第三十九話
ブランシュ公爵家にルシアの父より手紙が届いて数日後。
「ブランシュ公爵家へようこそ。
歓迎いたします。」
「お姉様、お兄様、フローリアン、久しぶりですね。
皆、元気でしたか?」
とうとうブランシュ公爵家にルシアの兄弟達が来訪していた。
「ブランシュ公爵、この度は急な来訪を快く承諾して下さり、心より感謝を申し上げます。」
第一わ……ではなく、初めてブランシュ公爵家にルシアと共に来た時の雰囲気を消し去ったギルバートが進み出る。
「我らが父、シュバルツ伯爵からも重々感謝の意を伝えるように言われております。」
「……ご丁寧にありがとうございます。」
公爵家の広間に向かい合って座り、形だけは談笑しているようにも見える。
だが、ギルバートの顔に浮かぶ笑みは父親であるロデリックを彷彿とさせるものだった。
ルシアの兄であるギルバートは、一見すると気だるげでやる気のなさそうな雰囲気だった。
しかし、その瞳の奥には鋭い知性が宿っている。
「ブランシュ公爵様。
この度は、妹のルシアが大変お世話になっております。」
ギルバートに続くように、ヴィオレッタが艶やかな声で公爵に挨拶をした。
その声は、まるで聴く者を魅了するような響きを持っていた。
「ふふふ……」
美しい意匠の施された薄紫の扇の影から、レオナルドを流し見るヴィオレッタ。
ルシアの姉である彼女は、毒を含む薬を扱う天才であり、その美貌は見る者を惹きつける。
紫色の華やかなドレスに身を包み、妖艶な笑みを浮かべる彼女の姿は、まさに「艶めかしい」という言葉がぴったりだった。
「姉さまっ!
お会いしたかったです!
僕……その、姉さまが居なくて寂しくてたまりませんでした……!」
ルシアへと満面の笑顔を向けるフローリアンの姿は、まさに天真爛漫な天使の笑み。
「姉さま……そろそろ家が恋しくなっていませんか?
こんな僕ですら、王城内での出来事を聞き及んでいますし……僕、姉さまのことが心配なんです……!」
無邪気な笑みを見せていたかと思えば、大きな瞳に涙を浮かべてルシアを見つめるフローリアン。
「心配をしてくれてありがとう、フローリアン。
慣れないことも多くて、レオナルド様にご迷惑をお掛けすることもあるけれど……。
でも、まだ大丈夫よ。」
「……姉さまが、公爵閣下と仲睦まじい様子で安心致しました。
(僕の大切な姉さまが……あの男を名前呼び……へぇ……?
この僕の目を盗んで良い度胸をしてるねえ?)」
「っっ?!
(な、なんだ?!
急に寒気が……?!)」
ルシアの言葉にフローリアンはピクリと眉を動かす。
一瞬だけ顔を俯かせたフローリアンだったが、すぐにルシアへと満面の笑みを返した。
……その瞬間に、何故かレオナルドは急に寒気を感じたのだった。
「…………ふふ」
ルシアとフローリアンのやりとりを見守っていたヴィオレッタは、扇に隠れた口元を吊り上げる。
「公爵様、お噂は聞いておりましたけれども……噂以上に素敵な御方ですわ。」
ヴィオレッタはレオナルドの顔をじっと見つめ、魅力的な笑みを浮かべた。
「どのような噂かは存じませんが、宮廷雀達の噂以上に信用に値しない物はこの世にないと思っています。」
魅惑的なヴィオレッタの視線を真っ向から受け止めたレオナルドは、全く動揺することなく余裕の笑みを返す。
「それにしましても、公爵様はルシアのような無垢な娘と婚約されて、さぞ退屈していらっしゃることでしょう?
私達にとっては無垢で純粋な可愛い妹。
ですが、公爵様のように大人の殿方には物足りないのではありませんか?」
ヴィオレッタは、レオナルドの言葉に微笑みを返しながら、挑発するように言った。
その視線は、ルシアへと向けられている。
「ヴィオレッタ姉様っ!」
ルシアは、思わず声を上げた。
姉の言葉に、少しばかり傷ついたような表情を浮かべていた。
「そのようなことは全くありませんね、ヴィオレッタ嬢。
ルシアの無垢で美しい心より魅力的なものは有りません。
その素直で純粋な笑顔は、この世の何よりも美しく、私の心を癒してくれますから。」
レオナルドは、即座にヴィオレッタの言葉を否定した。
そのレオナルドの言葉には、ルシアへの揺るぎない愛情が込められていた。
「レオナルド様……」
ルシアはレオナルドの言葉に、頬を赤らめてしまう。
「あら、公爵様は、妹のルシアに随分とご執心のようですね。」
ヴィオレッタは、面白そうに公爵とルシアを見比べた。
彼女の瞳には、何かを企んでいるかのような光が宿っていた。
「それにしても……公爵様は噂以上に色男でいらっしゃいますこと。
ふふ、こんなにも可愛い妹を夢中にさせてしまうなんて……悪い方。」
扇の影でクスクスと笑ったヴィオレッタ。
「……よろしければ……この後、私と二人っきりでゆっくりとお話でも如何ですか?
私も……貴方様のことを色々……そう、色々と教えて頂きたいの」
ダメかしら……とヴィオレッタは、扇を外して上目遣いにレオナルドを見詰める。
ヴィオレッタは蕩けるように甘い声でレオナルドを誘惑する。
その甘く蕩けた声音は、レオナルドの心を揺さぶり、絡め取ろうとした。
「申し訳ございませんが、ヴィオレッタ嬢。
貴女が纏っていらっしゃるその甘い香りは、失礼ながら、少々鼻につきますね。」
レオナルドは顔色一つ変えずに、ヴィオレッタへきっぱりと言い放った。
その言葉は、ヴィオレッタの誘惑を全く受け付けないという明確な意思表示だった。
「(すごい……姉さまの誘惑が……まったく効いてない……)」
ルシアは、レオナルドの言葉に驚いて目を見開いた。
「あら!
ふふふ……さすがは公爵様!
正解ですわ。」
ヴィオレッタは、レオナルドの答えにうっそりと微笑んだ。
その瞳には、レオナルドの反応を見透かしているかのような光が宿っていた。
「薬には異性を惹きつけるものもございます。
よく気がつく、良い鼻をお持ちでいらっしゃる。
それとも、そのような薬に惑わされないだけの、愛する相手をお持ちなのかしら?」
ヴィオレッタはそう言いながら、チラリとルシアに視線を向けた。
ルシアは、その視線に思わず顔を赤らめた。
ヴィオレッタがレオナルドを誘惑していたその時。
ギルバートより矢羽根で黙って見守るようにとルシアは命じられていたのだ。
数多の任務で蠱惑的な姉に靡く男たちを見てきたルシア。
レオナルドに対して、他の男たちに任務でしたように誘惑する姉ヴィオレッタ。
そんなレオナルドとヴィオレッタのやり取りを見つめるしか許されないルシア。
ルシアの心には、かすかな、しかし確かなチクリとした痛みが走っていたのだった。




