5 [フォン] 泥沼の世界と一輪の花
喧騒の中にあってもエマの声だけはよく聞こえる。
アリサ・エマ・トゥーンベリ。
特別なミドルネーム呼びが許される立場じゃないのはわかっている。出会ったころからわかっていた。けれど、ほんの少しでも近くにありたくて、心の中でそう呼び慣れてしまった。
生涯、彼女をそう呼べる立場にはならないだろう。それは仕方ないと諦めているからこそ、人知れず秘めて呼ぶのは許されたい。
「フォン様っ!!!!!」
悲痛に聞こえる彼女の声に、「生きろ」と鼓舞されたように感じた。
試合の中断を意味する笛の音に安堵して、ほんの一瞬、気を抜いたのがいけなかった。敵は初めから、そんなルールに従う気はなかったのだろう。
エマの声に反応して体を捻ったけれど、相手の方が速い。
避けられないという認識と同時に走馬灯のように彼女の顔が浮かぶ。試合に勝ったら一緒にケーキを食べよう。その約束を守れないのが心残りだ。
体に衝撃が走った。
予想していた、首を折られるようなものではない。思いっきり後ろに突き飛ばされた形だ。
「アルピウム……っ!」
選手席にいた後輩が飛び出してきて助けてくれたようだ。
敵を見やると、その腰には細身の木刀の一撃が入っている。
「ニゲラ兄様……」
もし真剣が手元にあったら、その太刀筋は敵を一刀両断していただろう。
「ぐっ……」
敵からくぐもったうなり声がして、大きく反対側に飛んだ。
教師と警備兵が集まってくる。
と、敵は胸元から取り出した丸いものを地面に投げつけた。
(爆破の魔道具?!)
周りも同じように警戒したのだろう。全員同時に地に伏せる。
ドゥンッと低い音がひびいて、爆発の衝撃の代わりに、あたりを濃い煙が包む。とっさに袖で鼻と口を塞ぐ。
ケホッ、ゲホッと咳きこむ声がいくつかして、しばらく経って目を開けられるようになったころには、もうそこに敵の姿はなかった。
目の前の対戦相手がランプランサス辺境伯家のスペクタではないことに気付いたのは、試合が始まってすぐだった。向き合った時点でのほんの少しの違和感が、明らかに違う太刀筋と、本気の殺気で確信に変わった。
試合中の事故を装った暗殺だろう。
おそらく、本物のスペクタは学舎の外で身ぐるみ剥がされている。学舎のセキュリティ認証のための学生証はニセモノが持っているはずだ。
スペクタの前の試合が終わってから、この試合が始まるまでに3戦挟まっている。その間に連れ出されたか呼び出されたかしたのだと考えるのが妥当か。
この試合の審判が気づかないかと何度か見やったけれど、相手の帽子を飛ばして外野から呼ばれるまで無反応だった。間違いなく、審判は敵に抱きこまれている。
「警備兵。審判のラウラス先生を捕らえて、敵の正体を聞き出して」
「なっ! フォン王太子殿下、なんのお戯れですか?!」
「この近距離でニセモノに気づかなかったわけないでしょ? グルだよね?」
「部外者が紛れているなどという想定がなく、ただ試合の審判として真剣に立ち会っていただけです」
「うん。そのへんは僕じゃなくて警備兵と学舎に言い訳してね」
無関係を主張するラウラス先生を警備兵が連れていく。ため息しか出ない。
「フォン様! ご無事ですか?!」
観客席にいたはずのエマがいつのまにか降りてきていて、必死に駆けよってくる。一気に緊張がゆるんだ。
抱きとめようと腕を広げたけれど、何歩か手前でブレーキをかけられる。残念だ。
「心配した?」
「当たり前ではないですか!!!」
(当たり前、か)
こんなやりとりが、泣きたいくらい嬉しいなんて彼女は想像すらしていないだろう。
裏切り者。入学してきた彼女は自分にそう言ったし、その誤解を解くつもりもない。なのに心配して当たり前だというのが、どこまでもエマらしい。
「うん。ありがとう。ニゲラ兄様とアルピウムも。助かったよ」
「騎士として当然のことをしたまでだ」
「拙も礼には及ばない」
(礼には及ばない、ね)
本心なのか策略なのかが、今回もわからない。
敵はニゲラと同じ黒髪だった。それだけでニゲラ派の差し金だとするのは早計だけど、自分がいなくなって一番得をするのがこの兄だ。
出生順では王太子になれるのに、こちらの母の力が強いという一点で、王太子になれなかった第一王子なのだから。
暗殺未遂は、物心がついたころから何度目になるのだろうか。指で数えられる範囲はとっくに超えている。
中には、今回のように一部ニゲラに助けられたようなものもあったけれど、それすら策略なのではないかと思ってしまう。成功した時に疑いを持たれないようにするためには、こちら側についているように見せる必要があるのは間違いない。
「あの、フォン様」
エマからの呼びかけで、殺伐としていた気持ちが浮上する。
「ん? なに?」
「左腕、お怪我をされておりませんか?」
「どうして?」
「右腕に比べて動きがぎこちないような気がいたします。診てもらった方がいいと思うので、救護班を呼んで参りますね」
(!)
相手の大剣を受けた時から、左腕は使いものにならなくなっている。たぶん、骨にヒビくらいは入っているだろう。
これ以上心配をかけないように普段通りに振る舞っていたつもりなのに、気づかれるとは思わなかった。
(きみは……、本当に……)
余計な心配をかけたくないのに、彼女が気づいてくれたのが嬉しいなんて矛盾している。
こんなふうに駆け引きなしの優しさをくれるのはエマだけだ。出会ったころから、関係が変わったはずの今でも変わらず。
それが自分だけに向いているのではなく、こういう子なのだとはわかっている。自分が王太子であろうとただの付き人だろうと、彼女は態度を変えないだろう。
だからこそ、誰もが地位を得ることに命をかけて足を引っ張りあうこの泥沼の世界で、美しく咲くただ一輪の蓮の花に見える。
自分が触れようとしたらきっと、自分をとりまく泥が彼女を枯らしてしまうだろう。現実的な命の危険すらありえる。
婚約者に選ばれた彼女の姉は、国外追放という名目で遠ざけて命を守るのが精一杯だった。
エマは絶対に巻きこみたくない。
だから学友の距離より近づいてはいけないのに、ここまでなら学友の距離を超えていないはずだと自分に言い訳をして近づいてしまう。自分のことながら、どうしようもないと思う。
地獄の底で一本の蜘蛛の糸にすがるようなものなのだろうか。本心では、他の誰にも触れさせたくない。
(本当はね、きみと僕しかいない世界にきみを閉じこめてしまいたい。
なんて、僕が思ってるとは夢にも思ってないんだろうね。
……僕のかわいいマシュマロちゃん?)




