第十八話
晩餐会の帰宅の途は最悪の一言だった。
フィリップ王子とクラリスとの遭遇は、ルシアの心に深い不快感を与えた。
レオナルドもまた、普段の彼からは想像できないほど苛立っている様子だった。
馬車の窓から見える夜景も、二人の心には映らなかった。
ブランシュ公爵邸に戻ってすぐ、ルシアは専属の侍女であるサリィの補助を受けて屋敷を素早く抜け出した。
隠密としての彼女の行動は、誰にも気づかれることはない。
ルシアが向かったのは王都内に有るシュバルツ伯爵家の屋敷ではなく、ノワールとしての隠密の拠点。
隠密一族の根城は、王都の地下深くに張り巡らされた秘密通路の先にあった。
すでに到着していた兄ギルバートに、晩餐会での出来事を詳細に報告した。
フィリップ王子の出現と、彼の隣にいたクラリスのこと。
そして、フィリップがレオナルドに放った挑発的な言葉と、公爵がそれにどう応じたか……。
ギルバートは静かに話を聞いていたが、その奥で瞳が鋭く光るのをルシアは感じた。
「フィリップ王子、か……」
ギルバートの表情は、報告が進むにつれて厳しくなっていった。
「兄様、私の記憶ではフィリップ王子の婚約者はルージュ公爵令嬢のはずです。
それがあのような公式の場に他の令嬢を伴って出席する。
その意味を理解できぬほど愚かではないと思うのですが……」
ルシアは、フィリップ王子の行動が王家の秩序を乱すものであると指摘した。
「確かにフィリップ王子は、生真面目な性格の方だった。
最も軽率に内心を零してしまうという致命的な欠陥はあったがな。」
ギルバートは、腕を組みながら、静かに答えた。
彼の視線は、遠くを見つめているようだった。
「あの晩餐会についてはルージュ公爵令嬢、ひいてはルージュ公爵家の家紋へ泥を塗ったという表現でも生ぬるいでしょう。
……ましてや、現宰相であるルージュ公爵が黙っているとは思えませんが?」
ルシアの言葉は、ルージュ公爵家が受けるであろう屈辱と、それに続くであろう波乱を予期していた。
「一波乱では済まない大きな嵐が来ることは間違いないな。
……まっ、その大きな嵐が過ぎ去った頃には全てが丸く収まると思うがな。」
ギルバートは、不敵な笑みを浮かべた。
彼の言葉には、何らかの計画が隠されていることを示唆していた。
「兄様、それは……いえ。
はっきりとおっしゃらないということは、私が知る必要は無いことなのでしょう。」
ルシアは、兄の言葉の真意を探ろうとした。
しかし、すぐにその意図を察し、それ以上は詮索しなかった。
「ははっ!
うん……やっぱり、お前のそういう賢さは花丸だ!
本当に、な。」
ギルバートは、ルシアの頭を優しく撫でた。
その笑顔には、愛情と、どこか寂しげな色が混じっていた。
「……?」
賢いと褒め、頭を撫でる兄の表情がどこか寂しげに見えることにルシアは内心で首を傾げる。
まるで、これからの私の何かが変わるような……?
関係性なのか……はっきりとは分からないが、何か言いたげな、寂しげな兄の表情にルシアは少しだけ不安を覚えた。
「ご苦労だったな。
よくぞ、状況を詳細に把握してくれた。」
ギルバートはそう言って、ルシアを見つめた。
先ほどの寂しげだった表情が消え去っていることに安堵しつつ、ルシアにはもう一つ報告することが残っていた。
「国王陛下は、既に事の次第をご存じだ。
王子の様子を耳にされていたのだろう、公明正大で賢王と名高い陛下が顔を曇らせていらっしゃったらしい。
立場的にも頭を下げる訳にはいかないが、ブランシュ公爵への結婚のお祝いと、政務が忙しくて結婚の儀が先延ばしになっているという名目でお詫びとお祝いの品を届けたい、と仰っていた。」
表立ってはフィリップが第二王位継承権を持ってるため国王にとっても頭の痛い話だろう。
「(あの陛下が……亡き王妃様の一件を思えば……心中を察するに余りあるわ)」
ルシアの脳裏に十数年前の王妃暗殺事件のことがよぎる。
公平明大と名高い賢王の心に渦巻く感情は決して生ぬるいものではないだろう。
しかし、そこまで考えたルシアは頭を軽く振り、脳裏からその考えを消し去る。
たかが隠密の一人でしかないルシアが考える必要のないことだからだ。
「兄様、もう一つ報告があります。
あのクラリスという令嬢、ただの世間知らずな女性ではないようです。
フィリップ王子を骨抜きにして画策している可能性が高いかと。
姉様ならば、はっきりと断定できるのでしょうが……人の心を惑わす禁薬を香水として用いている可能性があります。
その件をノワールの情報網では何か掴めていませんか?」
ルシアは、クラリスの背後に潜む危険性について報告した。
彼女の隠密としての勘が、明確な警告を発していた。
「なに?
そうか……やはり面倒な背後に重ねてもう一つ裏があるみたいだな。」
ルシアの問いに、ギルバートは静かに頷いた。
ギルバートが机の上の書類を一枚取り上げ、ルシアに差し出した。
「クラリス・リー・フランソワ。
国境沿いの国の一つであるリンダス帝国から流れてきた女だ。
表向きは父親であるフランソワ子爵を頼って流れてきたとのことだが……なあ?
形だけの友好の証で昔留学したフランソワ子爵が、あっちの世話役だった男爵家の娘との間にもうけちまったらしい。
その男爵家の娘は、数年後にあっちの軍人のもとに嫁いで死んでる。
父親違いの妹がいることまでは分かっているな。」
そこまで一息で説明したギルバートは冷めた表情で鼻を鳴らす。
「あちらさんがよくやる手口だろうよ。
恐らく妹のほうを人質にクラリスを工作員として送り込んだ。
捨て駒の女が敵国の王子を誑かして、この国を乱せば上々。
捨て駒の生死などどうでもいいことだろうしな。」
ギルバートの言葉は、冷酷なまでに現実を突きつけていた。
ルシアは静かに兄の冷めた言葉を聞く。
普段のルシアならば兄の言葉に何の感慨も抱かなかっただろう。
しかし、ルシアの心には何かチクリとしたものが走った気がした。
それは、クラリスの境遇に対する、わずかながらも同情の念だったのかもしれない。
「(……日だまりにいすぎたのかしら?
心が腑抜けているわ。
……気をつけないと。)」
己の心の変化を戒める。
隠密としての冷徹さを失うことは己の、ひいては家族を、国を脅かしかねない。
そんなルシアの様子をギルバートがジット観察していることに気がつくことはなかった。
彼の瞳の奥には、ルシアの成長と、それに伴う心の変化を喜ぶような、しかしどこか寂しげな光が宿っていた。
「ルシア、これからフィリップ王子を中心に大きな嵐が吹き荒れることは決定事項だ。
その過程で、お前がというよりはブランシュ公爵も巻き込まれることになるだろう。
何も知らないフィリップ王子は、必ず母親である第一側妃、アニエスの思惑に振り回される。
そして、あの女の爪はブランシュ公爵の婚約者であるお前をも利用しようと及ぶだろう。」
ギルバートの言葉に、ルシアは心を引き締める。
ブランシュ公爵家での有事の際は己を捨て駒にしてでも、ブランシュ公爵の盾になる覚悟をルシアは既に決めていた。
ルシアの脳裏には、レオナルドの温かな笑顔が浮かんだ。
レオナルドを守ることは、国を守ることに繋がるだろう。
何故ならば、レオナルドはブランシュ公爵。
王家より白薔薇の家紋を与えられた公爵の一角。
ならばこそ、己の犠牲をいとう理由が何処にある。
「あとな、親父からの伝言だ。
ブランシュ公爵はお前がノワールの一員であることを知っている。
まー当然だな。
薔薇の家紋を持つ公爵家の当主はノワールがシュバルツ家で有ることを代々申しおくるから。」
ギルバートの言葉にルシアは頷いた。
その事実はノワールならば誰でも知っていること事実だからだ。
「それは……やはり、知っていらしたのね。
でも……でもそれならばなぜ……公爵家を出た際に破落戸に囲まれて戦った私をあんなにも心配したのかしら?」
ルシアの心に疑問が渦巻く。
戦い慣れている女、しかもノワールの女に対してあんなにもガラス細工を扱うように心配をしてくれたのだろうか?
その疑問は、ルシアのレオナルドに対する認識をさらに深く揺さぶるものだった。
「ルシア、香水の件は親父に報告しておく。
恐らく姉上が動くだろう。
大丈夫とは思うが、お前も周囲に気を付けろ。」
「ありがとう、兄様。
兄様もお気をつけて。」
ギルバートの言葉に笑顔を返し、二人はそれぞれに夜の闇へと身を翻す。
ルシアは複雑な思いを胸に、静かな夜空を見上げた。
王家の暗部に、自らの運命が深く関わっていることを、改めて実感するのだった。




