2 ミドルネームという特別な名前
「在校生代表、生徒会長フォン・S・テオプラストス」
壮年の教師が会場全体に響く声で言った。
この国では王侯貴族だけがミドルネームを持っていて、親しい男女間でしか呼んではいけない特別なものだ。そのため、日常的にはイニシャルで代用される。
呼ばれたフォンが壇上に上がる。涼やかな微笑に、周りの令嬢たちのため息が聞こえた。
見栄えよく切られた輝く金色の髪は、王宮付きの美容師の手によるのだろう。落ちついた銀色の瞳が知性と優しさをにじませている。
その目が他の誰でもなく自分に向けられているように感じるのは、気のせいなのか、今しがた新入生代表を務めたからなのか。わからないけれど、フォンから敵意や害意は感じない。
(騙されませんわ)
気を抜くと簡単に、フォンが姉様にひどいことをするはずがないという思考になってしまう。
半年ほど前から姉様がフォンに遠ざけられていたらしいことと、フォンによって婚約を破棄され、国外追放されたという事実を、ちゃんと自分の中に刻まないといけない。
自分の身を守るためにも復讐を果たすためにも、まず第一にフォンへの警戒を解いてはいけないのだ。
入学式典が終わると、在校生がひと足先に席を立つ。歓迎会の準備に行くのだという。
付き人が寮の部屋に荷物を運び入れるのを見つつ、父と母としばらくの別れを惜しんだ。
来賓は新入生の父母だけだ。フォンの両親、つまり現国王と王妃は来ていない。
母と王妃は幼なじみで、昔からの親友だった。それもあって自分たちは子どものころによく遊んでいた。
が、姉様のことがあってからは手紙への返信もなく、社交の場にも呼ばれないと母が怒っていた。来ていたらひと悶着あったかもしれない。
「アリサ、しっかりやるのですよ」
「はい、お母様」
「何かあったらすぐに知らせてきなさい。いつ帰ってもいいからな」
「ありがとうございます、お父様」
歓迎会に行く時間が、両親と別れる時間だ。大切そうにハグをもらって、軽く頬を寄せあう。
(しっかりするのですわ、アリサ・エマ・トゥーンベリ)
2人が乗った馬車を見送り、ピシャリと両頬を叩いて気を引きしめる。
歓迎会の会場に向かう足取りは重いけれど、周りに悟られないように意識して優雅に歩く。
「エマ、こっち」
小声でミドルネームを呼ばれたことに驚く間もなく、控え室らしい部屋から伸びた手に手を取られて引きこまれた。
すぐに扉を閉められる。
至近距離に迫っているのは、整った顔立ちの銀色の瞳だ。
「フォン様」
ドキッとしたのは突然の状況に驚いたからだろうか。親しい男女間でだけ使われるミドルネームの不意打ち受けたからなのか。
なぜか軽く抱きこまれるような形になってしまっているからだという説は必死に否定する。
(フォン様っていい香りがしますのね。って、違いますわっ!!!!!)
子どものころから、2人だけになった時には時々ミドルネームで呼ばれることがあった。お互いに子どもだったからだろう。
歳が上がり、何より関係が変わった今は、それは違うと思う。
「あの、フォン様。わたくしとフォン様は、ミドルネームを呼ばれる関係ではないかと思いますわ」
「……うん、そうだね」
彼の微笑は変わらないのに、なぜか一瞬傷ついたように見えた。気のせいだろう。
「ごめんね。僕のかわいいマシュマロちゃん」
「マシュマロちゃんでもありませんわ」
こちらも昔から時々呼ばれていて、当時はイヤではなかったけれど、今は違う。謎の愛称の距離感でもないし、よく考えたらマシュマロはなんか失礼な気がするし、そもそも「僕の」と言われる意味がわからない。
「……アリサ」
(ひゃんっ)
至近距離で落とされた音が耳をくすぐる。自分の心音が聞こえる気がする。
(落ちつくのです。落ちつくのですわ!)
そう思うのに、自分がままならない。
「君が歓迎会に行く前に忠告しておけたらと思って」
続いた言葉に、いつからか熱くなっていた顔がサァッと冷えた。
「忠告、ですの?」
「うん。ウィステリアのことは残念だけど、何が起きたのかは絶対に探っちゃいけない。いいかい?」
ひゅっと息を飲んで、バッとフォンを押し退ける。
「フォン様にそれを言われる筋合いはありませんわ! 裏切り者!!」
叫んで、叫んだ音が耳に返って、初めて自分の感覚を理解した。
裏切り者。
あんなに仲がよかったのに。フォンなら姉様を大事にしてくれると思っていたのに。2人には幸せな未来が待っていると思っていたのに。
そのすべてを、この人は裏切ったのだ。
なぜフォンが眉を下げて泣きそうな顔になるのか。泣きたいのはこっちだ。
目尻にそっと指先を当てられて、涙がにじんでいたことに気づいた。
「エマ」
そう呼ばれる関係ではないと言ったばかりなのに、懇願するように近しい人としての名を呼ばれる。
「僕のことはどう思ってくれてもかわまない。けど、ウィステリアの件に首をつっこむのだけは絶対にダメだ。君の安全のために、約束してほしい」
真剣な瞳に射抜かれて、言葉を失った。