触れた指先
玄関を出るときに、パッと目についたのは紺色の長い傘。確か少し前にこの傘を使っていたような――そんな気がする。今日は午後から雨なのに、大丈夫だろうか。清水くんは、折りたたみ傘を持ってるだろうか。そんな心配をしてしまい、思わず自分の予備の折りたたみ傘を持った。
***
大学の中は広いとはいえ、江口先輩と清水くんの2人といえば、あまりにも目立つために有名らしく……ユキちゃんはあっさりと場所を教えてくれた。
ユキちゃんは「連絡とろうか?」といってきた。
そういえば、私は清水くんの連絡先を未だ知らない。胸がちくりと痛んだ。こういう時に不便だと切に感じる。いつでも帰れば会えるからと連絡先を聞くのを先延ばしにしていた。でも改めて連絡先を聞くとなると恥ずかしいなんて――少しだけ思っていたかも。連絡先を聞きたい気持ちもあるけれど、もしや気があるなんて思われたら、と深読みしてしまう。どうやってうまく切り出そうか。
そんなことを思案しつつ、目的の場所に到達した。教えられた学部に清水くんの姿がみえる。誰か女の子とお話ししていた。栗色の髪の毛をゆるりと束ねた綺麗な女の子。清水くんに気がありそうなのがどことなくわかる。楽しそうに会話をしている気がして……なんだか心が落ち着かない。何を考えているの、みっともない、ってわかっているのに。話しかけたら……邪魔になるだろうか。
扉の前でそのまま入っていいのかどうかを思案していたら、江口先輩が私に気づいた。清水くんの腕をつんつんとつついた後、私を指差した。さすが江口先輩というべきだろうか。恐らく気遣ってくれたのだろう。
「大塚さん、どうしたの?」
清水くんの瞳に映り込む私は、あまりいい表情をしていない。逃げ出したくなるのを堪え、「今日は雨だから、傘がいるかと」と差し出した。
「ちょうど無いと思ってたんだ。それにタイミングよかったかも、一緒に帰ろう」
「でも、まだやることがあるんじゃ――」
「大丈夫、今度から帰れる日は一緒に帰ろうか? 連絡先わかんないから、教えて」
あっさりと聞いてくる。彼にとっては連絡先を聞くことなどたやすいのだろうか。いままで、聞くに聞けなかった私の葛藤など吹き飛ばすほどの。連絡先を交換し、岐路へとついた私はチラチラと美人な人の姿が脳裏に浮かび、なんだかうかなかった。会話は気もそぞろで頭に入ってこない。
「大塚さん? 何か、怒ってる?」
「あっいえ……」
「みっともない嫉妬です」なんていえない。慌ててどうにか、弁解をしようと思考を巡らす。
「実は……課題が」
なんとか捻りだした。
「それなら一緒にやろうか。どんな?」
「実は、それは――」
「話題の映画について、あとは書けば終わり?」
「そうなんです、でもその映画がちょっとホラーで」
夜も更けてきて、もう少しで日付が切りかわる頃合いに、私たちは出された課題について話していた。それが通常映画ならば大丈夫だったが、ホラーとなると話が違う。
「どんなタイトル?」
「まずは……『13日も金曜日』です」
そのタイトル通り、金曜日が13日間続くという地獄のようなホラーだ。仮面をつけた男が毎日、今日は金曜日だと告げにくる。早く土日がきて欲しいのに、いっこうにくる気配がなく、そして事件は起こった、とされている。パッケージにはおどろおどろしい男性の姿が映っている。
「もう1つあったよね? 他は?」
「あとは『ミーム街の悪夢』です」
こちらはミーム街に住む住人が、話題の猫動画に苦しめられるというホラーだ。その悪夢の内容は……ネットでも秘密としている。
「どちらならいけそう?」
「猫、ですかね。映画は30分ほどで終わりますけど」
パッケージの猫を選び、再生しようとする。
「そのくらいなら俺も一緒に見るよ。あとで一緒にまとめよう」
そうして私が部屋に持ち寄ったノートパソコンは1台。しかも小さめだ。
「ええと……」
「ああ、いいよ。俺がそっち座り直すよ」
そういって、清水くんは一人掛けのソファーを立ち上がる。そのまま向かい側にいた少し広めの私の横の位置にあっさりと座り、相変わらずの当然のようにできるイケメン対応には、心から感心してしまう。
……。
……でも。
あれ、なんか近いな、というのが最初の感想だ。
しかしノートパソコンを一緒に見ようとすると、どうしてもそうなってしまう。スマホではこの動画は共有したところで小さすぎて見えないし。
再生して画面照明や鮮度を上げるが、どうも角度が悪いらしい。
二人でこの画面を見ようとすると……暗い、ような。
「ごめん、見づらいよね」
私の方に角度を変えてくれる、がそれだと清水くんが見えなく――
「でも、それじゃ二人で見れないですよね? やっぱり今度ユキちゃんと見ようかと……」
「でも期限もせまってるし。えっと、じゃあ……もうちょっとだけ、寄れる? 無理ならいいよ」
そういわれ、少しだけ私はおずおずと近づいた。
「だ、大丈夫です。寄れます」
しかしながら肩が当たって、互いの熱が伝わる。はた、と真横を向き視線を上げるとそこには清水くんの顔がとても近くなっていて――
「……あ」
……やはりこの距離感で視線を上げるのはまだ早いかもしれない、いくら慣れたとて。清水くんも同じことを思っているのか、少しだけ顔が赤くなっている。
「その、怖かったら、手を繋いでもいいけど……」
手!?
手を繋ぐ!?
「で、でも……」
そうしているうちに予告が終わり動画がはじまった。
夢の中で、猫が花瓶やマグカップを落として割り、服を引き裂き、そして住人に凶悪な爪をふるって襲い掛かってくるのだ。無惨にも、住人は……。なんて、恐ろしい……。
思わず私の手は清水くんの袖を掴んだ。
「この動画は……やっぱり今度、飯田さんとみても……いいよ?」
「……えっと、大丈夫です……」
いわれて気をとり戻す。
――このくらいなら。
そう思っていたけれども――ふとソファーの上に置いていた手に違和感を覚える。清水くんの指先が私の小指に触れ……ている?
私は必死で気づかない振りをした。
あれ、いつからだっけ? 最初からだろうか。
気のせいでは、ないだろうかと何度も確認する。
……いや、熱が伝わってくる。
むしろ、小指が絡まっているような?
思い返せばここに手を置いたのは私だ。ということは、清水くんは怖がっている私に配慮して、何も言わずにじっとしていてくれていたのだろう。
――手を繋ごうか、というイケメン神対応を思い出す。
やっぱり手を繋いでもらうしか……いや、そんな。恥ずかしすぎる。
清水くんと?
想像しただけでかあっと顔が熱くなる。死にそうだ。それなら、さりげなく指を離した方がいい……んだろうか?
そんなことをするとわざとらしいだろうか。むしろ、触りたくありません!風なアピールに思われるだろうか。全然そういうわけじゃないけれども。自然に離す――でも、どうやるんだっけ……やっぱり手を繋いだ方が? 思うほどに不自然になる気がしてぐるぐると頭の中は堂々巡りだ。私はそのまま動けずにいた。
これはもう動画どころではない。
それでも、再生された動画の悲鳴と怒号と猫の鳴き声だけが響き、私たちは沈黙が続いていた。
そうだ――どうして、清水くんは動かないのだろう、と疑問に思った瞬間。
「……大塚さん」
いつもと、清水くんの声のトーンが違う。
何か、空気が……いつもと違う。
それがなにかは掴めない、先日の躊躇しながらの声音とはまた違う。緊張感を含む、そんな――。
この空気感は――?
「……その、俺……」
いつもより静かに、そして清水くんの少しだけ触れていた指先が動く。先ほどまで互いに絡まっていた小指が一瞬離れ、手がぎゅっと握られた。温かな熱は、そこから一気に私の身体全体へと広がっていく。息が止まる。視線を感じて、真横を直視できない。
その予想外の動きに、私の鼓動は尋常でないほど跳ねている。怖さなど吹き飛ぶくらいに。
清水くんの影が少しだけ私にかかった。
そのまま清水くんは立ち上がろうとして――
何をいうのだろうか、と思って私が見上げた瞬間に――、
ガタン、と音がした。
テーブルの上に会ったグラスが倒れ、アイスティーが零れてしまう。
「「あっ」」
慌てて、私はキッチンからタオルをとってくると、テーブルの上を拭いた。
「そういえば、さっき……なにかをいいかけてませんでしたか」
「……いや、なんでも」
私は持ってきたタオルを片付けるため、部屋を出ていこうと立ち上がる。
「やっぱりもう遅いし、明日にしよう」
そういって、清水くんは私に背を向けたまま、振り返らなかった。




