る"と言った、あの夜空のように深い青色のドレスだった。
「ルシア様、今度こそ……このドレスを受け取ってくださいますね?」
「あうぅ……マリーナったら、イジワルだわ……」
満面の笑顔のマリーナの言葉に、ルシアは赤面する。
「あ、あの時は、その……レオナルド様のことをわかっておりませんでしたし……。
でも……やはり、私がそのドレスを受け取って良いのか……」
「いいんです!
この一着は、ルシア様のために作られたものですから!」
「で、でも……もし、違ったりしたら、レオナルド様は嫌な思いをなさらないかしら?」
「……わかりました。
では、このドレスは他のご令嬢に差し上げ……」
「そ、それはっダメ!
その……それ、は……イヤ、だわ……」
顔を林檎のように真っ赤に染め上げて、自信なさげに俯くルシア。
色恋沙汰に不慣れで、一人の年頃の少女としての自分に自信が無いゆえにルシアは不安だった。
「マリーナ……私、このドレスを着ても良いのかしら?
こんな素敵なドレスだもの……。
私が着ては、素敵なドレスが可哀想……」
「可哀想ではありまそん!
断言いたしますし、私めが太鼓判を押します!
必ずルシア様に、このドレスは似合います!」
「あ、ありがとう」
力説するマリーナの強力な後押しもあって、ルシアは深い青色のドレスへと袖を通した。
そして、レオナルドと二人で買いに行った靴を履く。
「変じゃないかしら?」
「ルシア様!
とてもよくお似合いですわ!」
鏡に映った自分の姿にルシアはドキドキする。
その表情も、雰囲気も、すべて恋する乙女そのものだった。
そんなマリーナの苦労もあって、完成したルシアのコーディネート。
普段着慣れない華やかな衣装に、ルシアはどこか落ち着かない様子でレオナルドを待っていた。
「(レオナルド様とオペラなんて、私……大丈夫かしら?
でも、あの時もちょっぴり思ったけど…… 男女が二人で出かける。
それって、俗に言う……デ、デートってやつじゃないかしら?
あ、でも……私、兄様と二人で出かけることもあるし……レオナルド様は、ど、どういうお気持ちなのかしら?)」
ルシアは、普段の冷静沈着さはどこへやら、恋が絡むと途端に空回りする思考回路で「迷推理」を繰り広げていた。
レオナルドが自分に好意を持っているのは、確信はないが何となく……わかっている。
でも、まだはっきりとした「愛している」の一言は受けていない。
その「あと一歩」の距離が、ルシアを妙にそわそわさせていた。
「ルシア、待たせて済まない。」
その時、レオナルドの声が響いた。
ピョンっと背筋が伸ばし、振り返ったルシア。
その目に飛び込んできたのは、夜会服に身を包んだ、いつも以上に精悍で美しいレオナルドの姿だった。
「………………
(か、かっこういい……
え?
え、えー……わ、わたし……こんな大人の色気もマックスで、素敵な出で立ちのレオナルド様の隣に並ぶの?!
えっっ?!
それって法律的に大丈夫??
私みたいなちんちくりんに許されることなのっ?!)」
煌びやかで、洗練されたレオナルドの姿にルシアは見惚れ、その頬が薔薇色に染まる。
そして、それはレオナルドも同じだった。
レオナルドもまた、ルシアの普段と違う装いに、思わず息を呑む。
「(な、なぜだろう……! 今日のルシアはより一層輝き、美しく見える!)」
レオナルドは、心の中で叫んだ。
顔へ熱が集まり、どんどん熱くなるのを感じ、レオナルドは慌てて咳払いをする。
「ルシア……」
咳払いをして、もう一度ルシアへと視線を向ければレオナルドは気が付く。
「その……その、ドレスを着てくださったのですね。」
レオナルドの表情が無意識に蕩けるような笑みへと変わっていく。
「やはり……やはり、その夜空のように深い青が貴女によく似合う。
ルシアの透き通った白い肌がよく映える深い青。
シンプルだが、繊細なレースがルシアの清楚さを称え、人魚の涙のような真珠が艷やかな黒髪を際立たせる。
今宵の貴女は月の女神よりも美しく、数多の視線を奪ってしまう。」
「レ、レオナルドさま……?」
「ですが、どうか……どうか、ルシア。
美しい貴女へと贈るセレナーデは私にだけ許してほしい。」
お願いだ、とルシアの黒髪の一房に軽く触れ、口づけながら熱に浮かされたように呟くレオナルド。
「ふ、ふにゃ……!
あ、あわわ……えっ、えっと……その……よ、よろしくお願いします……!」
顔と言わずに、耳や首筋まで真っ赤に染め上げ、翡翠色の瞳を潤ませたルシア。
あまりのレオナルドの色気と熱に、ルシアの方が溶けてしまいそうだった。
「……あ……あっ、いや!
も、申し訳ない、ルシア!
決して、無理強いをしようとしたわけではなく!
いえっ!ルシアの美しさや可愛らしさが世界一だということは間違いないこの世の真理ですっ!」
真っ赤になって狼狽えるルシアの様子にやっと気が付いたレオナルド。
自分の口からスラスラと飛び出した賛辞の数々に、レオナルドもまた動揺する。
謝罪をしているのか、さらにルシアを褒め称えているのか分からない弁明を必死に紡ぐ。
「「……………」」
結局、双方ともに顔を真っ赤にして俯いてしまうのだった。
そんなルシアとレオナルドのもどかしい様子に影から覗いていたアストルを筆頭とした使用人たち。
二人の初々しいというか、焦れったいというか……。
とにかく、二人の恋路を使用人たち一同は見守るのだった。




