第二十九話
ブランシュ公爵家で、ルシアは一人ティータイムを楽しんでいた。
「…………」
しかし、その心は晴れず、ため息が出てしまう。
「(……変、なのよね……)」
そう、ここ数日のレオナルドの奇妙な様子が、ルシアの胸に不快なざわめきをもたらしていたからだ。
「(先日から何やらレオナルド様が可笑しいのだけど……何かあったのかしら?)」
ルシアはティーカップを口元に運びながら、眉をひそめた。
「(私が気付かない内に何か粗相をしてしまった……?)」
普段のレオナルドは、冷静で、感情をほとんど表に出さない……なんてことはない。
どちらかと言えば微笑んでいたり、慌てていたり……。
ルシアに対して穏やかに接してくれる人柄だと認識していた。
しかし、この数日はまるで挙動不審とでも言えるように様子が可笑しかった。
「(ふとした瞬間に何かを言いかけて止めたり……。
視線を感じて目を向ければ……顔を逸してみたり……。
かと思えば、妙に真剣な眼差しで見つめてきたり……。)」
レオナルドは普段通りに振る舞っているつもりなのだろうが、ルシアには彼の微妙な変化が手に取るようにわかった。
そして、レオナルドのぎこちない言動はルシアにとって、ある「予感」を呼び起こしていた。
「(やはり……そういうことなのかしら……?)」
ルシアの心は冷たい氷のように冷え始めていた。
いつもと違うレオナルドの言動のきっかけは……王城での騒動以来だ。
あの出来事の後から、レオナルドの様子は顕著に変わった。
まるで、何かに怯えているかのように、あるいは、何かを隠しているかのように……。
「(レオナルド様は……見てしまった?
私達一族のことを……)」
ルシアは、レオナルドが知識の上ではノワールという隠密の存在を知っていることは把握していた。
しかし……果たして一般的な貴族がノワールの正業を見てしまった場合……どう思うのだろうか?
ルシアの所属する「ノワール」としての真の生業。
つまり、それは……アルカンシエル王国の闇を処理する役割を担うということだ。
闇を処理する……言葉にすれば簡単なことだが、その真実は残酷だ。
王国の安寧のため、王の命に従い護衛から見張り、情報収集、偽り騙し……数多の命を奪う。
ルシアもまた……王の名のもとに数多の任務をこなしてきたのだ。
そんな闇夜を駆るノワールの残酷な姿を目撃していたとしたら……?
「(……そんなこと一つしかない。
偽装婚約の解消。
あるいは、私への警戒……)」
ルシアは自身の置かれた立場を、価値を理解していた。
高位の貴族であればあるほどに、ルシアの一族の生業を否とするだろう。
血塗れの仕事、闇に生きる者。
そんな存在と、明るい表舞台に立つレオナルド、いやブランシュ公爵が手を組むことなどありえない。
「(……好き好んで血塗れの女を娶る物好きなんて、お父様やお兄様以外知らないし。
あの公爵様も、寝台の中で寝首を掻かれるとか思ってるのかしら?)」
ルシアは、自嘲気味に嗤った。
他の貴族の男どもと同じような思考回路か、と。
「(もしくは……誰かに囁かれたのかしら?
あの女の、血塗れになってでも戦う女の過去を知っているか、とでも。)」
ルシアはレオナルドが自分の過去を知って、自分を恐れたり、嫌悪したりしているのだと考えた。
そして、それが二人の「偽装婚約」を解消する理由になると。
隠密として感情を排し、常に冷静に考え、死にたくなければ一手二手先を考えろ。
それが……隠密として育てられたルシアが生きる道だった。
「(……でも……なんでかな?
少しだけ胸が切なく痛むのは?
馬鹿らしい……!
私は ……普通の令嬢にでもなったつもりで、気が抜けてたのね……。
あーあ……きっと……きっと、お母様に何を腑抜けているって叱られてしまうわ。)」
ルシアの胸には、説明のつかない切なさが広がる。
それは、レオナルドの「異変」によって引き起こされたルシア自身の心の変化だった。
ーーー自分が普通の令嬢ではないことを理解しているはずなのに。
ーーーーー隠密として育った自分には陽だまりなど似合わないのに。
ーーーーーーー春の日差しを集めたような黄金の髪を持つ白薔薇には、日陰者なんて相応しくないって知っているのに!
「あれ……どうして、涙が……?」
ルシアの気持ちに反して、ぽたり……ぽたりと水滴が服にシミを作っていく。
「……どうして……止まらない、の?」
なぜか、レオナルドに嫌われたくないと自分が思っていることに、ルシアは戸惑っていた。
彼の温かい腕、真剣な眼差し、そして彼の「愛しい女性」という言葉。
それらが、ルシアの心を少しずつ……しかし確実に変えつつあった。
幼子のように次から次へと溢れてくる涙をゴシゴシと乱暴に拭う。
目元が赤くなっていることはどうしようもない。
だが、ルシアにはサリィ以外の誰かが自室へ近付いて来ていることを察知していた。
「失礼します、ルシア様。」
扉をノックして入って来たのはマリーナだった。
ルシアへ追加の紅茶を持ってきたのだろう。
「ルシア様……?」
目元の赤みに気が付いたのか、マリーナが心配そうな顔でルシアに声をかけた。
ルシアの顔には、目元の赤みだけでなく普段は見せることのない、憂いを帯びた表情が浮かんでいたからだ。
「なんでもないの、マリーナ。
少し、考え事をしていただけよ。」
ルシアは、心配そうなマリーナへといつもと変わらぬ笑みを向けつつ、呟いた。
その声には、ルシア自身の心に言い聞かせるような響きがあった。
「(……そろそろ潮時ね。
これ以上は、彼に迷惑をかける。)」
ルシアは、ティーカップをそっとテーブルに置いた。
近い内に終止符が打たれ、訪れる別れに目を伏せるルシア。
だが、ルシアの心には様々な感情が浮かんでは消え、複雑に絡み合っていたのだった。




