第二十八話
「……馬鹿な子だ」
アルカンシエル王国を統べる王エドワード・フーガ・ロゼ・アルカンシェルは、深々と溜息をついた。
先ほどまでフィリップ王子が喚き散らしていたとは思えないほどに、静寂は深かった。
「陛下、御心を痛める必要などありませぬ。」
ため息をつくエドワード王に対して、吐き捨てるように呟いたのは氷の宰相と言われるルージュ公爵。
真紅の薔薇の家紋を授かったルージュ公爵家当主ルドウィグ・ツェリ・ルージュである。
その瞳には真紅の薔薇よりも赤く燃え上がる怒りが宿っていた。
「陛下……我が家の系譜より抹消したとは言え、一応なりとも我がヴェルト侯爵家の血を継ぐものが申し訳ありませぬ。」
穏やかな雰囲気をまとった老紳士、ナサニエル・ロンド・ヴェルト。
緑の薔薇の家紋を持つヴェルト侯爵が悔むように呟く。
「……彼に王としての資質がないことは、陛下が最もよくご存じでしょう」
部屋の片隅より現れた最後の一人。
黒薔薇の家紋を持つノワール、隠密達の長。
ルシアの父でもあるロデリックが薄っすらと笑みを貼り付けて呟いた。
「ルドウィグ、ナサニエル、ロデリック……」
エドワード王の前には三人の重鎮達が揃った。
……謁見の間に重苦しい静寂が漂う。
「……私はな、フィリップがあそこまで愚かだとは思っていなかった。
一応なりとも王家に身を置いているのだ。
王子として恥ずかしい振る舞いを成さぬように、セレスティナと同等の教育は与えた。
それが……まさか、あの場で公衆の面前で自らの愚かさをさらけ出すとはな。」
エドワード王は豪奢な背もたれに体を預け、ため息混じりに呟いた。
「恐れながら陛下、彼の者には氏より育ちという格言は当てはまらないのでしょう。」
「そうですな。
一国の王子としての自覚と誇りがあったならば、あの程度の小娘に傾倒することは有りませぬ。
所詮はあの愚か者の血を引く子ということです。」
眉間にシワを寄せたルージュ公爵に続き、ヴェルト侯爵も怒りを込めた言葉を吐く。
「陛下……愚かな娘のせいで、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ございません。」
ヴェルト侯爵はエドワード王に向かって深々と頭を下げた。
その声には、自責の念が滲み出ていた。
「ルージュ宰相、貴殿の御息女にも心よりお詫び申したい……!」
フィリップの母であり、己の娘であるアニエス側妃がフィリップを王位に就かせようと画策していることを知っているからだ。
そして、フィリップの正当な婚約者であるルージュ公爵令嬢フレイアにもヴェルト侯爵は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ナサニエル、顔を上げよ。
アニエスが道を誤ったのは、貴殿のせいではない。
アレはあの女のもともとの性格ゆえ。
本来、王の側妃になるならば、己の欲を押し込めねばならなかった。
それが出来ぬことを見抜けなかった私にも責はある。」
エドワード王の言葉に、ヴェルト侯爵の顔が苦痛に歪んだ。
ヴェルト侯爵だけでなく、他の重鎮達の顔にも苦い感情が浮かぶ。
重鎮達はエドワード王が亡き王妃アナスタシアを愛していることを知っていた。
今もなお、アナスタシアへの想いを断ち切れないことも知っているのだ。
全ては十七年前の王妃の死に始まり、今なお悲劇は続いている。
王妃が死してなお、エドワード王に愛されている。
その事実とアナスタシアを喪った王の深い悲しみが、アニエス側妃の狂愛を加速させたのだ。
「陛下……王家の虹色の小鳥の近況はいかがでしょうか?
ご健勝であられますか?」
話題を変えるようにルージュ公爵が、エドワード王へ尋ねた。
彼もまた、エドワード王の苦悩を深く理解していた。
「……健やかに、賢く育っている。
全てはそなたのお陰だ、ナサニエル。
そなたが過不足なく、王家のしきたり、心構えをよくぞ伝えてくれた。
王家の小鳥をそなたに預けておいて、本当によかった。」
「陛下……私めにはもったいないお言葉をありがとうございます。
陛下の臣下として、エリザベス王太后の幼馴染として、この程度の恩返しは当然のことです。」
エドワード王は、ヴェルト侯爵に心からの感謝を伝えた。
それに対して恭しくヴェルト侯爵は頭を下げる。
「私は立場上なかなか見ることは叶わぬが、セレスティナが小鳥の美しさを話してくれるのだ。
……私が少しでも小鳥と過ごせたと思えるように色々と配慮してくれる。」
「そうですね、陛下。
セレスティナ王女殿下も大層あの小鳥を気にかけていらっしゃる。
それはもう……我が身の片割れと言わんばかりのご様子ですな。」
エドワード王の言葉を補足するようにロデリックも語るが、何が面白いのかクフクフと笑っている。
「ロデリック殿、何が可笑しいのかな?」
「いやいや……かの小鳥も、早く鳥籠の外に出たいご様子。
どうやら……かの小鳥が愛する真紅の薔薇が萎れていないか気になってしょうがないらしく。」
ジロリと睨みつけたルージュ公爵に怯むことなく、ロデリックが面白そうに含んだ言葉を返す。
「くだらん!
我がルージュ公爵家自慢の薔薇が、多少の雨風で傷付く訳がなかろう!」
氷と例えられることが多いルージュ公爵。
だが、身近な人物であればある程に、ルージュ公爵は氷とは真逆の激しい炎のような気性の持ち主であることを知っていた。
「ハッハッハッ!
いやぁ、すみませぬ。すみませぬ。
確かに、ルドウィグ殿が手塩にかけて育てた薔薇だ。
……この先、何があろうとも気丈に、誇り高く咲き誇るでしょうなぁ。」
大きな笑い声を上げるロデリック……が、急に雰囲気を変えてニヤリと口の端を上げた。
「そう……籠の中の小鳥に守られるほど弱くは無い。
どの薔薇も、守られるだけの花ではない。
必要とあらば、その身に宿した鋭い棘で身を守る。
私達はそのように育て上げたのですから……実行日を迎えるために。」
「……そうですな……確かにロデリック殿がおっしゃる通りだ。
そのために精魂込めて、我が生命を削ってでも育て上げた小鳥です。
ふふ……陛下の慈悲がなければ、私はとうに家名もろとも滅びていたでしょうから。
この命を注ぎ込むにはちょうど良い。」
ロデリックの言葉に同意し、ヴェルト侯爵は思いを馳せる。
あの日、あの時、ヴェルト侯爵は己の全てをかけて王家へ尽くすと決めたのだ。
全てはアルカンシエル国のため、罪を償うため……そして、エドワード王と彼の母であるエリザベス王太后のために……。
ヴェルト侯爵の目には幼い頃からのエリザベス王太后との思い出が蘇り、消えて行く……。
「ルドウィグ、フレイア嬢には不愉快な思いをさせてすまぬ。
もしも……フレイア嬢が望むならば……」
「お気になさいますな、陛下。」
ルージュ公爵は薄い笑みを口元に浮かべて答える。
「我が娘も、すべては国のためと理解しております。
それに、あの程度の男にはあの女で十分でしょう。
私としては、むしろあの女が我が娘に手を出すという無礼を働いたことを、根に持っておりますがな!」
ルージュ公爵は鼻で笑って言い切った。
その言葉の裏には、フィリップ王子とクラリスへの明確な軽蔑が込められていた。
「そうか。
流石はルージュ公爵家の自慢の娘だ。
最も、我が娘も負けず劣らずだがな。」
冗談交じりで返すルージュ公爵へ、エドワード王も微笑を浮かべて返す。
「ロデリック。
……そなたの娘のことも囮として使ってしまう。
許せとは口が裂けても言わぬが……」
エドワード王がロデリックに顔を向け、頭を下げようとする、が……
「構いませぬ、構いませぬ!
お陰で我が娘も面白いことになっておりますからな!」
手を降って笑うロデリックによって止められた。
「まあ……実行日を迎えるまで、少しでも余計な邪魔が入らぬように囮は必要でしたからな。
あの毒婦とバカ王子を惹きつける的にはちょうど良い!」
そう、ルシアは知らない所で予想通りに囮としての役割を与えられていたのだ。
「それに、陛下。
娘は、ノワールとしてその責務を果たしたまで。
それよりも、陛下のおっしゃる通り、フィリップ王子が成人する卒業式の日。
その日に、すべてを終わらせる実行日として構いませんね?」
「ああ、構わん。
もう、これ以上は耐えられん。
アニエスの狂気も、フィリップの愚かさも、そして偽りの平和も。
すべて、あの卒業式を実行日として……終わらせよう。」
エドワード王の瞳に、強い意志が宿った。
彼は王として、そして一人の人間として、この偽りの平和に終止符を打つことを決意していた。
「それにしましても……この国の男は、愛した相手への執着が半端ないと思いませぬか?」
ルージュ宰相が、冗談めかして言った。
その言葉に、その場にいた重鎮達の顔に笑みが浮かんだ。
「その通りですな。
陛下は亡き王妃様を、私もエリザベス王太后様を……。
ルドウィグ殿など奥方を娶るために敵国に乗り込むほどの情熱の持ちようでしたな!」
ヴェルト侯爵が、遠い昔を思い返すように語った。
「いやいや!
私の妻への愛と執着も、相当なものですよ。
顔に傷を負った妻を侮辱した下衆共がおりましてな!
我が妻は心だけでなく、あの傷が有ったとしても美しいと言いますのに!
気高く美しい我が妻を捨てた男がおりましたが、私はその男の一族郎党を……」
ロデリックが、にこやかに微笑んだ。
しかし、彼の瞳の奥には冷たい光が宿っていた。
「……ロデリック、その話は後日にしてくれ。
それにしても、レオナルドもやはり血は争えんな。
ルシア嬢への想いは、私が見ても本物だ。
だが……その、あそこまでヘタレな面があったとは……」
エドワード王が、呆れたように言った。
レオナルドがルシアの前で情けない姿をさらしていることは、彼らの耳にも届いていた。
「ええ。
ですが、ブランシュ公爵の本気の行動は……まさに白薔薇の公爵に相応しい。
ルシア嬢も、きっと彼の真意に気づくでしょう。」
ヴェルト侯爵は、ルシアの純粋な笑みを思い浮かべて静かに言った。
「(……出来ることならば……我が家の孫の妻として迎えたかった。)」
「(うーむ……ロデリック殿と親戚関係になるのは御免だが、あの実直な娘は惜しい。
我が息子の妻に迎えたいと思わんでもないのだが……な)」
何気にルシアと交友のあるヴェルト侯爵とルージュ公爵は思っていた。
「ルシアは、まだブランシュ公爵との初めての出会いを思い出しておりません。
公爵はルシアがその部分だけ記憶を失っていることを知らない。
……そのすれ違いが、二人の関係をより複雑にして……面白いことにしているのですよ!」
ロデリックは報告で聞いているルシアとレオナルドのすれ違いを思い出して笑ってしまう。
「「「(……ブランシュ公爵……コヤツと親戚関係になるのか……)」」」
ルシア単体ならば大歓迎だが、ロデリックが付いてくるとなると……微妙に引いてしまう三人。
「ルシア嬢は、ノワールとしても重要な実力者だ。
ノワールは我々王家の最後の砦となる存在。
レオナルドは、その彼女を一人の女性として愛している。
この二人の関係は、この国の未来を左右する重要な鍵となるだろう。」
ルージュ宰相が静かに結論付けた。
彼らの密談は、まだ始まったばかりだった……。




