第二十二話
「アストルッッッ!!」
……レオナルドの血を吐くような叫びが、屋敷の静寂を切り裂いた。
その声には、怒りにも似た悲しみと微かな焦りが含まれていた。
レオナルドは今、まさにルシアへ愛の告白をする瞬間だったのだ。
「申し訳ございません、旦那様。
私めも邪魔はしたくなかったのですが、火急の用件でございまして。」
アストルは、深々と頭を下げた。
その表情は、普段の完璧な執事の顔とは少し異なり、僅かながらの居心地の悪さが滲み出ていた。
「(やっと……!
やっとの思いでルシアの誤解を解き、思いを告げようとしたのにっっ!!
どうしてっ!邪魔が入るんだっっ!!)」
レオナルドが意を決してルシアへ想いを告げようとしていることは理解していた。
アストルがレオナルドを見守るだけの立場ならば、レオナルドの私的な時間を優先しただろう。
しかし、アストルはブランシュ公爵家の執事長なのだ。
執事としての責任感はレオナルドの私的な時間よりも、王宮からの緊急の知らせを優先させた。
「その……王宮より火急の要件だと書簡が届いております。」
アストルの口から発せられた「王宮」という言葉に、レオナルドの表情は一変した。
血の涙を流しそうな怒りは引っ込み、眉間に深い皺が刻まれる。
王宮からの要件となれば、私的な感情を挟む余地はない。
「……申し訳ありません、ルシア。」
レオナルドは悔しそうに、名残惜しげにルシアへ視線を向けた。
「レオナルド様……」
ルシアは王宮で何かあったのだ、とレオナルドの置かれた状況を瞬時に理解した。
「王宮からの用件ならば致し方有りません。私のことは気になさらないでください。
(休日の公爵を呼び出すほどの重要な要件。
これはノワールで確認する必要があるわね。)」
ルシアは、内心を覆い隠してにこやかに微笑んだ。
「……すみません、折角貴女と一日過ごすはずだったのに。
この埋め合わせは必ず。
マリーナ、ルシアを頼む。」
レオナルドは、ルシアへの埋め合わせを約束すると、アストルと共に急ぎ足で屋敷へと戻っていった。
その背中は、どこか寂しげに見えた。
「…………」
ルシアは、そんな彼の背中をじっと見つめながら、心の中で呟いた。
「(そう言えば……公爵は、何を告げようとしたのかしら?」
脳裏に蘇るのはレオナルドの真摯で、真っ直ぐな眼差し。
「(あんなに真っすぐに……見つめられたら、勘違いしてしまいそう……)」
まるで唯一無二の愛する人を見つめるような……そんな瞳だった。
レオナルドの真剣な眼差しを思い出したルシアの頬が、ゆっくりと熱を帯び始める。
「……っっ!」
あの時のレオナルドの眼差しを、表情を思い出して今更ながらに頬に集中する熱にルシアは慌てて首を振る。
「イヤイヤイヤ!
絶対にナイナイナイ!
……ない……よね?
ない……けど、少しだけ嬉し、かった……ような?」
まさか自分のことを、あの公爵が好きだなんて有り得ない!と、ルシアは一人で否定する。
自分は隠れ蓑ではないと言っていたが、おそらくは!きっと!あくまで!
…………偽りの婚約者。
顔よし!財力よし!性格よし!の三拍子揃ったレオナルドならば、選り取り見取りの選び放題!
そんな相手が……己を選ぶ理由はない。
今は居なくても、すぐに素敵な……美しい婚約者を得ることがレオナルドは出来るだろう。
「(そう……そうよ。
ゆっくりと選びたいのに、たくさんの女性が押し寄せてくるから困っていたのね。
選ぶ時間を得るために防波堤として選ばれたにすぎないのよ……きっと。)」
ルシアは勘違いをしてはいけない、と己にそう言い聞かせようとする。
しかし、胸の奥がきゅうと締め付けられるような感覚に襲われる。
「(でも……どうして、嬉しいって思っちゃったんだろう?
……この、胸のざわめきは何?)」
自分のことなのに分からなくて、ルシアはもどかしかった。
「マリーナ、ゆっくり散歩するみたいに歩いて帰ってもいいかしら?」
「かしこまりました、ルシア様。」
勘違いしかけた頬の熱を隠すためにもう少しだけ風に当たりたい……なんて、侍女に正直に言えるはずもない。
ルシアは、マリーナににこやかに微笑みかけた。
マリーナは心得たように頷き、二人はゆっくりと馬車へと向かった。
ルシアの心は、レオナルドが言いかけた言葉と、それに反応した自身の感情で、いっぱいのままだった。
※※※※※※※※※※
公爵家にある執務室の重厚な扉が閉まると、レオナルドは深く、深ーく溜息をついた。
その額には青筋が浮かび、苛立ったようにレオナルドは指先で机を叩く。
机の上には放り投げたように王城からの手紙が転がっている。
レオナルドの瞳にはルシアへの告白を邪魔した王宮からの報せに対する苛立ちが覗いていた。
「……アストル、あの馬鹿王子を城門に吊るして弓矢の的にしては駄目か?」
レオナルドの声は、普段の穏やかな響きとはかけ離れ、低く、ドスの利いたものだった。
彼の怒りが、どれほど頂点に達しているかが窺える。
「旦那様、お言葉が過ぎては何処に耳があるか分かりません。
…………王城の堀に裸に剥いて放り投げる程度が宜しいかと。」
アストルは、主の過激な発言にも動じることなく冷静に答えた。
しかし、その提案もまたアストル自身の感情が宿るものだった。
主従関係とはいえ、互いに冗談とも本気とも取れる物騒な言葉を交わせる。
それは、彼ら二人の長年の信頼関係あってこそなのかもしれない。
「これは、何の冗談だ?」
レオナルドは、苛立ちを隠さずに尋ねた。
彼の視線はアストルが差し出し、レオナルドが目を通して放り投げた書簡に固定されている。
その紙切れ一枚が、レオナルドの大切な時間を台無しにした元凶だ。
「申し訳ございません、旦那様。
矮小な一介の執事如きには高貴な方の心中を察することは出来ません。」
アストルは、慇懃無礼な態度で返答した。
その言葉は、レオナルドの苛立ちをさらに煽るものだった。
しかし、そこには主への理解と、ある種の共感が見え隠れしている。
「正直に言え。
王家の威光を笠にきたバカの心中など常人には理解できん、と。」
「そのようなことは……」
アストルは口元に手を当て、僅かに笑みを浮かべた。
その表情は、レオナルドの言葉に同意していることを如実に表していた。
「(あの王子は何を考えているんだ?)」
レオナルドは、再び大きくため息をついた。
「(王宮よりの火急の要件だ、と言うから急ぎ戻ったものを……!)」
レオナルドの脳裏にはルシアの驚いた顔が浮かんだ。
「(あと、あともう少しでルシアに想いを告げることが出来たのにっ!)」
怒りに血管が浮かび上がるほどに握り締めたレオナルドの手の中で、王家よりの紙がしわくちゃとなる。
王城よりの火急の要件の送り主、それは第一王子フィリップだった。
「いっそのこと手紙が届かなかったことにしてしまいたい案件だな。」
レオナルドは、しわくちゃになった手紙をバサリと乱暴に机の上へと投げつけた。
「何処に一考の余地が有る?
……王城で開かれるクラリス子爵令嬢主催のお茶会にルシアと揃って参加しろなどと。」
怒りのこもった声音はレオナルドの深い不満と、この招待状への軽蔑を物語っていた。
「……」
アストルは、静かにレオナルドの怒りを受け止めた。
彼もまた、この王宮からの招かれざる招待状の意味を理解していた。
「(王位継承権を持つ者、いや……王族、そして高位の貴族であれば有る程に貴人としての教育を徹底的に成される。
それは……一応なりとも王子であるフィリップ殿下も同じこと。
増してや、かの王子は……)」
レオナルドの脳裏に浮かぶのは、アルカンシェル王国の高位貴族の一人。
穏健派の筆頭であり、外務大臣であるヴェルト侯爵。
そう……このアルカンシエル王国における二大派閥の一つを束ねる緑の薔薇を家紋に持つヴェルト侯爵家の当主である。
そして、フィリップ王子の祖父であり、王子の生母である第一側妃アニエス夫人の父。
「(先日から続くフィリップ王子の失態に対して、ルージュ公爵は黙っていないだろう。)」
そんな穏健派に対を成すもう一つの派閥、改革派。
改革派の筆頭は現宰相であるルージュ公爵。
真紅の薔薇の家紋を持つルージュ公爵家の当主である。
「……先日の晩餐会の件もある。
以前のフィリップ王子はルージュ公爵令嬢との婚約に納得されている様子だったが……。
二人の間に何か有ったのだろうか……?」
フィリップ王子の本来の婚約者はフレイヤ・ルージュ公爵令嬢のはずだった。
フィリップ王子とルージュ公爵令嬢の婚約は政治的な意味合いが多分に含まれている。
「……中立を守るというのも難しいものだ。
話を戻すが、この招待に関しては一考の余地もない。
不参加の返事すら不要だ。」
レオナルドは、きっぱりと言い放った。
この茶会は、レオナルドにとって何の意味も持たない、むしろ不快なものでしかなかった。
「承知致しました。
恐らく送る手紙と相手を間違えたのでしょうな。」
アストルは、淡々とレオナルドの指示を受け入れた。
彼もまた、今回の招待状が、明らかに常識から逸脱していることを理解している。
「困ったものだな。
常識的に考えて王宮で行われる茶会の主催者が子爵令嬢など有り得ない。
もし万が一、億が一にでも、この非常識極まりない招待状の返事がないことを誰かが責めるならば……私も己の立ち位置を改める必要がある。」
レオナルドの言葉には、王子への明確な不満と不信感がこもっていた。
「その必要は無いでしょう。
しかし、念の為にルシア様にはこの件は伝えては如何ですか?
……あのような輩は此方の予想を超えて来る事がありますからね。」
アストルの忠告に、レオナルドは深く頷いた。
フィリップ王子とクラリスの行動は、予測不能なほどに愚かである可能性がある。
面倒なことにならないことを祈りながらも、何処か安心できない気持ちにレオナルドはため息をつくのだった……。




