第十三話
セレスティナ王女の婚約者であるバルセロナ将軍の凱旋を祝う晩餐会。
国王が主催するその晩餐会に参加するため、ルシアは朝から準備をしていた。
「ルシア様~ぐっと締めちゃいますよ!」
「ちょっ……サ、サリィ、まっ、ぐふっ」
専属の侍女であるサリィが、コルセットを締めるたびに、ルシアの体が軋むような感覚を覚える。
きつく締め上げられたコルセットは、既に彼女の体力を奪っていくようだった。
「や~ん!ルシアさまっ!
とってもおきれいです~!!
まるで清廉で透き通るような水晶の如き煌めきに、サリィはたおれちゃいそうですぅ……!」
サリィは目を輝かせながら、ルシアの完璧なドレス姿に見とれていた。
「んもうっ!
王宮の極楽鳥どもに見せるのがもったいないですっっ!!
あーっ!許されるならば……あたしがルシア様を攫っちゃいたい……!」
彼女の瞳は、まるで憧れの対象を見るかのようにキラキラと輝いている。
しかし、コルセットが苦しすぎてサリィの賛辞は半分もルシアの耳には届いていなかった。
「ありがとう、サリィ……でも、コルセットを締めすぎじゃ……息が、ちょっと苦しいわ。」
「え?
全然ですよ、ルシア様。
他のご令嬢はもっときつく締め上げろっておっしゃいますよ?
ルシア様は腰回りが細いからそんなに締め上げなくてもスッキリしていますけど。
だからこそ、この程度の締め付けで済んでいるのですよ。」
サリィは、ルシアの体型が恵まれているからだと、ごく自然なことのように答える。
彼女の言葉には、一切の悪気も皮肉も含まれていなかった。
「そ、そう……そうなのね……」
ルシアは、絞め上げられた腰を抱えるようにして、か細い声で訴えた。
普段の鍛錬で鍛え上げられたルシアの身体は、日常的なコルセットの使用を必要としていなかった。
……いなかった、と言うよりは堅苦しいコルセットをルシアが嫌っているという方が正しいのかもしれない。
「……こんなにも苦しいものを毎日付けることが、どうして出来るのかしら……?」
「あはー、ルシア様。
貴族のご令嬢達は少しでも見目麗しくして、少しでも良い良縁に恵まれたいものですよ。
まー、一人で生き抜いていくって思えるご令嬢達の大半は体を鍛えて騎士を目指しますしね」
貴族の女性が日常的に身につけるコルセットの締め付けは、ルシアにとって未知の苦行だった。
「そ、そう……なのね。
貴族の淑女たちは、日頃からこんな苦行に耐えて切磋琢磨しているのね……」
ルシアは、貴族の淑女たちが日頃からこんな苦行に耐えて、自己研磨に励んでいるのかと心から尊敬した。
普段は任務で走り回ったり、鍛錬で体を動かしているルシアにとって、淑女としての装いはまさに苦行だった。
「(淑女とは、私達とはまた別の方向に毎日修練に励んでいるのね……!
私も見習わなければいけないわね。)」
ルシアは晩餐会について考える。
王宮が主催する晩餐会はただ座って食事をするだけではない。
社交の場であり、舞踏会も兼ねている。
「(舞踏会ではなくて、武闘会ならまだ自信が有るのだけど……!
少なくとも、公爵に恥をかかせないように努めないと……!)」
動き辛い上に、締め付けられた胴体。
息をすることも辛いが、これも鍛錬であり、ハンデを背負った上での護衛任務だと自分の心を奮い立たせる。
「さあ、髪の仕上げをしましょうね。
ルシアさまの黒髪は、まるで夜闇のようで、深みがあってとても素敵です!
今夜のドレスに合わせ、青いリボンを編み込みましょう。」
サリィの手際の良い作業で、ルシアの黒髪は美しく編み上げられていく。
普段は質素な一つ結びが多いルシアにとって、こうして丁寧にセットされる髪は新鮮だった。
一通りのルシアの準備が終わった頃。
「失礼、シュバルツ嬢。
そろそろ準備は出来ましたか?」
ルシアの準備が整ったことをアストルから聞いたレオナルドがルシアの部屋へと現れた。
……と、言いつつも、実際にはレオナルドがルシアの部屋の前に到着して数分。
ルシアの部屋のドアをノックするまでに心を落ち着ける時間を数分要した実態があったりする。
レオナルドがルシアの部屋の前に立ち、緊張を誤魔化すために一つ深呼吸をしたりと大忙しだった。
「申し訳ありません、公爵閣下。
お待たせ致しました。」
ルシアの準備を終えたサリィが扉を開け、レオナルドを部屋へと招き入れた。
「……………」
全ての準備が整い、振り返ったルシアの姿にレオナルドは息をのんだ。
ルシアが好きだと言っていた深い青色のドレス。
夜空を思わせる深い青がルシアの白い肌と黒髪によく映え、凛とした雰囲気を際立たせている。
ルシアの引き締まった体を称えるシンプルなデザインが洗練された神秘的な美しさを引き出していた。
真っ直ぐな意志を宿した知性的な瞳はコルセットの締め付けによる苦痛を微塵も感じさせない、堂々とした立ち姿だった。
「あの、公爵閣下?
……やはり私には似合わなかったでしょうか……?」
言葉を失って立ち尽くすレオナルドの様子に、ルシアは目を伏せてしまう。
「(せっかくの綺麗な青いドレスも着ているのが私では……ね。)」
女性的な美しさを低い、持っていないと思い込んでいるルシア。
もともと低かったドレス姿の自分に対する評価はレオナルドの反応でさらに低くなってしまった。
「そんなことは有りません!
と、とても……綺麗です。言葉を失うほどに……
申し訳ありません……シュバルツ嬢、貴女が美し過ぎて見惚れてしまいました。」
普段のレオナルドからは想像できないほど、焦った様子で否定する。
「心から美しい、と思います。」
レオナルドの視線は、ルシアから目が離せないというように熱を帯びていた。
その頬は微かに紅潮し、緩む口元を隠すように片手を添えて顔を背ける。
「ありがとうございます、公爵閣下。
……お世辞でも嬉しいです。」
ルシアはドレス姿を褒められたことは喜びつつも、半分以上はお世辞だろうと受け取っていた。
「お世辞では有りません!
私は本心から思っています!
シュバルツ嬢、私は貴女以上に美しい女性を知りません!」
「え……あの……えっと……あ、ありがとうございます……
(な、なんか、すごい必死に褒めて下さっているけど……?
えー……何か有ったのかしら……?)」
必死に褒めるレオナルドの様子にルシアは驚いてしまう。
その様子にレオナルドの褒め言葉の裏を勘ぐってしまうのは、ルシアの隠密の性だろうか?
「…………」
ありがとう、というルシアの言葉と微笑みに再びレオナルドの頬に朱が登る。
しかし、何となくルシアが自分の賛辞を素直に受け止めてくれていない気がしたレオナルド。
その事に少しだけ落ち込んでしまう。
「旦那様。」
そんなレオナルドの気持ちを察してか、もしくは話が進まないと思ったのか……?
レオナルドの横に控えていたアストルが声を掛けた。
アストルの声掛けにハッとして気を取り直したレオナルド。
「シュバルツ嬢、その……後ろを向いていただけますか?」
「はい?」
レオナルドの急なお願いに、ルシアは少し戸惑いながらも、素直に後ろを向いた。
「……?
(これは……?)」
その胸元に、冷たい感触が触れた。
公爵の手が、微かに震えているのが、ルシアにも伝わってきた。
「今回の晩餐会のために用意しました。
貴女のために、特別に作らせたものです。
気に入って貰えると良いのですが……」
レオナルドは、ルシアの首筋に触れるか触れないかの距離で、ネックレスを留めた。
その繊細な指の動きは、普段の彼からは想像もできないほど慎重で、大切に扱うようなものだった。
「(な、なんだろう……?
変に照れくさいと言うか……は、はずかしい?
な、なに、この気持ちは……?)」
まるで、壊れ物を扱うように、細心の注意を払っていたレオナルドの動き。
一連のレオナルドの動きにルシアは照れくさいような、恥ずかしいような不思議な気持ちに囚われる。
「これは……?」
レオナルドの手が離れていくことを感じ、己の胸元に視線を向ければ、その胸元には大きな緑色が煌めいていた。
「(えっ……えっっ?!)」
ルシアが見てきた中で一番大きな緑色の宝石の付いたシンプルなネックレス。
最初は金色と大きな宝石に目を奪われ、ルシアは慌てたが、よくよくデザインを見るとあることに気がついた。
「これは……えっとエメラルドのチューリップ?」
ルシアの言葉に、レオナルドの顔に安堵の表情が浮かんだ。
彼女がチューリップというデザインに気づいてくれたことに安堵した。
「その、マリーナよりシュバルツ嬢は華やかなデザインよりもシンプルな方が好きだと聞きました。
色々と悩んだのですが、今回はグリーンサファイアで作らせてみました。
エメラルドも考えたのですが、貴女の瞳の色によく似合うのはサファイアだと思いまして。
それに、その……チューリップの花言葉を貴女に贈りたくて……」
レオナルドは最後の方を小さく呟き、少し照れたように視線を逸らしながら言った。
「申し訳ありません、あまり宝石には詳しくなくて……サファイアは青い宝石だと思っていたのですが、緑色もあるのですね。
こんなに美しい緑色の宝石は初めて見ました。
光に当たると、まるで生きているように輝きますわ。」
ルシアは、初めて見る緑色のサファイアに驚き、チューリップ云々という部分から注意が逸れてしまった。
手袋をした指先でそっと宝石に触れ、その輝きを確かめるように見つめた。
「ええ。
青いサファイアもきっとシュバルツ嬢に似合うとは思いましたが……貴女の瞳の色と同じ、深くて澄んだ緑の宝石を贈りたいと思ったんです。」
ルシアが自分からの贈り物に興味を示し、喜んでくれたことが嬉しいレオナルドは失念していた。
然りげ無くチューリップと宝石で愛情を示そうとしていたことに。
「(旦那様……その点よりもチューリップの花言葉に焦点を……。
はあ……紫色のチューリップにするか、真紅の薔薇にするべきでしたね。
グリーンサファイアの石言葉も重ねていると言いますのに。
後日改めてサリィに然りげ無くルシア様に伝えるように指示しておきましょう。)」
レオナルドの様子を見ていたアストルは心の中でため息をついた。
「素敵な首飾りをありがとうございます、公爵閣下。
大切に致します。
(きっと緑色がお好きなのね。
確かにこの宝石の色はとても美しいもの。
自分が好きだと思った色を褒めてもらえて喜んでいらっしゃるのだわ。)」
ルシアは、レオナルドの熱い視線にドキリとした。
しかし、すぐに首飾りをしている自分ではなく、単に緑色が好きなのだと勝手に解釈した。
レオナルドの言葉の裏に、別の意味が隠されているとは微塵も考えていなかった。
「…………」
自分の贈り物を大切にするという言葉と、ルシアのはにかんだ微笑みに再び見惚れるレオナルド。
「……旦那様。」
再び横に控えていたアストルがレオナルドの内心を察して先を促す。
このままでは、もう一つの本題に入る前に時間が無くなると危惧したのだ。
この時点で、アストルはレオナルドの恋路が前途多難であることを、既に悟っていた。
「っ……!
あ、あのシュバルツ嬢。」
「……?」
レオナルドから差し出された手に、ルシアは首をかしげた。
「貴女の伴侶として、エスコートさせて頂けませんか?」
「……!
よろしくお願い致します、公爵閣下。
(虫除けということですね!
公爵の想い人との関係を隠すためにも、私がしっかり務めを果たさなければ!)」
「伴侶として」という部分を強調したかったレオナルドの真意を誤解したまま、ルシアは気合を入れなおした。
「不束者ですが、(虫除け兼隠れ蓑として)精一杯努めさせて頂きます!」
ルシアはにっこりとレオナルドに向かって微笑んだ。
その笑顔は、レオナルドにとってはまるで春の花が咲き誇るようだった。
しかし、同時に何となくだがルシアの副音声が聞こえた気がして涙したくなった。
レオナルドは愛しい相手の天然さに、嬉しさと悲しさが入り混じった複雑な感情を抱いていた。
「それと……今後はその、お互いに名前で呼び合いませんか?
公的な場では、それが自然だと思うのですが……」
レオナルドは、もう一つの目的である名前呼びについて提案した。
以前よりレオナルドは思っていたのだ。
何故、自分だけがシュバルツ嬢と呼んでいるのか、と。
そう何を隠そうブランシュ公爵家において、レオナルドだけがルシアのことを未だに「シュバルツ嬢」と呼んでいたのだ。
「え?
(あれ……?
そう言えば、公爵だけが何故か私のことをシュバルツ嬢って呼んでいたわ。
んん?どうしてそうなったのかしら?
初めて出会った時に名前呼びについて……言ったかしら?)」
急なレオナルドの提案に ルシアは驚いた顔をする。
ルシアの中ではとっくの昔に名前呼びについてレオナルドに言ったつもりになっていたのだ。
そのため、レオナルドがそんな提案をしてくるなど予想外だった。
「嫌でっ、なければ……で構いませんので、どうでしょう?
私は、貴女のことをもっと親しく呼びたいのですが……」
レオナルドの言葉に、ルシアは色々と考えた。
「 (社交の場では、夫婦は名前で呼び合うのが自然なこと。
お父様とお母様は背の君だとか言っているけれど、普通は名前呼びよね?
もともと名前で読んでもらうつもりだったし、渡りに船というやつよね。
公爵も、形式上の婚約者として不自然に見えないように考えてくださったのね。
私と公爵の関係が不自然だと、かえってお二人の関係に疑念を持たれてしまうもの。
ここは私が頑張らなくては!)」
ルシアは、自分の「名推理」に裏打ちされた合理的な結論を導き出した。
……彼女の脳内では、全てが完璧に繋がっていた。
「分かりました。
えっと……レオナルド様、でよろしいですか……?
私の名前も敬称なしで呼んで下さいね。
慣れないので、少し照れてしまいますけれど……」
「っっ!」
小首を傾げて上目遣い、少し照れくさそうな笑顔のルシアに、レオナルドは胸の高鳴りを覚えた。
ルシアの愛らしい仕草に、レオナルドの心臓は早鐘のようだった。
レオナルドは、今すぐにでもルシアを抱きしめたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。
「ぜひ、その呼び方でお願いします!
その……ルシア。
初めて貴女の名前を呼ぶことができて、私はとても嬉しいです。」
レオナルドの声は、微かに震えていた。
名前呼びの関係になれたこと、僅かながら進展した関係に喜びが溢れていた。
「はい!
ふふ……何だか本当の婚約者みたいで照れてしまいますね。」
ルシアは、まるで子供のように屈託のない笑顔を見せた。
その笑顔は、レオナルドの心臓の鼓動をさらに速めた。
「「…………」」
花を飛ばして笑い合うレオナルドとルシアの二人。
その様子は、傍目には仲睦まじい婚約者同士にしか見えなかった。
「…………(旦那様……ルシア様の「本当の婚約者みたい」と言う部分に気が付いておりませんね。)」
「(ルシア様はあくまで形式上のことと捉えていらっしゃいますわ)」
「(あはー!
さすがはルシア様!
すっごく罪づくりで可愛らしい小悪魔ちゃんなところも素敵です!)」
執事長であるアストルは、公爵の恋路の行く末を案じて、深く溜息をつきたくなった。
「(知らぬが仏ですね。
しかし、ルシア様もあれほど天然とは……)」
マリーナもまた、ルシアの考え方に頭を抱えていた。
ルシアとレオナルド。
二人の行く末は、あまりにも前途多難に見えた。
しかし、レオナルドの表情は、これまでのどんな時よりも幸せそうに見えるのだった。




