第三十一話
焦燥感に苛まれながら、レオナルドは住み慣れた広い公爵家を走っていた。
レオナルドの脳裏には、マリーナの言葉が何度も反響していた。
「実は、ルシア様のご様子が最近おかしいのです。」
普段は気にもならない公爵家の広さが、長い廊下が、今はただ苛立つばかりだった。
しかも、ルシアの部屋とレオナルドの執務室は正反対の位置と言えるほどに離れている。
その部屋の距離が、レオナルドには永遠のように感じられた。
「何処か悲しげというのでしょうか……?」
先ほどのマリーナの声が、レオナルドの心を締め付ける。
「(ルシアが悲しんでいる?
なぜ?なにがルシアを悲しませたのだろうか……?)」
血相を変えて走るレオナルドの姿に、驚いた使用人達は道を譲る。
しかし、そんな使用人達の姿など慌てているレオナルドの視界の端にも映らなかった。
レオナルドの頭の中は、ルシアのことだけでいっぱいだったのだ。
「もともと持ち込まれた荷物を整理されて……まるで、その……。」
「(ルシアの部屋まで、こんなにも遠かっただろうか……?)」
レオナルドの心臓が、激しく鼓動を刻む。
まるで、ルシアと二度と会えなくなるような……そんな予感がレオナルドを急き立てる。
「まるで……立ち去る準備をされているかのように。」
マリーナの言葉が、レオナルドの足に楔を打ち込んだ。
「(立ち去る……?
また……あの月を背に立っていた、あの時のように彼女が姿を消す?
黒装束を身にまとった隠密達がルシアを連れて行く……最初の出会いの時のように……?)」
ルシアが姿を消す……その可能性が、レオナルドの心を恐怖で満たした。
「ルシア様が消えてしまいそうで怖いのです。」
マリーナの言葉が終わる前に、公爵の足は全力で駆け出した。
レオナルドの心臓は、周囲に聞こえる程に激しく脈打っている。
激しく鼓動を刻んでいるはずの心臓とは反対に、レオナルドの指先は、温度を失っていくかのようだった。
――ルシアが居なくなると考えただけでこんなにも恐ろしい――
レオナルドの脳裏には、ルシアとの出会いが鮮明に蘇る。
一度目の出会いは埃っぽい牢屋の中。
湿っぽく、薄暗い檻の中で誘拐されて泣いていた子供達。
泣く子供達に現実を叩きつける自分に向けられた穏やかな笑み。
二度目は満月を背に立ち、刃のような瞳で見下ろす隠密の少女。
赤い花びらのような血で彩られ、黒い翼で舞うように美しい、鮮烈な武術。
余りの美しさに魅了されている間に、彼女は泡沫の泡のように消えた……。
——……もう一度……一目でもいいから、どうしても会いたくて——
レオナルドは名前も知らなかった彼女、ルシアの行方を探し求めた。
二度目の出会いでノワールだと気が付き、やっとルシアを探し当てたのだ。
表の身分であるシュバルツ伯爵令嬢としての彼女に、婚約を申し込みたいと王やシュバルツ伯爵へ伝えた。
……しかし、それからが苦難の連続だった。
王やシュバルツ伯爵だけでなく、何故か出張ってきた宰相のルージュ公爵にヴェルト侯爵。
四人か四人ともレオナルドの邪ま……ではなく、難題を山積みにした。
ルシアが出席すると聞いた夜会に彼女は現れないことは序の口。
必ずルシアの姿を見れたはずの貴族院の卒院式には、急な仕事を押しつ……急な仕事を処理するために出席できず。
レオナルドが行くはずだった国王代理としての椅子は、ちゃっかりとヴェルト侯爵に奪われていた。
そんな数多の邪魔を乗り越えて、やっと遠目で見ることが出来たルシアの姿。
あの絶望が漂っていた檻の中とも、闇夜に煌めく黒と赤とも全く違う印象の……そう、あの花が咲くように綻んだ微笑み。
悲しいかな自分ではなく、セレスティナ王女に向けられた何の裏もない笑顔ではあったが……。
ルシアの笑顔に、幸せなのだと全身で表現する彼女から、レオナルドは目が離せなくなった。
方々に頭を下げてルシアの婚約者としての立場を手に入れたレオナルド。
しかし、まさかの当人に存在を認識してもらえていなかったという始末。
レオナルドは、ルシアに自分との初めての出会いが忘れられていたというその事実を知ったあのとき天を仰いだ。
それでも、婚約者として同じ屋根の下に住み、例え短い時間であっても、共に過ごす時間は特別なものだった。
少しずつ自分という存在に慣れて、他愛も無い話しに微笑んでくれて。
レオナルドに気が付かれないように、と隠しつつも、時折垣間見える鋭い瞳と刃。
温かくも鋭い、ルシアの二つの顔に心は惹かれていくばかり。
任務だからしょうがないとレオナルドを恋い慕ってくれなくても、側にいてくれるルシアが愛おしかった。
ルシアの存在が、レオナルドの人生を彩り、意味を与えてくれたのだ。
「…………」
レオナルドは、ルシアの部屋の前に着いた。
……しかし、そこで彼の足は止まった。
ルシアの部屋にたどり着いたは良いが、どうすればいいのかレオナルドは分からなくなってしまったのだ。
「(勢いに任せてここまで来てしまったが……何を言えば良いんだ…?
ルシアにとって、私は仮初めの婚約者に過ぎない……愛を向けている相手ではない……。
そんな私に引き留められることは、果たしてルシアにとって幸せなのか……?)」
噂だけは愛の狩人だなんだと渾名されていたクセに、とんだポンコツな自分。
レオナルドは、自嘲気味に笑った。
これではルシアにも呆れられてしまって当然か、と……。
「(どうすればいい……?!
まずはこれ以上、そう!
これ以上は嫌われないようにするべきだ!
嫌われない……どうすれば女性のエスコートも完璧なスマートな大人の男性的な立ち振舞になる?
そもそも……女性慣れしている振る舞いはルシアにとって良い印象になるのか?
あのバルセロナ将軍的な雰囲気で行くべきか?!)」
レオナルドは、頭の中で様々な可能性を巡らせた。
ルシアに嫌われたくない一心で、必死に最善の行動を模索していた。
その結果、彼の思考は、ますます混乱の渦に巻き込まれていく。
どうすればルシアにとって満点な行動なのかを悶々と考えるレオナルド。
そんな思考が空回りしているレオナルドの目の前で、ゆっくりとルシアの自室のドアノブが動く。
「えっ…………?!」
自分が触ってもいないのに動き出した扉に、レオナルドの心臓は激しく飛び上がるのだった。




