第三十話
ブランシュ公爵家に有る公爵の執務室にて、レオナルドは溜息をついていた。
執務机の上には書類の山が二つ、三つと出来ている。
「旦那様、いい加減になさいませ。」
アストルが、まるで聞き分けのない子供を諭すように言った。
その声には、僅かながら呆れの色が混じっている。
「何の話だ?
私はいつもと変わらない。」
アストルに対してレオナルドは手元の地図を睨んだまま強がって答えた。
しかし、レオナルドが広げている地図のことでアストルは黙っていたことがある。
「旦那様……ご自分でお気付きになると思って控えておりましたが……」
「なんだ?」
「ご覧になっている地図が逆さまでございます。」
そう、レオナルドの手元に広がっている地図はずっと逆さまだったのである。
「…………」
アストルの指摘にレオナルドは一拍置いて、何事も無かったかのように、地図をゆっくりと正しい向きに戻した。
「旦那様、王城内よりも自領の管理についての方が気を抜きやすいとは申しましても……。
些か気を抜き過ぎでは?
先日の王城内で起きた一件以降、本調子ではないご様子。」
アストルは、容赦なくレオナルドに現実を突きつけた。
その言葉は、レオナルドの心を正確に射抜いていた。
「気の所為だ。
私は普段と変わりな……」
「簡単な計算間違いを連発し、資料を上下逆さに数十回以上はなされております。」
アストルの畳み掛けるような指摘に、レオナルドはぐうの音も出ない。
レオナルドは、バツが悪そうに地図から顔を上げた。
その顔には、図星を突かれた苦い表情を浮かべていた。
「何を悩まれていらっしゃるのですか?」
アストルは、レオナルドの目をまっすぐに見つめた。
その静かな視線は、レオナルドに正直に話すよう促しているようだった。
「…………お前には敵わないな。」
レオナルドは、その視線に耐えきれず、目を泳がせた。
しかし、一つため息をつくとクシャリと前髪を掴み、観念したように口を開いた。
「……ルシアには、他に想う相手がいたと思うか……?」
「は?」
レオナルドの口から飛び出た言葉に、アストルは思わず間の抜けた声を上げた。
その顔には、今更何を言っているのだ?という、呆れたような表情が浮かんでいた。
「ルシアは……その、バルセロナ将軍と親しい様子だった。」
レオナルドは、ぽつりと呟いた。
彼の脳裏には、ルシアがバルセロナ将軍と親しげに話す姿が浮かんでいた。
あの時の二人の距離感、そして、ルシアがバルセロナ将軍に見せた柔らかな笑顔。
それらが、レオナルドの心を掻き乱していた。
「ふむ……。
(確か……かの将軍はルシア様の母君側の親戚筋にあたる方だったような……?)」
アストルは公爵の言葉に頷き、脳裏に貴族の親戚関係について呼び起こしていた。
思い起こしたアストルの記憶の中では、ルシアとバルセロナ将軍の関係は親戚だと主張していた。
最も、その事実はレオナルドも把握しているとアストルは考えたが……
「(恋は盲目、と申しますが……まさか、ルシア様とバルセロナ将軍との関係を忘れてらっしゃる?)」
まさかレオナルドに限って、そんな間抜けなことはないとアストルは首を振る。
そんなアストルの心中を知らずに、レオナルドは自分の考えを言葉にした。
「もしも、ルシアが異性としてバルセロナ将軍に魅力を感じていたとすれば……私は正反対の性格と見た目だ……。」
レオナルドは自嘲気味に言った。
アストルは、脳裏に遠目に見たバルセロナ将軍の姿を思い浮かべる。
凱旋パレードの際に見たその外見は、遠目でも分かる筋肉質でガッシリとした大柄の体躯。
肉食獣を連想させる鋭い双眸。
浅黒い肌には歴戦の闘いにより刻まれた傷跡。
勇猛果敢、質実剛健な無口な男。
アストルは、目の前でヘタれて……座っている主を見比べる。
筋肉はついているが細身で均整のとれた体型。
美しく整っている優しげで甘い顔立ち。
日焼けとは無縁の白い肌。
文武両道、容姿端麗来るもの拒まず去るもの追わずと噂された……本命にはヘタレな男。
…………確かに正反対の二人である。
「バルセロナ将軍を親しい、好ましいとルシア様がはっきりと申されたのですか?」
アストルは冷静に確認した。
しかし、レオナルドの反応はアストルの予想を上回るものだった。
「聞けるわけないだろうっ……!!
万が一、億が一でもバルセロナ将軍を慕っている等と言われてもっ、私はルシアを諦めることは出来ないっ!」
レオナルドは、ガタリと椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
その声には、絶望と、しかしそれを上回る強い意志が込められていた。
レオナルドはルシアへの想いを、何があっても諦めるつもりはないのだ。
「……かくなる上は……せめて見た目だけでもルシアの好みに近付けるべきではないだろうか……。」
レオナルドは真剣な顔で呟いた。
その脳裏には、バルセロナ将軍のような強面な外見に近付いた己の姿が浮かんでいるのだろう。
「そんなことよりも、はっきりとルシア様に事実確認を行うことが先決でございましょう。」
アストルは、荒ぶる公爵へ冷静に突っ込んだ。
彼の言葉は、公爵の心を落ち着かせる効果があった。
「ぐっ……」
レオナルドは、アストルの率直な意見に言葉が詰まった。
そう、確かにアストルの言う通りなのだ。
何を悩んでも、ルシアの真意を聞かなければ始まらない。
「失礼します……」
その時、執務室の扉が静かに開かれた。
「マリーナ、どうしました?」
執務室へと入室したマリーナへアストルが問いかける。
マリーナの顔は、どこか焦っているようだった。
「あの、ルシア様のことでご報告したいことが……。」
「ルシアに何かあったのか?
体調がすぐれないのか?」
マリーナの言葉にレオナルドは焦る。
現在進行系で悩みの中心にいるルシアのことで報告と言われれば、レオナルドが焦り不安になるのも無理はない。
「実は……」
レオナルドの抱えていた不安が、彼の心を突き動かした。
マリーナの話を聞いたレオナルドは考えるよりも早く、執務室を飛び出すように走り出したのだった。




