鈍色の金曜日
サイコな雰囲気のお話を書いてみたくてできた作品です。
今日は金曜日だ。久々に定時で仕事を終えることができた。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
仕事を続ける様子の同僚に軽く挨拶をし、部屋を出る。早く家族に会いたい。特に息子とはここ最近ほとんど会えていなかった。それもそのはず、私が帰宅する時間は小学生には起きているのが難しい。そんなことを考えていると、エレベーターはすぐに来た。今から帰る旨を妻に連絡しようと思い、下に向かうエレベーターの中でスマートフォンを見る。すると妻からおびただしい数の不在着信が入っていた。
「ん?」
一体どうしたのだろうか。嫌な予感がする。おつかいなどの連絡なら普段はメッセージアプリでやり取りをしているうえに、私が仕事の時間に電話をかけてくるのは珍しい。それもこんな回数だ。それだけで何か緊急事態が起こったのかもしれないと察することができた。スマートフォンを持つ手が少し汗ばみ、思わず足取りも早くなる。
会社を出て駅へと向かいながら急いで妻へと電話をかける。
「もしもし?」
「あ……あ……」
妻の声は嗚咽混じりで震えており、泣いているように思えた。かなり動揺しているのが電話越しに伝わってくる。
「落ち着け、どうした……?」
今までに感じたことのない妻の動揺ぶりに嫌な予感が的中したことを確信し、心臓が痛くなる。しかし、こちらがそれを態度に出してしまうと妻がますますパニックになることが想像できたため、私は努めて落ち着いた声でそう問いかけた。
「悠真くんが、悠真くんが……」
「悠真くん?悠真くんが、どうしたんだ」
悠真くんというのは近所に住む息子の同級生であり、友人である。私は息子が交通事故にでもあってしまったのかと恐ろしい想像をしていたため、なぜここで悠真くんの名前が出るのかが分からなかった。
「し、死んでる……」
「は?」
想定していなかった答えに驚き、そんな返事しかできなかった。
悠真くんは数日前も息子と遊んでいたはずだ。病気だという話も聞いたことがない。息子の授業参観に行った時に少し話したことがあるが、元気溌剌とした子だった。下校途中、交通事故にでもあってしまったのだろうか。確かに息子の通う小学校の近くには交通量の多い道路がいくつかあるが……。
一瞬で様々な考えが脳内を巡るが、すぐに違和感に気づく。「死んでる」とはなんだ?普通、交通事故などで亡くなったのを誰かから聞いたとしたら「亡くなったらしい」という言い方にならないか。これではまるで今、妻の目の前に悠真くんの死体があるみたいではないか。妻が偶然、事故現場に居合わせてしまったとでもいうのだろうか。もしそうならこの動揺の仕方にも説明がつく。その場合、妻の心のケアが必要だ。
「死んでるってどういうことだ?今、お前も事故現場にいるのか?」
そう問いかけてすぐ矛盾に気づく。いや、待てよ。妻が最初に電話をかけてきてから私が電話をかけ直すまでは2時間近くあったはずだ。もし交通事故ならばその間に周囲に人が集まり、救急車や警察を呼ぶだろう。そうすれば当然悠真くんは病院に搬送され、ご両親にも連絡がいくはずだ。それなのに妻が今悠真くんを目の前にしているのは少しおかしい気がする。
それに何より、私は妻のスマートフォンではなく、家の固定電話に電話をかけたのだ。それは以前妻がスマートフォンをマナーモードにしたまま着信に気づかないことがあったからだ。急ぎの用事であれば妻が必ず気づくであろう固定電話にかけた方が良いだろうとの判断だった。そうであれば妻は今家にいるはずで、交通事故の現場にいるわけはない。ますます状況がわからなくなり、考えを巡らすものの妻はなかなか答えようとしない。
「今、お前はどこにいるんだ……?」
かなりの時間沈黙が続いたが、続けて問うことはせずに待つ。
「い、家よ……!家の中で、達哉の部屋で、達哉の目の前で悠真くんが死んでいるのよ!達哉が悠真くんを殺したのよ!」
絶叫。意味がわからない。そう長くはない文章なのに、全く理解が追いつかない。音としては耳に入ってきたものの、それはただの文字の羅列であり、意味のあるものだと脳が処理できない。どういうことだ……。息子がそんなことをするはずはない、よな……?
息子には幼い頃から言い聞かせてきた言葉たちがある。
「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけないよ。そういう人には必ずバチが当たるんだ。逆に自分がされて嬉しかったことは、他の人にもしてあげなさい。そうすると、いつか自分にも返ってくるから」
「常に相手の気持ちを考えて、思いやりを持って行動することが大事なんだぞ」
「困っている人がいたら、助けてあげなさい。人は助け合って生きていくものなんだ」
これらのおかげか、息子は優しく正義感のある子に育ってくれていると思っていた。だからこそ信じられない。まさか、息子が友人を殺したなんて——。
ともかく、家に帰って妻と息子に話を聞くまでは分からない。第一、本当に死んでいるのか?妻と息子、そして悠真くんの三人がグルになって、私を騙そうとしているのではないか。帰宅した瞬間、ドッキリ大成功!とでも書いたダンボール製の看板を持ち、三人揃って笑いながら玄関に来たりして。まあ、ドッキリにしてはかなり悪質だが……。
もしくは、遊んでいる途中で寝てしまっただけなのではないか。
それとも、息子と遊んでいたら転んだ拍子にどこかに頭をぶつけたとかで脳震盪を起こし、気を失ってしまっているということも考えられる。仮に、本当に死んでいるとして、それは息子がやったのか……?偶発的に起きてしまった、不幸な事故なのではないか。もし、万が一、本当に息子がやったのだとしても、たとえば、悠真くんの方が先に手を出してきて、息子は身を守るためにやむを得ず行動してしまった、いわゆる正当防衛なのではないか?
ぐるぐると考えても答えが出るわけではないのに、考えずにはいられない。妻が嘘をついていると言いたいわけではないが、私は愛する息子を信じたかった。私は妻に返事をすることも忘れ、そのまま電話を切った。とにかく急いで帰るほかなかった。
電車の中では放心状態で、周りの音もアナウンスも別世界のもののように思え、まるで耳に入ってこなかった。しかし通い慣れた通勤経路であるためか、最寄駅に着くと身体は自然と電車を降りていた。改札を出て、駅前のタクシー乗り場へと急ぐ。先頭の一台に近づくと運転手が私の気配を察したのか、こちらが声をかける前にドアが開いた。運転手から聞かれるのを待たず、後部座席に乗り込みながら家の場所を説明する。駅から家までは車で十分ほどの距離だ。
「あっ、あの、できるだけ急いでいただけますか!」
「わかりました。」
運転手が元々寡黙な人なのか、こちらの緊迫した空気を感じ取ったのかは知らないが、道中運転手が話しかけてくることはなかった。
家が近づいてくると、家に帰るのが怖い。運転手にお金を払うと挨拶も聞かずに玄関前へと走りだす。玄関の前についたものの、家に入るのが怖い。今までに経験したことのない速さで心臓が脈打っている。このまま心臓発作でも起こして死んでしまうのではないかというくらいに、心臓が痛かった。いったいこの中で何が起きているのか。この家の中に本当に死体があるのか。警察には通報したのか。分からない。しかし、逃げることはできない。
いつもより何倍も重く感じる玄関の扉を開くと、この時間であれば聞こえてくるはずの妻と息子の話し声やテレビの音が全く聞こえないことにすぐ気がついた。一切の生活音が排除された静寂の世界はこんなにも恐ろしいのか。電話の内容から妻たちが息子の部屋にいることは想像できたため、私は2階にある息子の部屋へと向かった。自分の家なのに、なぜか音を立ててはいけないような気がして、一段一段慎重に階段を登る。階段を上り切ると、中途半端に開いている息子の部屋の扉の向こうから、妻のものと思われる啜り泣きが漏れ聞こえていた。それまでは恐怖心に頭を支配されていたが、それを聞いた瞬間妻への心配が勝り、私は気がつくと妻の元へと駆け寄り背中をさすっていた。
目の前には一人の男の子。仰向けで倒れている。ハンカチがかけられているためその顔は見えないが、おそらくこれが悠真くんだろう。そして、部屋の隅では息子が体育座りをした膝の間に顔をうずめていた。表情は見えない。
「な、なあ、達哉。何があったんだ?悠真くん、寝ちゃったのか?悠真くんのお家まで父さんが車で送って行ってあげようか。」
勝手に声が震えてしまう。本当に眠っているだけなら声が震える必要なんてないはずなのに。安心するためにも確かめなければいけない。怖いが、早く安心したい。私は震える右手でハンカチをそっとめくった。
「うっ……。」
反射的に胃から酸っぱいものが込み上げ、左手で思わず口を押さえる。一目見てわかった。これは明らかに、死んでいる。無表情で、人形のような顔。土色のその顔からは、全く生気が感じられなかった。今から急いで救急車を呼べば助かるかもしれない、などという考えがよぎる余地も無いほど明確な、死。
「おいっ、どうしたんだ!何があったんだよっ!」
私は妻と息子を交互に見る。口を開いたのは息子の方だった。
「僕が殺したんだよ。」
顔をうずめていたのでてっきり泣いているのかと思ったが、そうではなかったらしい。息子は平然としており、むしろ口角を少し上げ、誇らしげともとれる表情をこちらに向けてそう答えた。
私は息子のこの表情を以前にも見たことがある。例えば、漢字テストで満点を取ったことを報告しようと少しニヤつきながら私に話しかけてきたとき。運動会の徒競走で一着になり、保護者席の私と妻の方に少しはにかみながらもガッツポーズを見せてきたとき。いずれも褒められる直前の、嬉しさや自信が混じった可愛らしい表情だ。
しかし、今の息子に可愛らしさなど微塵もない。
「ど、どうしてだ……?」
この子は何を言っているんだ。なぜ、どうしてなんだ?いったい何がこの子にそうさせたのか——。次々と疑問が頭に浮かんでは、消える。殺す理由なんてないはずだ。息子と悠真くんとは小学一年生の時に同じクラスになってからずっと仲が良く、親友とも呼べる関係性のはずだ。どちらかがもう一方をいじめていたとかいう話も聞いたことがない。息子が悠真くんを嫌っている様子もなかった。
「うーんと、悠真くんが司くんに漫画を返さなかったから。」
「は?」
なにを言っているんだ。
「だって、借りたものを返さないのはダメなことだよね?僕がそれをされたら悲しいし、嫌な気持ちになる。それに、司くんは困ってたんだ。悠真くんに返してって言ってもなかなか返してくれないから。お父さんとお母さんのお金で買ってもらった漫画なのに、申し訳ないって泣きそうになりながら言ってた。かといって、返してって何回も言うのもなんだかちょっと気まずいでしょ。僕も司くんの気持ちがわかる。だから、司くんは、漫画を返してもらったら嬉しいんじゃないかと思って。僕なら嬉しいからね。だから悠真くんを殺した。そうしたら司くんに漫画、返してあげられるでしょう?悠真くんのことは好きだし友達だけど、だからこそ悪いことをした時にはそれに気づかせてあげるのが優しさだと思うんだ。本当の友達ってそういうことだよね?悠真くんは悪いことをしたんだから、バチが当たって、殺されて、当然だよね?」
違う。違う違う違う!チガウ!
どこで間違えたんだ私は!私は……。
右手が痛い。気がつくと私は息子を殴り殺していた。自分の下には血だらけになり、意識を失った息子が横たわっている。
子がしたことの責任は、親である私と妻が取らなければならない。どれほど辛くても子を殺さねばならない時が親にはある。我が子を憎んでいるのではない。我が子を愛しているが故にだ。それが親というものであり、子を生み出したことについての社会に対する責任だ。
私は会社でも周囲から責任感が強いと言われ、頼りにされてきた。時に、その責任感の強さに押しつぶされて頭がおかしくなりそうになる夜もあったが、それほどまでの責任感の強さというのは、類まれなる私の才能だと自負している。
目の前には二つの死体がある。今夜は忙しくなりそうだ。ああ、せっかく定時で仕事を終えたというのに。今日が金曜日で良かったと、思った。
「つっ……。」
全身に走る激痛で目が覚めた。身体は動かない。正確に言えば指先くらいであれば動かせそうだったが、痛みに耐えてまで動かしたいものではなかった。床に接している右の頬が冷たい。暗い部屋に廊下からの明かりが少し差し込んでおり、目が慣れてくるとかろうじて周囲の様子が見える程度になった。なぜ全身がこんなにも痛いのだろう。なぜ自分は倒れているのだろう。父と母はどこにいるのだろうか。声を出したいのに、大きく息を吸い込もうとすると胸に激痛が走り、うまく息を吸い込めない。周囲の状況を確認するため、頭を動かさずに目玉だけを必死に動かした。
すると、視界の端の方で母らしき人が倒れているのがわかった。ぴくりとも動かない。胸が上下していないのが、怖かった。母はどうしてしまったのだろうか。嫌な考えが頭をよぎるが、まだ決まったわけではない。そんなはずはないと、必死で自分に言い聞かせる。助けを呼ぼうにも、この身体ではどうすることもできない。早くしなければ、母が……。
そうだ、父は?父はどこにいるのだろうか。外が真っ暗なことからすると、父はすでに仕事から帰ってきているのではないか。父がこの状況に気づいてくれれば、なんとかしてくれるだろう。希望を胸に、目玉を限界まで動かして父の姿を探す。右、左。いない。今度は円を描くようにぐるりと目玉を回す。黒目が天井の方を向いたとき、上から何かがぶら下がっていることに気がついた。人の足が見える。間違いない、父だ。その足に履いている靴下は、父の日に僕が母と一緒にプレゼントしたものだった。小学生とはいえ、もう六年生だ。この状況を見れば、分かりたくなくても分かってしまう。首を吊っている。自殺だ。父は、死んだのだ。
そうだ——。僕は父に殴られ、殺されかけたのだ。恐ろしい形相でこちらに殴りかかってくる父の顔が脳裏に浮かんだ。記憶が鮮明になるにつれて目の裏が熱くなり、涙が溢れてくる。鼻の奥がツンとして痛い。父が、なぜ、そんなことを?
ここ最近、父の様子がおかしいことには薄々気がついていた。僕が話しかけてもどこか上の空で、話を聞いているのか聞いていないのかよくわからない状態のことがあった。一人で何かをボソボソと呟いていることもあった。
「ねえ母さん、父さんは誰と喋ってるの?最近なんか変じゃない?」
「そう?気のせいじゃない?きっと寝ぼけてたのよ。」
母は少し目を逸らしながら言った。もしかしたら母も父の異変には気づいていながらも、僕を不安にさせまいと誤魔化しているのかもしれない。そう思った僕は、それには気づかないふりをして、それ以上母を問い詰めることはしなかった。
今日は久々に定時で帰れると父から連絡があったのは、午後五時過ぎのことだった。
週末ゆっくりと休めばいつもの父に戻るだろう。優しくて、曲がったことが大嫌いで、いろいろなことを教えてくれる父。最近働きすぎているから、疲れているのだ。今日はいつも以上に父を労わろう。そうだ、肩たたきをしてあげるのがいいかもしれない。数年前の父の誕生日にあげた肩たたき券、まだ持ってくれているかな。持っていなくても、今日は特別にサービスをしてあげよう。面白い話をしてあげて、父を笑わせるのもいいかもしれない。父に話したいことがたくさんあるんだ。そう思い、父の喜ぶ顔を想像すると自然と口角が上がる。
母も口には出さないが鼻歌を歌ったり、いつもより少し表情が柔らかかったりするところを見ると、父が早く帰ってくるのが嬉しいのだろう。キッチンから聞こえるぐつぐつと煮立つ鍋の音や、小刻みなリズムで包丁とまな板がぶつかって立てる音が心地よい。リビングのソファーに座りながら晩御飯の用意をする母の姿を眺めるのが好きだった。
母が言うには、六時過ぎには父が帰宅するだろうとのこと。
父が帰宅するまでに宿題を済ませておいたら、父は褒めてくれるかな。そんなことを思いながら、僕は2階の自室へと向かった。勉強が得意な僕にとって、学校の宿題は簡単だ。漢字のドリルと算数のプリントを終わらせるのにそう時間はかからなかった。
窓の外を見る。外はまだ明るい。父は帰って来ていない。
僕は父が昨日買って来てくれた漫画を読むことにした。父は普段帰りが遅くなり、僕と遊ぶ時間があまり取れないことを申し訳なく思っているのか、ある時から仕事帰りに漫画を一冊買って来てくれるようになった。僕も毎朝枕元に置かれているそれを楽しみにしていた。初めは小学生に人気の少年漫画を買って来てくれていたが、それが最新巻まで揃うと、父が子供の頃に流行った漫画や、父のおすすめの少し難しい内容の漫画も買って来てくれるようになった。今のところ父が選ぶ漫画にはハズレがない。父との共通の話題が一つ増えたことが僕には嬉しかった。
父が昨日買って来てくれた漫画は、探偵もののようだった。父はサスペンスドラマや推理小説が好きだ。僕はドラマでさえ人が死ぬところを見るのは少し怖かったけど、父が早く帰って来れた日や、休みの日に一緒にご飯を食べている時には、決まって父がサスペンスドラマを見ていたため、自ずと目にする機会は多かった。そのおかげか、最近は少しずつ楽しめるようになってきていた。
漫画を読む時、僕は声に出して読むのが癖だ。小学校の国語の授業で音読をした時、感情がこもっていて素晴らしい、まるで俳優さんみたいだと先生に褒められたこともある。
漫画の物語が後半に差し掛かかると、主人公の推理が炸裂する。なるほど、まさか、こいつが犯人だったとは。追い詰められた犯人はいよいよ観念したようだ。
「僕が殺したんだよ。」
コンコン。ガチャ。
「達哉、お父さん帰ってきたよ。ご飯の用意もできてるから、下りて来なさい。」
母が優しく微笑みながら言う。その後ろに、父の姿があった。いつの間に帰ってきたのだろうか。漫画を読むのに集中していたため、玄関のドアが開く音に気がつかなかったのかもしれない。
「ど、どうしてだ……?」
父が乾燥でひび割れた唇をわなわなと震わせながら、何かに怯えるようにして言う。顔は青ざめている。僕の方を向いて僕に話しかけているようではあるが、その瞳は僕を通り越してどこか遠くを見ており、僕には意識が向いていないことがわかった。
「何が?父さんこそどうしたの?そういえばね、今日は父さんが早く帰ってくるから、先に宿題を済ませておいたんだよ。偉いでしょ!」
久々に父とゆっくり時間が過ごせると思うと嬉しくて、父の返事を待たずに捲し立てるように話してしまった。
しかし、それに対する父からの返事が来ることはなかった。気がつくと父の形相が目の前に迫り、左頬に鈍い痛みが走る。
ガッ。
えっ。
何が起きたのかを理解する前に、もう一発。
ガッ。
二発。
ガッ。
三発。
ガッ。
あまりの衝撃に床に倒れる。馬乗りになった父の力は凄まじく、抵抗しようとしても全く歯がたたない。こちらの叫びはうつろな目をした父には届いていないようだった。涙で父の顔が歪んで見える。違う。これは誰だ、これは父ではない。ナニか別のものだ——。母の悲鳴が遠くに聞こえる。僕はそのまま意識を手放した。
どれほどの時間が経ったのだろうか——。溢れた涙はとっくに乾燥し、顔面にパリパリと張り付いている。状況がわかったところで身体が動かせず声も出せない僕にはどうすることもできない。
いつまでこうしていればいいのだろうか。何もしないでも、遅くとも月曜日の朝には学校に来ない僕や、会社に来ない父のことを心配してどこからか警察に連絡が行くだろう。警察や救急が来た後は、家の前にマスコミも押し寄せるかもしれない。そうしたら僕たち家族のことはニュースになるのだろうか。ニュースになるとしたらどんな見出しがつき、どんな内容で放送されるのだろうか。テレビで見たことのある光景が思い出される。
「えー、本日午前十時頃、〇〇県××市の民家から、男女二名の遺体が発見されました。この家に住む会社員の渡辺悠真さんとその妻純子さんと連絡が取れなくなっていることから、警察は遺体がこの二人のものであるとみて捜査を進めています。捜査関係者によりますと、悠真さんが無理心中を図った可能性もあるということです。」
「うーん、仲の良さそうなご家族でしたけどねえ。休日には親子三人で出かけているところも見ましたし。」
「よく挨拶をしてくれる、感じのいい親子でしたよ。お父さんも立派なところに勤めていらっしゃって。あ、でも最近はお父さんに挨拶をしても返事がないのがちょっと気になってはいました。話しかけてもなんだかうつろというか、思い詰めた表情で。聞こえていないのかなと思って、その時は深く考えませんでしたけど。」
どんなふうに報道されるのかはわからないが、どうか、僕の父のことを悪くは言わないでほしい。優しい父なのだ。僕はたくさんの愛情をくれた父と母のことが、大好きだ。学校から帰ると、いつも笑顔でおかえりと言ってくれる母。父が帰ってくるのはいつも僕が寝てしまってからだったけど、僕は知っている。帰宅した父が僕の頭を撫でてくれていたことを。実は、時々起きていたんだ。
もし僕がこのまま死んでしまって、生まれ変わるとしても、僕はまたこの二人の子として生まれることを選ぶだろう。虹色の滑り台で、二人の元へと下りていく。次は僕が二人に愛情をあげる番だ。僕のことを殴り、おそらく母をも殺したであろうアイツは、父ではないナニかなのだから——。
遺体が二名となるか三名となるかは、僕の体力次第だった。だんだんと呼吸が不規則になり、再び意識が遠のいていくのを感じる。喉が渇いた、お腹が空いた。ああ、月曜日の給食は僕が楽しみにしている揚げパンなのに。今日が金曜日であることを、恨んだ。
最後までご覧いただきありがとうございました!
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